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5
ギーを主力とした王国軍は、意気揚々と北へ向かった。
多くの騎士団を従え、旗を掲げ、彼らは勝利を疑っていなかった。
レーモンは、静かに王へ問う。
「……よろしかったので」
病王ボードウィンは、目を閉じた。
「いたし方あるまい」
その声には、諦めではなく、冷えた覚悟があった。
「お連れいたしました」
グラム教司祭にして、王の教育係でもあるウィリアムが、静かに頭を下げた。
その後ろには、まだ年若い兄弟が控えている。
「イベリン家の者にございます」
兄は緊張した面持ちで胸に手を当てた。
弟は周囲を見回しながらも、必死に恐怖を隠している。
病王ボードウィンは、玉座から静かに二人を見下ろした。
ただれた皮膚を白布で隠したその姿に、
兄弟は思わず息を呑む。
だが王は、どこか穏やかな目をしていた。
「顔を上げよ」
静かな声だった。
「そなたらの父の忠義は聞いておる」
ウィリアムは、そんな王の横顔を黙って見つめていた。
この若き王に残された時間が、
決して長くないことを、
彼だけは誰より理解していた。
「イージプトのサラディンが、南部へ侵攻するであろう」
「戦場はそなたたちの領地周辺となるであろう」
病王ボードウィンは、静かに言った。
広間にいた者たちは息を呑む。
「私の供をしてくれるか」
王の声は穏やかだった。
だがそこには、王命というより、
命を預ける者への問いかけがあった。
兄弟は顔を見合わせる。
そして、すぐに片膝をついた。
「ははっ」
深く頭を垂れる。
幼さの残る返答だった。
だが、その瞳には確かな熱が宿っていた。
ウィリアムは静かに目を伏せる。
――また一人、
この病める王に魅せられた。
そんな予感がしていた。
王国軍は、一枚岩ではなかった。
グラム教の旗のもとに集った騎士たち。
アラビアーナ世界との共存を探る者たち。
そして、異教徒との妥協を恥とする強硬派。
同じ十字を掲げながら、彼らの見ている未来は同じではなかった。
その隙を、サラディンが見逃すはずもない。
イージプトよりサラディンが動いた。
その報が届いた瞬間、ボードウィンは目を開いた。
病に蝕まれた体である。
皮膚はただれ、手足は思うように動かない。
だが王は、誰よりも早く馬にまたがった。
「出る」
従う者は、わずか三百余り。
北へ向かった主力軍に比べれば、あまりにも少ない。
王が馬を進めると、
沿道の民たちは静かに道を開けた。
歓声はない。
誰もが、その身体が限界であることを知っていたからだ。
だが、一人の老婆が震える声で祈った。
「グラムの加護を……陛下に」
その声は、やがて群衆へ広がっていく。
「陛下に加護を」
「陛下に」
ボードウィンは振り返らなかった。
ただ、わずかに手綱を握る力だけが強くなった。
その中心にいるのは――
サラディンが唯一、計算し損ねた少年王であった。
アスデスヨ要塞へ入った病王ボードウィンは、
城壁の上から眼下を見下ろした。
そこには、
砂漠を埋め尽くすほどの軍勢が広がっていた。
無数の軍旗。
陽光を反射する槍。
砂煙を巻き上げる騎兵。
その数――二万。
若き王は静かに息を吐く。
「……これほどの兵を集めたか」
傍らのレーモンもまた、
言葉を失っていた。
対するサラディンも、
病を押して戦場へ現れた少年王の姿を見つめていた。
包帯に覆われた身体。
青白い顔。
それでもなお、
自ら最前線へ現れた若き王。
サラディンはその覚悟に、
わずかな敬意と憐れみを抱く。
だが同時に、
まだ十六歳の少年を、
どこかで侮っていた。
「このまま進む」
静かに命じる。
側近が問い返した。
「……よろしいので?」
「五千を残す、それでよかろう」
サラディンは地図へ目を落としたまま続ける。
「湾岸諸都市が落ちれば、
いずれ王国は降伏する」
その読みは、
決して間違いではなかった。
少なくとも――
これまでの常識では。
三百ばかりの援軍が城へ入った。
その数を見た瞬間、
包囲する兵たちは悟った。
――籠城する気だ。
やがて略奪が始まる。
周辺の村々から黒煙が上がり、
悲鳴が風に乗って響いてきた。
城壁の上で、
ルノーは歯ぎしりした。
「……好き勝手やりおって」
その時だった。
背後から静かな声が届く。
「ルノー、行くよ」
振り返った先に、
王がいた。
全身を包帯に覆われた、
病の少年王。
だがその瞳だけは、
驚くほど鋭く燃えていた。
城門が開く。
次の瞬間、
真っ先に飛び出したのは、
その王自身だった。
「おおおおっ!」
ルノーが吼える。
王とルノー率いる騎兵は、
略奪に散っていた敵兵へ突撃した。
不意を突かれた兵たちは混乱し、
次々と打ち倒されていく。
砂煙の中、
白馬の上で王は十字旗を掲げた。
その姿は、
まるで聖者の亡霊のようだった。
「異教徒をこの地で葬る」
静かな声だった。
だが誰よりも兵の胸を震わせた。
「――決戦である」
その言葉は、
瞬く間に南部全土へ広がった。
歩兵が集う。
諸侯が兵を差し向ける。
各地の騎士団もまた、
次々とアスデスヨへ駆けつけた。
気づけば、
王のもとには三千の兵が集結していた。
夜。
野営地では軍議が開かれていた。
天幕の中央には地図が広げられ、
蝋燭の火が揺れている。
「今こそ好機です!」
ルノーが拳を叩きつけた。
先ほどの勝利に、
興奮を隠しきれていない。
「このままサラディン軍の後方を突きましょう!」
「奴らは略奪に散っております!」
「一気に崩せますぞ!」
若い騎士たちが沸き立つ。
だが、
レーモンは静かに首を振った。
「……危険ですな」
低い声で言う。
「このままエルガルドへ戻り、
籠城するのも一策でしょう」
「北部へ出ている兵を呼び戻せば、
挟撃できるやもしれませぬ」
堅実な案だった。
実際、
多くの将がそちらへ傾きかける。
その時だった。
黙って軍議を聞いていた病王が、
ふと口を開いた。
「……君はどう思う?」
視線が向けられる。
末席に控えていた、
若きイベリン兄弟の弟だった。
突然名を呼ばれ、
周囲がざわつく。
兄は慌てたように弟を見る。
だが少年は、
静かに地図へ歩み出た。
「私も奇襲に賛成です」
ルノーが満足げに笑う。
だが次の瞬間、
少年は地図の一点を指差した。
「――攻めるなら、ここです」
天幕の空気が変わる。
レーモンが目を細めた。
ルノーの笑みが消える。
病王だけが、
静かに微笑んでいた。
まるで、
最初からその答えを待っていたかのように。
湾岸から聖地エルガルドへ続く街道。
その中程には、
深い霧と湿地に覆われた難所があった。
――モンジール湿地帯。
イベリン家が代々治める領地である。
軍議の席で、
若きバリアンは静かに口を開いた。
「湾岸地帯での奇襲は危険です」
天幕の視線が集まる。
「サラディン軍の主力は軽装騎兵。
平地では、こちらの攻撃をかわされる恐れがあります」
ルノーが眉をひそめる。
だがバリアンは怯まない。
「さらに今、湾岸諸都市は襲撃を受けています」
「民は混乱し、エルガルドも動揺している」
「その状況での籠城は危険です」
静かな声だった。
だが不思議と、
誰も遮れなかった。
やがてバリアンは、
地図の一点を指差す。
「……ですが、ここならば」
指先が止まったのは、
モンジール湿地帯。
「この地なら、軽装騎兵の機動力は殺せます」
天幕の空気が変わる。
レーモンが目を細める。
病王は黙ったまま、
若き騎士を見つめていた。
「襲撃地点までは、私が案内いたします」
その言葉に静寂が落ちる。
若者の献策ではない。
命を賭した進言だった。
そして病王は――
この戦いにあるものを運ぶように
指示を出した
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