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冬の夕暮れ、白い壁にピアノの音が淡く残っていた。
「いやぁー、黒川さん!理恵ちゃんすごいわ!!」
先生の声が、教室の白い壁に跳ね返る。
「私もねぇ、何百人と生徒を見てきましたけど、ピアノを始めて半年でここまで弾ける子なんて他にいません。天才、セルゲイ・ラフマニノフの生まれ変わりか!!こりゃ来たかなぁ!!」
「えっ? そうなんですか? 私はピアノとか音楽のことが全く分からないので……」
母・黒川育代は、思わず小さく笑う。声が少し震えていた。
「理恵ちゃんには今後、プロフェッショナルコースをお勧めしますよ! 彼女は日本……いや、世界で通用する才能を持ってます。一度、ご検討ください。埋もれた才能をこのままにしておくのは、大変勿体ないことです!」
「わ、わかりました。帰って主人に相談してみます。」
「黒川さん、あとピアノね。お宅はピアノOKでしたよね? 美鈴ちゃんのお母さんから聞いています。私、販売の人も知ってますから。良かったら紹介しますよ。」
育代は理恵の小さな手を握りながら、帰り道を歩いた。
冬の風が、駅前のイルミネーションを揺らす。
さっきの先生の言葉が、まだ頭の中で鳴っていた。
この子が……世界で。
千代田区、半蔵門駅から徒歩八分。
中古ではあるが、立派な分譲マンション。
億に近い金を出して買った部屋なのに、
夜になると、どうしてか、音が遠くに感じる。
20時を過ぎて帰宅すると、夫の辰彦が晩酌をしていた。
個人投資会社のトレーダー。
今日は上手くいったらしい。
白州の瓶が半分ほど減っている。
「おぉ、お帰り!」
既に上機嫌な声。
「ピアノ教室はどうだったかい?」
育代は、夫の手元のグラスに視線を落とした。
「すみません、先に料理を作りますね。」
「育代、不動産バブルだってさ。
このマンション、去年より1,000万は値上がってるらしいぞ」
(だから銀行も貸すんだよ。みんな同じこと考えてる。)
育代が台所に向かう背中を見つつ
「理恵、今日も上手く弾けたかな?」
「うん……多分。」
「そうか!それは何よりだ!! ははは!!」
グラスが、机に少し強く当たった。
澄んだ音が部屋に響いた。
育代は冷蔵庫から作り置きを並べ、
時間をかけずに数品の料理を整える。
皿を置く音に、グラスの氷がカランと応えた。
「おっ、こりゃまた旨そうだ!」
箸がすぐに伸びる。
若葉の香りが漂う。
白州を流し込み、辰彦は満足げに目を細めた。
何もかも、うまくいっている。
そんな空気が、部屋を満たしていた。
一通り料理を並べ終えた育代は、
辰彦のグラスにそっと白州を注いだ。
そして、今日あったことを話し始めた。
先生の興奮。
理恵の指。
ピアノという名の、まだ見ぬ扉。
白州の氷がひとつ、静かに鳴った。
育代の胸の奥にも、小さな氷が沈んだ気がした。
テレビでは、誰も見ていないニュースが流れていた。
「理恵がプロか!! そりゃすごいなぁ。俺達には音楽なんて才能は無かったが、こりゃ天性の授かり物か!よし、ピアノも買おう。プロなら良いやつをなぁ!あはは!!」
「えぇ、でもピアノも高いの勧められて……」
「六十五万?……まぁ、理恵のためなら安いもんだ」
「でも、ちょっと無理してない?」
「投資だよ。才能へのな」
翌日、育代はピアノ教室に向かった。
理恵にプロフェッショナルコースを勧めた講師・流元のもとへ。
「そうですか、ご主人にもそう思って頂けましたか。それは何より。では先ずは、こちらのプロフェッショナルコースの契約書にサインを。あと、ピアノ販売の業者である私の古き友人、町田をご紹介致しましょう。」
育代は言われるがままにサインをした。
月謝は二十万。今の夫の給料であれば、容易い金額だ。
その後、ピアノ販売業者の町田と対面し、
中古ではあるが河合楽器のグランドピアノと同タイプ、K70を六十五万円で購入した。
同じマンションの隣に住む望月美鈴ちゃんちのピアノでさえ、その半分にも及ばない額だ。
この子が……世界で。
胸が熱くなる。
幸せすぎて、息の仕方がわからなかった。
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音楽の学校に真面目に行っている人には申し訳ないけれど、ほとんどモノにならない。演奏家や作曲家は違うかもしれないけれど、例えば音楽の世界のエンジニアなんかで、どこの国でも「うわ、こいつはすごい」って人は、だいたい学校に行ってないんですよね(坂本龍一)※出典不明
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