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#ワンナイトラブ
目の奥が熱を帯びて、視界が滲みかけたその時、私の視界は手のひらで遮られた。
ふわりと一瞬で私に染み込む香り。
「その辺で」
酷く澄んだその一言のお陰で、緩んだ涙腺から一粒涙が零れた。
急いで指で拭った。遮られた腕が壁となって周りからは気付かれてはいないだろう。
「あの」と言いかける前には彼は間に割って入るので、私の目の前は彼の背中で遮られた。良く目にするグレーのスーツは今日も皺ひとつない。
常葉くんがいる、
それだけで、私のがらくたな心臓は息を吹き返す。
「総務部長なので、社員の勤務態度は良くご存知でしょう?」
同僚たちは、見て見ぬふりしかしないのに。
「勤怠表もご確認されてるはずですよね?事務課の勤怠表、ちゃんと目を通してます?」
「あぁ、確認済みだが」
「だったら一人だけ異様に残業も多いの、周知のことで彼女に責任を押し付けるんですか?」
違う部署なのに後輩なのに、だるいとか面倒とか、嫌そうに言うくせに。
なんで、助けてくれるのだろう。
「大層な言い分もお聞きしましたけど、大体、社員が一人抜けただけで機能しなくなる部署、果たして正常とは言えるんですか」
普段の勤務形態が白日に晒されればドキリと胸が汗をかく。
「穂波さんが居れば、大丈夫ですよ」
しんと静まり返ったオフィスに、ひとつの声が届いた。
「たしかに、責任感も人一倍あるから結婚して退職はまずしないだろうな」
「そうですよね、意識高いし、男っ気ないし」
「なにより仕事好きですよね?」
「いつも文句言わずに引き受けてくれるし」
「残業も、嫌なんて言わないし」
「ほんと頼りになるんですよ」
「退職されたら、困るかも」
次々と言い訳めいた言葉と共に笑い声が、狭いオフィス内に響く。
…………そっか。
今まで何人も、仲間を見送ったけれど
私はそれを望むことすら出来ないんだ。
「まじで腐ってんな」と、ため息とともにポツリと呟いた彼の腕を小さく掴んだ。
「常葉くん、大丈夫ですよ」
でも、何でだろう。
悔しいとか情けないとか、そんなことよりも先に、仕方ないって思える。
「…………平気です、ありがとう」
殻に閉じこもってばかりで、感情すら出せない私だ。
自信もない私が仕事の面だけでも報われて、良かったじゃないか。
1人で納得していれば「おや、坂本部長、どうされました?常葉も」と、聞き慣れた声が届いた。
振り向くと離席していた部長が戻って来た様子だった。
「先程の書類に不備があったので、注意に」
「そうですか、それは失礼!穂波は最近頑張りすぎなので、多めに見て下さい」
部長同士が話せば、総務部長は「頼みますよ」と、言葉を残して立ち去った。
一礼して見送ると、何故かまだ残っていた常葉くんは「部長」と、その中年男性を呼んだ。
「この人今日定時上がりで良いですか」
「そうだな。所で常葉はどうした、あれか?穂波のあれか?」
「まぁ、想像はご自由に」
「え」間の抜けた声が口から漏れると、「えぇ!?」と、オフィス内からは主に女性の声が響いた。
ま、まずい、勘違いされてしまう……!
「ちがいますよ!!常葉くんも、否定しましょうよ!?」
「ついでに急にこの人抜けたんで、引き継ぎ受けて良いですか」
「そうかそうか、だったら定時までそうして構わんぞー」
私の言葉は無視して「あざす」と、簡単なお礼を述べた常葉くんは背を向けて、一度だけこちらを振り向いた。
「行きましょうか」
甘い目元が勝ち誇るみたいに細くなるから、視線を交わすことは困難で、ウロウロと泳がせていると歩き始めてしまうから急いでその背中を追い掛けた。
また、”偶然”……助けてくれた。
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