テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
薄暗い室内を、朝の湿った冷気が支配していた。
昨夜の嵐のような雨は上がったというのに、スラムを包む霧はさらに濃度を増している。
それはまるで、これから起こる不吉な出来事を隠蔽しようとする、意志を持ったヴェールのようだった。
隣のベッドに目を向けると、そこにあるべき体温が失われていることに気づく。
コロナリータ。
昨夜、私たちのために毛布を運び、屈託のない陽気な声を響かせていたあの女が、音もなく消えていた。
胸をざわつかせる予感に突き動かされ、私は表へ出た。
彼女は、家の前の泥濘の中に、まるであつらえた彫像のように突っ立っていた。
「おはようございます! 昨日の雨で道が分かりにくいかもしれないので、最後に出口までお見送りしようと思って。さあ、こちらですよ!」
霧の向こうから、彼女の明るすぎる声が響く。
だが、その背後に広がる深い白濁は、無知な獲物を待ち構える巨大な口腔のようにしか見えなかった。
私とアルベルトは視線を交わす。
互いの瞳に灯る不信の火種を確認し、私たちはあえてその背中を追うことにした。
足場の悪い瓦礫の山をいくつも越える。
案内を続けるコロナリータの足取りは、この迷宮のようなスラムにおいてあまりに軽やかすぎた。
ふと、真横を歩いていたアルベルトが、霧の結界を揺らさぬような微かな声で私の耳元に唇を寄せた。
「……妙に、怪しいですね」
「…アルベルトもそう思う?」
私は声を潜めて応じる。
「はい。このコロナリータという少女、やはり底が知れない。笑顔の裏側に、真っ暗な穴が開いているような、そんな空虚さを感じます」
「それは同意見だわ。何かしらの『裏』があると考えたほうが自然よね」
「と、言いますと?」
アルベルトの低い声が、冷たい風に乗って私の鼓膜を打つ。
私は前方を歩くコロナリータの楽しげに揺れる背中を見据えながら、腹の底に沈殿している不快なパズルのピースを一つずつ並べていった。
「あの酒場『バレンシア』は、カクテル言葉の『お気に入り』をなぞるように、父の執着を満たすためのお気に入りの処刑場と化していたと話していたわよね?」
「ええ、間違いありません」
「……それに、ダイキリの母であるギムレットもそう。植物状態にされ、二度と戻らぬ意識の底へ突き落とされた」
「それはまさに、ギムレットのカクテル言葉……『長いお別れ』そのものだったわ。あの男は、意味のないことはしない」
私の言葉に、アルベルトの眉間に深い溝が刻まれる。
彼は、父がいかに残酷な一貫性を持っているかを、その身を持って理解しているからだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!