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人事部に着くなり、岩田が笑顔で手を上げた。
「あぁ、島波さん!」
その瞬間、緊張で体が強張るのを感じる。七香は笑顔を作ると、重たい足を一歩ずつ前に出し、ゆっくりとした足取りで岩田の元に向かった。
「岩田さん、お疲れ様です。部長から岩田さんが何か聞きたいことがあると伺ったのですが……」
「そうなんだ、実はここの数字の記入が間違えているような気がして心配で」
なるべく離れた場所にいようとしたが、岩田が立ち上がらず、しかも手元にある書類を指差したので、七香は仕方なく彼のそばに寄った。
それから指先の数字と彼のパソコンのデータを照らし合わせて確認したが、何も間違いはなかった。
「大丈夫です。ここの記入はこのままで合っていますよ」
「本当? そうか、それなら安心したよ」
「それは良かったです。では私はこれで失礼しますね」
七香がそそくさと帰ろうとすると、岩田に腕を掴まれ止められてしまう。
「あの、何か?」
「いや、無駄足を踏ませてしまって、本当に申し訳ない」
「お気になさらないでください。書類の間違いは、誰だって心配だと思いますから」
「でも本来なら僕が経理部に出向くべきだったのに、わざわざ来てもらったし……出来たらお詫びがしたいんだけど」
「お詫び……ですか?」
なんとなく嫌な予感がし、頬がピクッと震えて笑顔が崩れそうになる。
「良かったら夕食をご馳走様させてもらえないかい?」
お詫びとは程遠い、岩田は満面の笑みを浮かべて七香を見ていた。その表情からは、申し訳ないという感情よりも、どこかしてやったりというような空気を感じる。でもそれは七香が感じただけのもので、事実とは限らない。
気を取り直し、笑顔を作ってから一歩退いた。
「あの、本当にお気になさらないでください。こんなこと、よくあることですから」
「でもそれだと僕の気が済まないんだよ。じゃあお昼をご馳走するのはどうかな? ほら、前に言っていたオムライスのお店、僕も食べてみたいと思っていたし」
「そ、そうですね……」
小さな声で話しているとはいえ、他の社員たちからの視線を感じ、七香は返答に困った。このまま曖昧にすることは出来そうもない。日程を決めるまでは帰してくれない気がした。
これは自意識過剰なわけでなくても、自分へ何らかの興味を向けられていることはわかる。ただトラウマ持ちの七香は、それを好意として真っ直ぐに受け取ることができなかった。ただ何か裏にあるような疑念も拭えないーー例えば体だけが目当てだったり、二股も考えられる。早紀のように、体の関係を楽しむ人もいるのだ。
この人がどの程度真剣な気持ちで七香に向き合おうとしているのかがわからない今は、誘いを受ける気にはなれなかった。
それに岩田のようにグイグイ来る男性が少し苦手だった。もう少しこちらの意見に耳を傾けてくれないかしらーーその時にふと頭の中に昴のことが思い出される。
彼は言葉数は少ないし、抑揚もない。でもその話し方が七香には心地良かった。わかってはいたが、自分の中での男性の基準が昴であることに呆れてしまう。
あんなクズ男なのに、彼は七香の好きなポイントを突いてくるのだから不思議だ。
白山小梅
12
#借金
「もし良ければ、今日のお昼はどうかな?」
「えっと……突然言われましても……。それに今は仕事中なので、そういう会話はちょっと……」
すると少し離れた席から、他の社員の声が声が投げかけられる。
「ほらほら、岩田がしつこいから彼女が困ってるぞー」
「島波さん、せっかくだしご馳走になっちゃいなよ」
「そうそう、いい奴なのはお墨付きだよ」
そこでハッとする。あぁ、そうか。きっとこれが彼の狙いだったのだろう。七香が返事をせざるを得ない環境に追いやられてしまった。長い間はぐらかしてきたのだから、この対応も仕方ないのかもしれないが、返答に困って口をつぐんだ。
これはどうしたものかーー眉間に皺が寄りそうになるのを必死に堪えながら、頭の中で考えを巡らす。しかしここに七香の味方はいないし、約束する他に選択肢はなさそうだった。
「明日のお昼でしたら……」
すると岩田の表情がパッと明るくなる。
「じゃあ明日、約束だよ」
「わかりました。では失礼します」
なんて強引な誘い方かしらーー七香は苦笑しながら頭を下げた。こんなに気が重いのは久しぶりのことだった。その場から早く去りたくて、七香は全速力で人事部を後にした。
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