テラーノベル
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復興が進む王都に、柔らかな春の雨が降り注いでいたある日のこと。
王邸の執務室で、新しく届いた苗木の目録を確認していた元貴は、廊下から聞こえてきた「ただいま」という低く、どこか気まずそうな声に顔を上げた。
「おかえり、ひろぱ。今日は橋の補強に行くって……」
振り返った元貴の言葉が、驚きで止まった。
そこに立っていたのは、国最強の剣士であり、現王配でもある若井滉斗の、あまりにも無惨な姿だった。
漆黒の髪は水滴を滴らせ、あちこちに泥がこびりついている。軍服を改造した作業着は、もはや元の色が分からないほどに汚れ、まるで沼地を這いずり回ってきたかのようだった。
「ちょっと、どうしたのその格好!? 怪我!? 敵襲!?」
「……いや、違う。騒ぐな」
慌てて駆け寄り、着替えとタオルを準備し始める元貴に、滉斗はバツが悪そうに視線を逸らした。
元貴が温かい湯を沸かし、汚れた上着を脱がせながら話を聞くと、滉斗の口から語られたのは、壮絶な戦場とは程遠い、あまりにも彼らしい「奮闘」の記録だった。
「笑うなよ?……町を歩いていたら、老人に呼び止められたんだ。猫が泥濘にはまって動けなくなっていると」
「猫?」
「ああ。助けようとしたら、今度は子供が泣きついてきた。池の中の岩に取り残された猫がいる、とな」
滉斗は大きな溜息をつき、濡れた前髪を乱暴にかき上げた。
彼は今日一日、町の老人や子供たちに頼まれるがまま、王都中に散らばった猫たちの救助活動に奔走していたのだという。泥地に片足を取られた仔猫を抱き上げ、冷たい池に飛び込んで震える親猫を救い出す。そうして「猫助け」を繰り返した結果が、このびしょ濡れの泥だらけというわけだった。
「ふふ、あはは! なんだ、そんなことだったんだ。でも、ひろぱなら術を使えば、もっと簡単に助けられたんじゃない? 氷の道を作るとかさ」
元貴が可笑しそうに笑うと、滉斗はタオルを頭から被り、籠もった声でボソリと呟いた。
「……使おうとは思った。だが、あいつらはあまりに小さくて、弱っていたからな」
「え?」
「俺の術は、常に命を奪うために研ぎ澄まされてきたものだ。……あんな小さな命に、俺の冷気を少しでも当ててみろ。助けるどころか、凍えさせて殺してしまいそうだ」
だから、術は使わなかった。
かつて軍隊を一夜で氷漬けにしたその力ではなく、泥に汚れ、水に濡れることを選んだ自分自身の手で、一つ一つの命を掬い上げたのだ。
「……ひろぱは、本当に優しいね」
元貴は、泥のついた滉斗の大きな手を、自身の清らかな水術でそっと洗い流した。
最強の剣を持ちながら、猫一匹のために術を封じ、泥だらけになることを厭わない男。その不器用な慈悲深さこそが、元貴が命を懸けて愛した「若井滉斗」という人間の本質だった。
「……笑うなと言っただろう。ほら、次は俺が洗う。お前まで汚れるだろう」
「いいよ、一緒に綺麗になろうよ。……お疲れ様、町の英雄さん」
湯気の立ち込める部屋の中で、滉斗は小さく鼻を鳴らした。
その顔には、かつての冷徹な「氷の仮面」の欠片も残っておらず、ただ一人の愛する人の前で見せる、穏やかな熱が宿っていた。
王都の猫たちは、その後しばらく、恩人である黒衣の剣士を見かけるたびに、誇らしげに喉を鳴らして擦り寄ったという。
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