俺たちは、もはや何も考えられなかった。
ただ、一刻も早くこの場所から逃げ出すことだけを考えていた。
雨に濡れた足元が滑る。
雷が光るたびに、森の木々が、まるで巨大な手のようにも、鎌首をもたげた蛇のようにも見えた。
ミカは嗚咽を漏らしながら、必死に俺の腕を掴んで走る。
リョウは無言で、ただひたすらに前を向いて走っていた。
どれくらい走っただろうか。
時間感覚はとうに失われ、ただただ、恐怖に突き動かされるように足を動かし続けた。
不意に、ミカが足を止めた。彼女は、俺たちを追ってくるモノから逃れるために、必死に走ってきた。
しかし、彼女の顔には、もう恐怖の色はなかった。代わりに、奇妙な安堵のような表情が浮かんでいる。
「ミカ…どうした?」
俺が尋ねると、ミカはかすれた声で言った。
「見て…向こう…」
ミカが指差す先には、雨でぼやけた視界の先に、小さな山小屋が見えた。
それは、古びた、しかし頑丈そうな建物だった。窓からは光が漏れておらず、誰もいないように見えたが、それでも、この嵐と恐怖の中、一つの建物があるというだけで、俺たちの心にわずかな希望が灯った。
「行こう、あそこなら…」
俺はそう言って、リョウとミカを促した。
俺たちは、その山小屋へと駆け寄った。
ドアは鍵がかかっておらず、ゆっくりと開けて中に入る。
中には誰もいなかった。
しかし、暖炉にはまだ炭がくすぶっており、ほんのりと温かい。
テーブルの上には、食べかけの缶詰と、古びた水筒が置いてある。まるで、誰かがほんの少し前まで、ここにいたかのような気配が残っていた。
「誰か、逃げられたのかな…」
リョウが、安堵の息を吐きながら言った。
「もう大丈夫よ。ここにいれば、夜が明けるまでやり過ごせるわ」
ミカがそう言って、壁にもたれかかった。俺たちも、緊張の糸が切れたように、その場にへたり込んだ。
山小屋の壁には、びっしりと無数の記号が刻まれていた。
それは、俺たちが森で見つけた不気味な彫刻にも描かれていたものと同じだった。
俺たちが近づいてみると、記号の隙間に、かすかにくぼみがあるのがわかった。そのくぼみに指をかけると、壁の一部が、ゆっくりと内側に押し込まれた。
ゴゴゴゴゴ……
壁が、地響きを立てて横にスライドする。
その奥には、真っ暗な洞窟の入り口が現れた。冷たい風が、洞窟の奥から吹き込んでくる。
「何だ、これ…」
リョウが震える声で呟いた。その時、洞窟の入り口から、あの不気味な囁き声が、より鮮明に聞こえてきた。
それは、もはや風の音でも、遠くの声でもない。まるで、洞窟の奥から、俺たちを呼んでいるかのように聞こえた。
俺たちは、もう逃げ場がないことを悟った。
山小屋は、あのモノから隠れるための場所ではなかった。
それは、俺たちを、この洞窟へと導くための罠だったのだ。
俺たちは、互いに顔を見合わせた。
言葉を交わす必要はなかった。
俺たちは、この洞窟の奥に、この恐怖の源があることを、本能的に理解した。そして、それを確かめずにはいられないという、抗いがたい衝動に駆られていた。
俺は懐中電灯をつけ、ミカとリョウを促した。
俺たちは、互いに身を寄せ合い、洞窟の奥へと足を踏み入れた。
洞窟の奥は、やがて、巨大な空間へとつながっていた。
そして、その中央には、俺たちが森で見た、あの不気味な彫刻そのものが、巨大なモノリスとなって、空中に浮かんでいた。
そのモノリスからは、あの不気味な囁き声が発せられていた。
そして、俺たちがそのモノリスに近づくと、その表面に、無数の顔が浮かび上がった。
それは、この山に迷い込み、そして、あのモノに捕らえられた人々の、恐怖に歪んだ顔だった。
「嘘だろ…」
リョウが、顔を青ざめさせて呟いた。
その時、モノリスから、一本の触手のようなものが、俺たちに向かって伸びてきた。
それは、俺たちの体を容赦なく貫き、絡めとっていく。
俺の視界が、ぐにゃりと歪む。身体の内側から、何かが侵食してくるのがわかった。
痛みも、恐怖も、もう感じられない。ただ、全身が、別の何かに作り替えられていくのがわかった。
俺が最後に見たのは、無数の触手が絡み合った、巨大なモノリスの姿だった。
そして、そのモノリスの表面には、ケンタ、ミカ、リョウ、そして俺自身の歪んだ顔が、ゆっくりと吸い込まれていくのがわかった。
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