翌朝、一人通勤電車の中。
ガタンゴトン……
一定のリズムで揺れる車体は、まるで大きな生き物の心臓の鼓動のようだ。
早朝にもかかわらず、車内はすでにぎっしりと人が詰まっていて
俺は吊革にぶら下がりながら、体勢を保つだけで精一杯だった。
スマートフォンのニュースアプリを立ち上げると、画面の明るさが目の前の乗客の疲れ切った顔を青白く照らす。
そして、やはり例の通り魔事件の記事がトップに踊っていた。
その見出しを目にするたび、胸の奥がきゅっと締め付けられるような嫌な予感がする。
<文京区連続ケーキ通り魔殺人事件 ︎︎今月4件目 警察は警戒を強化>
スマホ画面をスクロールする指先が、呼吸を忘れたかのように自然と止まった。
被害者の詳細までは書かれていなかったが、今回は男性だったこと。
そして、やはり深夜零時過ぎの犯行で、どれもケーキ狙いだということが記されている。
この異常な犯行の手口に、俺の心は重く沈んだ。
「…最低すぎる」
思わず小さく、誰にも聞こえないほどの毒づきが口から漏れた。
この世のどこかに、何の罪もない同種ばかりを無差別に狙う人間がいるという事実に腸が煮えくり返る思いだ。
俺の世界は、ケーキでもフォークでもない普通の人間もいるけど
ケーキやフォークの人間が多いのは確か。
もちろん、全員が犯罪者ではないし、大半は善良な市民だ。
むしろ、フォークに対して偏見を持つ者の方が世間では大多数かもしれない。
それでも、こうして無差別に同種ばかりが狙われると、当事者としては嫌でも身構えてしまう。
次に狙われるのは自分かもしれない、という拭いきれない恐怖が毎日を暗く覆っている。
その時だった。
「奇遇だね?雪白くん」
不意に名前を呼ばれ、俺は肩を跳ね上げて反射的に顔を上げた。
視線の先に立っていたのは、数カ月ぶりに会う狩野さんだ。
仕事終わりのスーツ姿は相変わらずスマートだが、心なしか目元に疲労の色が滲んでいるように見える。
「か、狩野さん?お久しぶりです!」
咄嗟に、恐怖心を煽る記事の載ったスマートフォンをポケットに押し込む。
狩野さんは、まるでこの混雑が当たり前であるかのように慣れた様子で、俺の隣に並ぶように吊革を掴んだ。
その拍子に、周囲からわずかに「狭い」という空気が流れた気がした。
「例の事件、聞いた?」
静かに切り出された言葉に、俺は一度飲み込みかけた唾液を慌てて飲み下した。
「は、はい!連日報道になってますよね。まさか、今日も…」
「雪白くんケーキだし、あの事件の話で世間が持ち切りな今、尊が中々離してくれないんじゃない?」
狩野さんの問いかけに、俺の顔はみるみるうちに熱くなる。
「そ、そこまでじゃないですよ!ただ、1人で行動するのを辞めるように言われたのと…あっあとなんか護身用のスタンガンもらいました」
照れ隠しのように正直に話すと、狩野さんは声を上げて笑った。
「ぷっ…はは、めちゃくちゃ過保護だね~」
その朗らかな笑い声に、少しだけ心が軽くなる。
尊さんは一見怖いけれど、本当に俺のことを大切にしてくれているのは、理解している。
そうこう話していると、突然、俺たちの背後から重く低い声が響いた。
「誰が過保護だって?」
ドスッ、という音すら聞こえそうな勢いで
電車のドア近くのわずかな隙間、狩野さんと俺の間に大きな影が割り込んできた。
「ふぇっ!?」
俺は反射的に小さな悲鳴を上げ、バランスを崩して飛び退いた。心臓がバクバクと暴れる。
恐る恐る振り返ると、眉間に深い皺を刻んだ尊さんの顔がすぐそこにあった。
背が高い尊さんが電車で至近距離にいると、相変わらずその威圧感が半端ない。
「たっ……尊さん!いつからそこに?!」
「ついさっきだ。電車に乗ろうとしたらお前らが見えてな」
尊さんは、俺の顔を一瞥すると、すぐに冷たい有無を言わせぬ視線を狩野さんに向けていた。
「で、誰が過保護だって?」
「はー、相変わらず尊は雪白君のことになると目ざといよねぇ」
狩野さんは、困ったように苦笑いしながら両手を軽く上げた。
「尊が雪白君に色々用心させてるっていう話をちょっとしてただけじゃん?スタンガンまで持たせてたみたいだし」
「当然だろ」
尊さんは短く言い放つと、まるで自分の持ち物に触れるかのように、俺の頭にぽんっと大きな手を置いた。
その手の温もりが、緊張で強張っていた首筋にじんわりと広がる。
「このご時世だ、ケーキの雪白が一人歩きするには危険が多すぎるだろ」
「それは、まあ…そうなんですけど…」
「だから今日からは何があっても一緒に帰るぞ」
その宣言に、俺は思わず聞き返す。
「え、残業とかあっても…ですか?」
「終わるまで待ってる、それと家まで送る。もし終電を逃すことがあれば俺の家に泊まってけ」
「いや、泊まるのはさすがに…俺の分の服とかないでしょうし…!」
「それなら問題ない、お前のお泊まりセットなら手配済だ」
「い、いつの間に?!って、そもそも!」
俺は頭に置かれたままの尊さんの手を掴み、慌てて主張する。
「一応これでも成人済の男なんですけど!狩野さんの言う通り、そんなに俺に過保護にならなくても良くないですか…?」
「ダメだ、お前の昨日の発言を聞いてるようじゃ一人にはできない」
「な、なんですか昨日の発言って!」
俺は頭の上の大きな手をどかそうとしたが、尊さんは構わずそのまま髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
「とにかく、これは上司命令だ」
「…こ、こういうときばっか権力行使して!」
「危なっかしいお前が悪い」
「そういうの他責って言うんですよ!」
尊さんの仕草と声色に、耳まで熱くなるのを感じた。
「おやおやお熱いことで」
狩野さんが、面白がるように微笑んでいる。
その視線が、なぜか遠い昔の出来事を思い出すような懐かしさを孕んでいるように見えて、尊さんの眉間の皺がさらに深くなった。
「狩野は黙ってろ」
「ちぇー」
尊さんは、俺の腰に手を回して、人混みから守るようにキュッと引き寄せようとした。
「…っ!」
急な動きにバランスを崩しかけ、俺は思わず反射的に尊さんのスーツの胸元にしがみついてしまった。
鼻腔をくすぐる、尊さんの清潔感のある匂い。
「ほら、危なっかしいだろ?」
コメント
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過保護な尊さん最高すぎます🍀❤️🔥スタンガンまで持たせるとは…‼️笑でもそこまでしないと可愛い恋くん襲われちゃいますね💦🤦♀️笑最高なエピソードをありがとうございました❤️🔥👀