テラーノベル
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胸の奥で、何かが微かに揺れた。
ほんの一瞬。名を呼びかけそうになって、喉で止まる。
縫季が水を落とす手を止める。柄杓が花壇の縁で小さく鳴った。
彼は半歩だけ下がり、何もなかったように姿勢を整える。
縫季は一歩下がり、深く頭を下げる。
「おはようございます、殿下。本日の執務の準備は整っております」
帝辛は一瞬、花壇に視線を落とした。ほんの一瞬。だが、確かに。
縫季は、頭を下げたまま動かなかった。
帝辛の目には、それが礼の深さに見えた。
だが縫季の視線は、帝辛の顔ではなく、帝辛が「何もない」ふりをして視線を落とした場所――花壇の縁を、たしかめるように撫でていた。
何もなかったことにする手つき。それを、見てしまった目。
帝辛は気づかない。自分が、いま何を堪えている顔をしていたのか。
――いつもなら。
その思いが、勝手に浮かぶ。
衣の合わせ。ほんのわずかな歪み。
清朗なら、何も言わずに直していた。
帝辛は、そのままにしていた。
気づいていないふりをするほど、愚かではない。だが、今さら直すほど、無自覚でもなかった。
一拍遅れて、声が落ちる。
「……殿下」
縫季だった。
「その、衣の合わせ目を」
言葉は短い。距離も、崩れない。
縫季の手が――ほんの少しだけ動いた。
指先が、帝辛の衣の合わせへ伸びかける。いつもなら、何も言わずに直してしまう距離。あの男が、当たり前みたいに越えてきた距離。
だが縫季は、途中で止めた。
触れない。触れてはいけないと、自分に言い聞かせるみたいに。そのまま手を引き、視線を落とす。
帝辛は、その一瞬を見てしまう。
それでも胸の奥に、薄い痛みが残った。直してほしかった、と思ったからではない。
――そこに、誰かの手が来るはずだと、身体がまだ覚えていた。
縫季は、それ以上何も言わず、一歩、下がった。
その瞬間。
縫季の掌が、冷えた。
わずかだ。息を吸う間だけ。
線が、動いている。
清朗がいた場所に、何かが満ちようとしている。満ちかけて、まだ形にならない。
(……早い)
縫季は掌を袖の中で握りしめた。握りしめて、帝辛の背中を見る。
帝辛は気づいていない。気づかないまま、花壇へ視線を戻している。
それでいい。気づかれてはいけない。
縫季は呼吸を整えた。線の揺れが、静かに収まる。
帝辛は視線を花壇へ戻す。
「――縫季、その花。大事にしてくれているのか」
声はいつものように穏やかで、淀みがない。
「……はい」
短い返答。
その返し方まで、必要以上に整っている。整っていることが、今は痛い。
◆
王太子府の朝は、耳が痛くなるほどの静寂に支配されていた。
かつてここには、絶えず「音」があった。
廊下を駆ける騒がしい足音。緊張感を削ぐような場違いな冗談。そして帝辛の心を解きほぐす、屈託のない笑い声。
それらが一晩のうちに、鮮やかに切り取られてしまった。
中庭の空気は冷たく、朝霧が地に薄く張り付いている。
「整いすぎた」秩序。
清朗という「遊び」を失った王太子府が、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされている。
整っているのに、息ができない。
帝辛は歩き出す。
縫季が後ろにつく。地を踏みしめる足音だけが、不自然な静寂を切り裂いて響いた。
視線を前に据える。歩幅を乱さない。
昨夜の声。笑っていたはずの顔。
あれを思い出した瞬間、王太子の顔が崩れる。
(今日も、やるべきことは多い)
その言葉を、胸の奥で繰り返す。
回廊の端で、一度だけ立ち止まった。
朝霧が薄く立ち上る中庭を、じっと見つめる。視線の先には、何もない。ただの空。
「……今日も、良い朝だな」
声は穏やかだった。そう聞こえるように、整える。
それでも、言葉の端に、かすかな震えが混じる。
帝辛は気づいたふりをしない。縫季が答えられないことにも。背後の気配が、少しだけ乱れていることにも。
帝辛は、その背を向けたまま歩き出す。
(今日も、やるべきことは多い)
そう繰り返しながら。胸の奥の静かな痛みだけを、誰にも見せないように。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 第40話、読み終わりました。 「良い朝」ってタイトルなのに、胸がぎゅっとなる場面ばかりでしたね…。帝辛が清朗のいた場所に視線を落とすところ、縫季が触れそうになって止めるところ、どちらも「いないこと」の重さが静かにのしかかってくるみたいで。 「整いすぎた秩序」の中で、ただただ息ができない朝。あの震えを含んだ「良い朝だな」が、すごく切なかったです。
#BL
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