テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
橘靖竜
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
歓声が、夜空を震わせていた。
「アルーは偉大なり!」
幾千、幾万もの声が、石造りの街に反響する。
松明の炎が揺れ、緑の旗が風を裂いた。
聖地エルガルド。
幾度となく血に染まり、
幾人もの王が奪い合った都。
その城門の上には今、
新たな旗が翻っていた。
人々は泣き、叫び、互いを抱き合う。
老人は天を仰ぎ、
兵士たちは剣を掲げ、
子供たちは英雄の名を口にした。
「サラディン万歳!」
「砂漠の王だ!」
熱狂は波のように街を包み込んでいく。
その中央を、
一頭の白馬が静かに進んでいた。
歓声の中心にいるはずの男は、
だが、一度として民へ手を振らなかった。
黄金の鎧。
風になびく黒衣。
その瞳だけが、
妙なほど静かだった。
サラディン。
アラビア教世界を統一し、
難攻不落と謳われた聖地エルガルドを陥落させ、
百年続いたエルガイム王国を滅ぼした男。
群衆は彼を救世主と呼んだ。
英雄。
聖戦の王。
アルーに選ばれし者。
だがサラディンは、
燃え上がる街をただ黙って見つめていた。
遠くで鐘が鳴っている。
壊れた神殿からか。
あるいは――
滅びゆく時代そのものの弔鐘か。
「終わった……」
誰かが呟いた。
だがサラディンは答えない。
その視線は、
さらに遠く。
まだ見ぬ次の戦を見据えていた。
聖地エルガルド陥落。
その報せは瞬く間に海を越え、
エウロピア全土を震撼させた。
グラム教教皇ウルバヌス三世は、
その報を聞くや否や、
祈祷の最中に倒れ、
二度と目を覚まさなかったという。
後を継いだロウム教皇グレゴリウス八世は、
直ちに諸王へ檄を飛ばした。
「聖地を取り戻せ」
「グラムの加護を示せ」
各国は騒然となった。
王たちは軍を集め、
騎士たちは十字を掲げ、
新たなる聖戦の準備が始まる。
サラディンは知っていた。
戦いはまだ終わっていないことを。
宗教の衣をまとった武人。
理想を体現する政治家。
敵味方を問わず、
誰もがその名を讃えた英雄。
その男は静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、
一人の少年だった。
病に顔を蝕まれながら、
なお誰よりも気高く、
最後まで聖地を守ろうとした王。
サラディンが、
唯一畏敬した敵。
――ボードウィン四世。
「なんということだ……」
老医師の言葉を聞き終えた時、
トリポリ伯レーモンは、
思わず天を仰いだ。
「神はこの幼き子に、
そこまで非情な試練を課されるのか」
窓の外では、
乾いた風が王宮の旗を揺らしていた。
建国より百年。
聖地エルガルドを守護してきたエルガイム王国は、
今まさに未曾有の危機を迎えていた。
――サラディン。
アラビアーナに現れた若き英雄は、
分裂していた諸侯を次々と従え、
恐るべき速度で勢力を拡大していた。
武勇だけではない。
民は彼を愛し、
商人は彼を歓迎し、
学者たちは彼を賢君と讃えていた。
トリポリ伯は早くから理解していた。
あの男は、
単なる征服者ではない。
時代そのものを変える怪物なのだと。
だからこそ、
王国内の腐敗と権力争いに絶望していた彼は、
最後の希望を、
一人の少年へ託していた。
聡明で、
誇り高く、
誰よりも王の器を備えた幼き国王。
だが――
その少年は、
すでに不治の病に侵されていた。
「……もはやこれまでか」
レーモンは、
絞り出すように呟いた。
その声には、
王国の未来を見失った男の、
深い絶望が滲んでいた。
「これは聖戦です」
ギーは高らかに言った。
「今こそビザン王国と連合し、
イージプトにいるサラディンを討つのです」
その言葉を聞きながら、
トリポリ伯レーモンは、
深い疲労を覚えていた。
王座の間には、
若い騎士たちの熱気が満ちている。
誰もが勝利を疑っていなかった。
だが――
レーモンだけは違った。
「では、そのビザン王国との交渉は
どこまで進んでおるのです」
努めて冷静に問い返す。
するとギーは、
さも当然のように答えた。
「これから始めるのです」
レーモンは目を閉じた。
思わず額を押さえる。
――駄目だ。
この男は、
何も分かっていない。
たまらず、
客将フィリップ・ダルザスが口を挟んだ。
「私の提案なのです」
「間もなく良い返事が届きましょう」
自信ありげな声だった。
だがレーモンの胸中は、
ますます暗く沈んでいく。
(……どちらにせよ)
(サラディンがこの動きを知らぬとは思えぬ)
あの男の情報網は異常だった。
商人。
巡礼者。
遊牧民。
敵国の貴族。
あらゆる場所に目と耳を持っている。
そして何より恐ろしいのは、
知った瞬間には、
すでに動き始めていることだった。
レーモンは静かに拳を握った。
エルガイム王国には、
もはや時間が残されていない。
当然のごとく、
このずさんな計画は破談した。
ビザン王国は返答を引き延ばし、
エルガイム王国の足並みの乱れを静観した。
そしてその間にも、
サラディンは着実に勢力を広げていく。
王宮には重苦しい空気が漂っていた。
そんな中、
今度はルノーが声を上げた。
「ならば北部です」
地図を乱暴に叩きながら、
ルノーは獰猛な笑みを浮かべる。
「北部要塞群を急襲し、
奴らの補給線を断つのです」
「こちらから攻め込めば、
サラディンも動揺しましょう」
騎士たちが沸き立つ。
「おお!」
「さすがルノー卿だ!」
「異教徒どもを蹴散らしてやれ!」
血気盛んな若い騎士たちは、
すでに勝利したかのような顔をしていた。
だが、
玉座に座る少年王だけは違った。
ボードウィンは、
包帯の巻かれた指先を、
静かに玉座の肘掛けへ置いた。
ボードウィンは静かにルノーを見つめ、
やがて短く言った。
「……ここに留まってくれ」
その場が静まり返る。
ルノーの眉がぴくりと動いた。
「なぜです」
「好機ですぞ」
だがボードウィンは答えなかった。
その横顔は、
年齢に似合わぬほど冷静だった。
トリポリ伯レーモンは、
わずかに目を伏せる。
――やはりか。
少年王もまた、
自分と同じ結論へ辿り着いていた。
サラディンが、
この機を逃すはずがない。
王国内の混乱。
諸侯たちの慢心。
北部への出兵。
それらすべてを、
あの男が見逃すとは思えなかった。
まだ十六歳。
だがボードウィンは、
すでに多くの老将よりも、
敵という存在を理解していた。
一方――
サラディンは、
王国側の動きをすべて把握していた。
イージプト侵攻計画。
ビザン王国との接触。
諸侯たちの対立。
そのすべてが、
商人や密使を通じ、
すでに彼の耳へ届いていた。
「愚かな」
サラディンは地図を見下ろしながら呟く。
「敵を知らず、
己を知らぬか」
彼は直ちに軍を動かした。
二万を超える兵が、
砂漠の各地から集結する。
騎兵。
弓兵。
遊牧の戦士たち。
その動きは恐ろしく迅速だった。
まるで砂嵐そのものだった。
やがて、
エルガイム王国軍の主力が
北部へ向かったとの報が届く。
その瞬間、
サラディンは決断した。
「今だ」
次の日には、
アラビアーナ最強の騎兵軍団が、
南部アスデスヨ要塞へ向けて疾走していた。
速い。
あまりにも速かった。
国境の見張り台が狼煙を上げた時には、
すでに敵騎兵は城壁の目前へ迫っていたという。
誰もが思った。
勝負は決したと。
サラディンは無敗だった。
戦えば勝つ。
それがそのときまでの常識だった。
だが――
この砂漠の英雄は、
ただ一つだけ読み違えた。
滅亡寸前の王国で、
病に侵されながら玉座へ座る、
一人の少年王。
即位したばかりの若き王の、
その底知れぬ才覚だけは、
サラディンですら、
まだ計算に入れることができなかったのである。