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アグリは、戻ってくる斥候たちの報告を一つひとつ地図へ落とし込み、
戦況の把握に努めていた。
「こちらも……か。」
木炭で印を付けるたび、表情が険しくなる。
ライム川以東の五部族は、もはや裏切ったと見て間違いない。
各地の砦は応答せず、街道には敵の見張りが立ち始めている。
包囲網は、すでに完成しつつあった。
現地で徴集した兵を除けば、ここにいるグラン兵はあまりにも少ない。
この兵力で五部族を相手に戦うのは自殺行為だった。
(戦う時ではない。)
アグリは静かに結論を下す。
一刻も早くライム川の西へ退き、王を安全圏へ逃がさなければならない。
それだけが残された道だった。
だが、その時、アグリの胸に一つの疑念がよぎる。
「……まさか。」
彼は地図を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「何年も前から、この日のために準備してきたというのか。」
「コロンボへ伝令を。」
アグリは地図を畳み、立ち上がった。
「我々はライム川西岸、ケルムへ向かう。」
「はっ!」
命令は瞬く間に伝わる。
兵たちは急ぎ荷をまとめ、隊列を整えた。
もはや、この地に留まる理由はない。
目指すべきはライム川。
そして王を守り抜くことだけだった。
一方その頃。
チェルシー率いる部隊は、トイトブルグへ到達した。
街道へ足を踏み入れた瞬間、兵たちは息をのむ。
道の両脇には、無数のグラン兵が倒れていた。
折れた槍。
砕けた盾。
血に染まった軍旗。
焼け焦げた荷馬車。
戦いの激しさを物語る惨状が、果てしなく続いている。
「……おのれ。」
チェルシーは拳を強く握り締めた。
怒りに震える声が漏れる。
「敵は見つけ次第、討ち取れ!」
「砦とおぼしき柵は、すべて焼き払え!」
「はっ!」
兵たちは怒号とともに駆け出していく。
その背を見送りながら、チェルシーは北の空を見上げた。
(ライナー様……。)
(ドルトス……。)
どうか、まだ生きていてくれ。
その願いだけを胸に、チェルシーは馬腹を蹴った。
ドルトスは森の中へ駆け込み、巧妙に偽装されていた細い側道を見つけた。
草木で覆われたその道は、一見しただけでは誰にも気づかれない。
「こちらです!」
振り返ると、ライナーと親衛隊を手招きした。
「ライナー様、先にお進みください!」
ライナーは一瞬ためらう。
「だが、お前は――」
「我々がここで敵を食い止めます。」
ドルトスは静かに剣を抜いた。
「当初の予定では、この南方には兄チェルシーの部隊が展開しているはずです。」
「ここを抜ければ、必ず合流できます。」
その言葉を言い終えるより早く――
ヒュンッ!
森を切り裂く鋭い風音。
次の瞬間、無数の矢が降り注いだ。
「敵襲!」
一本の矢が親衛隊の盾へ突き刺さる。
続いて二本、三本。
「さあ、早く!」
ドルトスは数名の兵を前へ出す。
「盾を合わせろ!」
ガシャン、と盾が噛み合い、小さな盾の壁が築かれた。
狭い側道の入口を完全に塞ぐように、兵たちは肩を並べる。
「ここは我々が守る!」
ドルトスは剣を構え、迫り来る敵を真正面から見据えた。
その背後では、ライナーたちが南への側道へと駆け込んでいく。
ただ一人でも多く逃がすために。
ドルトスは、己の命をその場へ置く覚悟を決めていた。
「……運命は、かくも我をあざ笑うか。」
ライナーは苦く笑った。
ドルトスが命を懸けて守った側道。
その先へ飛び込んだ彼らを待っていたのは、逃げ道ではなかった。
木々の間から、三十ほどの部族兵が姿を現す。
槍を構え、弓を引き、獲物を待ち構えていた。
完全な待ち伏せだった。
「囲め!」
敵の怒号が森に響く。
ライナーは静かに剣を抜いた。
「……いくぞ。」
その一言に、親衛隊も覚悟を決める。
「おう!」
誰一人、退こうとはしなかった。
ここで討ち死にする。
皆、その運命を受け入れていた。
その時だった。
地鳴りのような蹄の音が森を震わせる。
「な、何だ!」
敵兵が振り返った瞬間――
轟音とともに騎馬の一団が木々の間を突き破った。
「突撃!」
槍を構えた騎兵が敵陣へ突っ込み、部族兵を次々とはね飛ばしていく。
待ち伏せは一瞬で崩壊した。
敵兵は悲鳴を上げながら散り散りに逃げ惑う。
その先頭で馬を止めた男が、深く頭を垂れた。
「王よ、ご無事で。」
コロンボだった。
五百騎の騎兵が素早く展開し、ライナーを中心に円陣を築く。
槍の穂先が一斉に外へ向けられ、誰一人近づけない鉄壁の守りが完成した。
ライナーは安堵の息を漏らす。
「……間に合ったか。」
コロンボは静かにうなずいた。
「お迎えに参りました。」
ドルトスは盾の陰へ身を潜め、じっと耳を澄ませていた。
盾へ突き刺さる矢の音。
乾いた衝撃が何度も響く。
兵たちは歯を食いしばり、ひたすら耐え続けた。
だが、不意にその音が途絶える。
「……?」
代わりに森の向こうから聞こえてきたのは、激しい剣戟の音だった。
怒号。
馬のいななき。
悲鳴。
戦いは側道の向こうへ移っている。
やがて、その音も少しずつ遠のき、静寂が森を包んだ。
「終わった……のか。」
ドルトスはゆっくりと盾の隙間から外をうかがう。
木々の間を、一人の騎馬武者が近づいてきた。
見慣れた鎧。
見慣れた顔。
「兄者……。」
チェルシーだった。
弟の姿を認めると、チェルシーは小さく笑みを浮かべた。
「よくやった。」
その一言を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張がほどける。
助かった。
王もきっと逃げ延びた。
そう思った、その時だった。
ヒュッ――。
どこから飛んできたのかも分からない一本の矢が、ドルトスの胸を深々と貫いた。
「……あ。」
力が抜け、盾が手から滑り落ちる。
「ドルトス!」
チェルシーの叫びが森に響いた。
弟の身体は静かに崩れ落ち、血がゆっくりと大地へ広がっていった。
「ドルトス!」
チェルシーの叫びが森に響いた。
ドルトスはゆっくりと兄へ視線を向ける。
口元が、わずかに緩んだ。
「……ライナー様は。」
その言葉だけを残し、
弟の瞳から静かに光が消えた。
チェルシーは崩れ落ちる身体を抱き留める。
温かな血が鎧を赤く染めていく。
「ドルトス……。」
森には、風だけが吹いていた。
コメント
1件
うわああ…ドルトス…! 最後の「ライナー様は」って、自分のことじゃなくて王様の安否を気にするなんて、もう…涙止まらないよ😭 チェルシーとやっと再会できたのに、流れ矢が容赦なかったね…。アグリの撤退判断やコロンボの救援はカッコよかったけど、その後の悲劇が重すぎる…。ライナーたちは無事なんだろうけど、この代償が大きすぎて心が痛いです…。