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尊さんが呆れたように言うけれど、その声色はどこまでも優しかった。
俺の心臓は再び激しく脈打つ。
「いっ、今のは違くないですか?!」
俺が顔を上げると、すぐそこに尊さんの整った顔があり、思わず目を逸らしてしまう。
彼の翡翠色の瞳と、自分の視線がぶつかるのが怖かった。
「そんなに驚くことないだろ」
「だっ……だって急だったから!」
尊さんは鼻で笑うと、思い出したように狩野さんに向けて人差し指を指した。
「言い忘れてたが、コイツにもあまり関わるなよ?」
まるで危険物から遠ざけるように、尊さんは警告した。
その言葉に、俺は驚きを隠せない。
「え、なんでですか?狩野さんと尊さんって古くからのお友達なんじゃ……?」
「…ただの腐れ縁だ。俺がコイツと会えば、トラブルに巻き込まれると昔からのジンクスみたいなもんがあるからだ」
尊さんの口調は軽かったが、その目は冷ややかで真剣だった。
「ま、確かにその通りだね」
狩野さんはあっさり認めて、どこか達観したように肩をすくめた。
◆◇◆◇
しばらくして電車がホームに止まり、下車する。
駅のホームの喧騒が、先ほどの密室でのやり取りを曖昧に洗い流していくようだ。
改札を通り抜け、人の波に乗って歩いていると、狩野さんが立ち止まった。
「じゃ、俺こっちだから」
「あ、はい!お気をつけて……!」
狩野さんが軽く手を振って去っていく。
俺はその背中を目で追いかけた。
その瞬間、俺の左手首を軽く掴まれ、ハッとする。
尊さんの手のひらの熱が、そのまま俺の脈拍に伝わってくるようだ。
「ほら、俺たちも行くぞ」
尊さんの低く抑えた声には、一瞬で思考を停止させるほどの有無を言わせぬ迫力があった。
「わわっ!引っ張らないでくださいよ……!」
俺は慌てて歩調を合わせる。
駅の構内を尊さんに導かれるように歩き、ビルのエントランスに到着すると、尊さんは俺の手をそっと離した。
◆◇◆◇
「よーし、今日は金曜日だし定時で上がったらみんなで飲みに行かないか?」
終業時間が近づき、課長の田島さんが提案すると
重かったオフィスの空気が一変し、賛同の声がオフィス中に上がった。
「いいですね!」「行きたーい!」
普段はあまり参加しないメンバーまで乗り気で、なんと全員参加の運びになった。
金曜日の夜の解放感が、皆を饒舌にさせている。
「雪白くんも来るよね?」
同期の美咲ちゃんが、屈託のない笑顔で俺の席に振り返ってきた。
「もちろ……あっ、でも…」
反射的に「もちろんです」と言いかけた口を慌てて閉じる。
しかしすぐに脳裏に浮かぶのは、今朝の尊さんの力強い言葉だ。
『今日からは何があっても一緒に帰るぞ』
どうしよう、と悩みながらも
俺はそっとスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。
<尊さん、今外ですよね?実は、定時後に部署のみんなと飲みに行くことになったんですけど……>
絶対ダメだと言われるだろうな、と覚悟していた。
そして、数分もせずに既読が付くと同時に、すぐに返信が来た。
<それなら俺も遅れて参加する、お前一人じゃ心配だしな>
予想外の返答に、俺は思わず目を見開いた。
<いいんですか?!絶対だめだって言われると思ったのに>
<あんな事件が起きてるんだ、息抜きも大事だろ?特にお前はな>
「ふふ…尊さんってば……」
思わず笑みがこぼれてしまった。
心配はしてくれているけれど、俺の気持ちを尊重してくれたことが、何よりも嬉しかった。
「大丈夫?誰かに連絡?」
美咲ちゃんが不思議そうに首をかしげる。
「そ、そんなとこです!行きます!あと、遅れて主任も来るそうです!」
嬉しさと安堵で、俺の笑顔は本物になっていた。
◇◆◇◆
居酒屋の個室に集まったのは総勢十人ほど。
会社とは違う顔を見せながら、賑やかな笑い声が絶えない。
個室の壁が、笑い声と熱気でほんのり曇っているようだ。
俺は目の前のビールジョッキを、喉が渇いていたこともあって少しずつ飲み進めていた。
炭酸の苦味が、一週間の仕事の疲れを溶かしてくれるようだ。
「それでキミはいつ結婚するんだ?」
田島課長が、隣の席に座った美咲ちゃんに突っ込む。
「まだそんな予定ありません!まずは恋人が出来たらって感じで……」
「こりゃ~雪白くんにチャンス到来か~?同じタイミングで入ってきた同期だし顔立ちもいいしな~」
話が急に自分に振られ、俺は飲んでいたビールを噴き出しそうになり、思わず肩が跳ねた。
「えっ?!俺ですか?!」
「雪白って落ち着いてるし誠実そうだもんな~!美咲ちゃん良いじゃん?」
「ちょ……ちょっと待ってくださいよ……!俺、彼…こ、恋人いますから!」
焦って否定すると、室内から「えー!そうなんだ!」という驚きの声と「なんだよぉ」という残念そうなため息が同時に上がった。
「じゃあ今度紹介してよ!どんな人か気になる!」
「そ……それはそのうち……」
俺の恋愛事情に話題が集中し始め、なんと返せばいいのか戸惑う。
顔が熱くなるのを感じた、その時だった。
個室の扉が静かに開き、背後から低い声が響いた。
「悪いな、少し遅れた」
現れたのは、一分の隙もなくダークスーツを着こなした尊さんの姿だった。
普段、主任という立場で接していても感じる
彼の持つ独特のオーラと威圧感が、一瞬でこの賑やかな室内の空気を引き締めた。
「あっお疲れ様です!」
「え、烏羽さんが来るとか珍しくない?!」
皆が敬意と驚きを込めて尊さんを見つめているのがわかる。
「たまにはな」
尊さんは、そう言いながら、周囲の視線など気にも留めず
まるで最初から決まっていたかのように、迷いなく俺の隣に腰を下ろす。
するとちょうどタイミングよく店員が顔を見せた。
「失礼します、追加オーダー伺います~」
「とりあえず生で」
尊さんは慣れた様子で注文を告げ、それを皮切りに、他の人たちも我先にと注文を続けていった。
(と、とりあえず助かった……)
話題が変わったことに心底安堵しながら、グラスに残ったビールを傾ける。
苦味のある炭酸が喉を通る感触が、妙に気持ちよかった。
「恋、今日は飲み過ぎるなよ?」
尊さんが、周囲に聞こえないように小声で呟いてくる。
その声の響きに、また胸がドキリとした。
「大丈夫ですって、さすがに気をつけますって!」