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紗奈《さな》が言うのは、守近夫婦の名をつけられた猫と、守近夫婦とを勘違いして、捜索しようとした、検非違使《けびいし》の男のこと。
思えば、その者に非はない。が、近頃、とみに評価の悪い、検非違使職だった為に、「わからんちんの髭モジャ男の図」と、辻々の屋敷の塀に、似顔絵を落書きされる始末で……。
面が割れて、余程支障が出ているのだろう。頬かむりまでしているとは。しかし、それが、斉時《なりとき》の痴態を押さえこむ事に役立ったのだ。
「しいっー!なんだか、様子がおかしいですよっ!」
紗奈が、身を屈め几帳《ついたて》から顔を出して様子を伺っていた。
確かに、言われてみれば、二人の会話には、勢いがなくなっている。
勝負あったということだろうか。
いや、そもそも、安見子《やすみこ》が、守近の屋敷へやって来たのは──。
「……徳子《なりこ》様。と言うことで、其方《こちら》の女房、橘《たちばな》を、主様《なりときどの》の召人《めしうど》に、迎えとう思いまして。ただならぬ仲のようですから、こちらも、それなりに、考えませんと、どなたかに、やはり受領《ずりょう》の娘と、揶揄されますでしょう?」
──そういうゆう理由からなのだ。
「斉時《なりとき》様?召人ってなんですか?」
「紗奈には、難しいか。いや、それは、こっちが、聞きたいわっ!あいつ、勝手な事をしてっ!」
安見子!と、怒鳴り、斉時が、立ち上がる。その勢いで、隠れていた几帳が、ガタンと音を立てて倒れた。
いきり立つ斉時。這いつくばる童子《さな》。脇で座っている守近。おかしな取り合わせに、女達は目を丸くした。
「まあー!斉時殿!盗み聞きですかっ!」
安見子が、叫ぶ。
「あー!ついでに、盗み見みも、しておったっ!」
負けじと、斉時も叫ぶ。
「なんと!はしたない!」
「はしたないは、お前だろう!よくも、案内を無視して、勝手に徳子様の房《へや》へ、入り込みおって!」
「入り込んだなどと!どうせ、客間で、そのまま、待たされるのです。待った挙げ句、急用が出来たと、帰らされるならば、房へ運んだ方が早いでしょう!」
安見子は床に崩れ混み、わっと泣き出した。
「あー、守近、徳子様も、申し訳ない」
「皆様には、わかりませんわよ!身分が、低ければ、挨拶事とて、居留守を使われるのですからっ!」
泣きじゃくりながら、安見子は、駄々っ子のように、一人ごちた。
「差し出がましいようですが、安見子様は、もう斉時の正妻。受領の地位は、終えておられましょう?」
たまりかねた守近が、安見子に声をかけた。だが、安見子の気は収まらず、泣いてばかりいる。
「すまんなぁ、守近よ。こいつは、私が、もうちいと、位があると思っていたんだ。それを、まだ、ぐちぐちと」
「と、いっても、私は、四位。斉時も、四位だろ?受領とて、概ね、四位のはずだが?皆、同じだろうに」
あー、それが……と、斉時が言い渋る。
受領《ずりょう》とは、他国《ちほう》へ赴き、長として、その地を管理する役人の事で、概ね、四位、五位の位《くらい》を持つ者が受け持った。
しかし、長、と名が付こうが、どんなに足掻いても、受領は、四位、五位止まり。それ以上の位《くらい》は望めない。
その為、赴任先で、賄賂を要求したり、年貢を引き上げたり、私腹を肥やす者が多かった。しかし、安見子《やすみこ》の父は、その手の才覚に恵まれず、下級貴族の道を地味に歩んでいたのだった。
かたや、守近はといえば、同じ四位の身分であるとはいえ、羽林家《うりんけ》の産まれである。
羽林とは、武を司る近衛府の別名で、近衛少将、中将の、職を経て、中納言、大納言──、つまり、政《まつりごと》を牛耳る地位へ昇進する事が約束されている武官家の称でもある。
そして、守近。正妻は、正三位、大納言が姫──。
つまり、同じ四位だから……、では収まらない格の違いがあったのだ。
さて、縁あって、安見子は斉時《なりとき》に輿入れした。夫は、輝く未来が待っている、かの少将、守近様の竹馬の友。
安見子は、自分にも運が巡ってきたと期待していた。
が、蓋を開けてみれば、自分より、五つも年下の男、そして、ただのお調子者……。
確かに、実家よりは、暮らし向きは良い。しかし、都一のお調子者なる、通り名のまま、日々、ふらふら出歩く夫では、輝かしき高位は、簡単には望めそうになく、所詮、下級貴族の受領の娘だったのだと安見子は落胆する。
ここは、正妻、北の方として、君臨するしかないと奮起し、斉時にも、守近と同じ四位なのだから、箔を付けろと、発破をかけていた。
ただし、相手は、斉時。何を言おうと、どこ吹く風で──。
そうして、よりにもよって、守近の屋敷の女房に手を出し、何を寝ぼけたのか、一糸纏わぬ姿で、大路を駆けたという、笑い話にもならない、醜態を見せてくれた。
安見子は、女房、橘《たちばな》を、屋敷に引き取り、召人《めしうど》として、夫の側に置こうと企てる。
召人、つまり、側室の様に公にはできない、夫の女《おなご》として、迎え入れ、理解ある正妻と、世に認めさせようとしたのだ。
それが、安見子の女としての意地、などと、かの斉時にわかるはずもなく、もちろん、唐突な申し出を受けた徳子《なりこ》側も、合点がいかない話に思えていた。
「まあ、あれこれ思いがあるようで、こやつは、格やら箔が欲しいと、高望みしすぎているのだ。守近よ、許してやってくれ」
斉時は、頭を下げた。
「ふふふ、斉時様ご夫婦も、仲が、およろしいこと」
御簾の向こうから、鈴を転がしたような徳子の声がする。
「あぁ!やはり、私《わたくし》のことを、笑っておるのですっ!」
興奮した、安見子が、再び叫ぶ。
「おいおい!いい加減にしないか!ほれ!そこの、木更津《きさらず》!お前、何を惚けてる!のっぺりした面で、控えてんじゃない!安見子を連れて帰るぞ!これ以上、恥をさらすなっ!」
なんだかんだと、大騒ぎの末、橘の事は、一旦、据え置くことにして、安見子は、斉時に引きずられ帰っていった。
「やれやれ、静かになりましたなぁ。徳子姫。お疲れでしょう。どうぞ、お休みください」
斉時だけでも、手に余るのに、その北の方まで、あの騒ぎよう。とはいえ、何やら、似た者同士のような気もしつつ、身重の徳子を気遣う守近だった。