プロローグ
一章 序章の幕開け
二章 足跡
三章 出逢い
四章 一本の煙
五章 嵐の前
六章 疑念
七章 戯れ合い
八章 狂犬の傷痕
九章 志向
十章 刑事の犬
エピローグ
九月、県警本部。夏の猛暑は段々と引き始め、季節は秋を迎えようとしていた。
捜査四課は、書類作りに時間を追われ、落ち着きを見せなかった。
十二時を回った頃、ようやく昼休憩が与えられ、一人の男が、ポケットに手を突っ込んだまま、部屋を出た。
喫煙所に着くと、男は慣れた手つきで煙草とライターを取り出し、火をつけた。
先程の疲れをとばす為、男は思い切り煙草を吸い上げ、大きく煙を吐く。
「やっぱり、これを吸うとあんたを思い出す」
昔話を読み上げるかのように、男は余韻に浸っていた。
この男こそ、まさに狂犬と呼ばれた刑事、犬山であった。
三月 六日。警察学校卒業まで、残り十日。
大半の生徒達が、厳正な学校生活からの解放と、新たな第一歩に興奮気味だった。
「卒業したら、皆で呑みに行こう」
寮で仕切っていた生徒の一人、泉 義孝が、皆活気に溢れる中、代表して提案した。
全員が頷く反面、不味いことを言ったかのような気まずい空気が流れる。そのまま、皆の目線は、ある一人の男に移った。
「犬山は、どうするんだ?」
上田 恭二が乗り出して質問する。
「どうするもクソもあるか。そんなしょうもない付き合いはやってられねぇよ」
犬山 健次。周りに喧嘩をふっかけては孤立した、不良生徒である。
暴行沙汰はしょっちゅうで、成績は落ちこぼれ。その割に、拳銃や推理の実力は、誰にも勝っていた。犬山は寝もせず、ただ無愛想に寝床へ転がっていた。
「まぁ、不良一人居ない所で、誰も困りはしないだろ」
呆れ果てるかのように、上田が吐いて捨てた。
「なんだとこの野郎、喧嘩売ってんのか」
寝転がっていた犬山も、跳ね上がって食いつく。
上田は、犬山の標的にされていた一人であり、犬猿の仲であった。しかし、格闘技の実力は上田の方が上回っており、唯一喧嘩に勝てる男でもあった。
「よしとけ二人とも。卒業前までこんなことしていたら、良い気にならんぞ。飲み会は、来たい人だけ来ればいい」
間を入って、泉が止めて見せた。犬山は、勝手にしろ、と言うような目つきで、再び寝床へ戻った。
十二時を過ぎても、犬山はなかなか眠れなかった。これから先の未来がそれほどまでに楽しみなわけではない。
(これでようやく、鬱陶しかった日々が終わる)
犬山にとって、警察学校は苦痛そのものだった。
決して、誇り高き警察官を目指すために、警察学校へ入校したわけではない。たった一つの、目的の過程に過ぎなかった。
夜中、寝床へ着く度、過去のことが脳裏をよぎる。何度吐き気が催したことか。
自身のトラウマから逃れる為には、自分を強く見せるしかなかった。そんな苦痛に耐え抜くだけの日々が、楽しかったなど言えるはずがない。この苦痛から解放される方法は、たった一つ。
(あいつとは、必ず俺が蹴りをつけてやる)
三月 十六日 警察学校卒業
四月 西交番勤務へ配属
翌年 南警察署 捜査一課へ配属
この一年間、犬山はある人物の動向を探っていた。
人物の名は、────犬山 茂朗。犬山の実父であった。
犬山の父親は、現在、失踪中だった。母親を病で亡くしてからは、誰とも関わることがなく、犬山自身、万引きで警察の世話になっていた為、行方不明届を出す者が誰一人居なかった。
とはいえ、父親が失踪したのは、二年前のことで、既に月日は経っていた。はっきりとした原因は、犬山にも掴めていない。
目撃情報は無いかなどの書類を漁ったが、一致するものはなく、この一年間で手に入れられた手がかりはなかった。
そして一年後、犬山は捜査一課へと配属された。父親失踪の真実を知るには絶好の機会である。
事件が公になっていない以上、他の捜査員と手を組んで捜査することは不可能である。その為、犬山はたった一人で捜査を進めるしか他ならなかった。
それでも、犬山は父親を探し出す覚悟は出来ていた。孤独で、どれだけ辛くても、目的を果たす事だけしか、犬山の眼には見えていなかった。
四月の春、犬山は南警察署へと訪れた。捜査一課捜査員としての初日である。
刑事課があるのは三階。
どうも堅苦しい印象が強かったが、案外、賑やかな空気が扉の向こうから漂っていた。
話し声や笑い声が扉の向こうから聞こえてくる。変に仲間意識が強いと、犬山にとってはかえって面倒なことである。
溜息をつきながら、犬山は時刻が来るのを待った。
時刻、というのは、初日の自己紹介のことだ。八時三十分になったら入るように、と署長から告げられていたのだ。
八時三十分。犬山は扉を開けて入った。
「おはようございます」
素っ気ない挨拶をして、部屋を見渡す。皆、新人には興味津々のようだった。
「お、来たか」
係長の溝口 友光が犬山に駆け寄ってきた。
犬山が新人だからなのか、それとも普段からこうなのか、笑顔を絶やさず、愛想のある人だった。歳はおそらく、五十前後だろう。
「以前言っていた、新人だ。自己紹介を頼めるかね」
「はい」
改めて、部屋全体を見渡す。おそらく先程笑い声をあげていただろう明るい人物、暗い人物、堅実な人物、特徴に溢れる人が揃っていた。だが、どうも気に食うような奴は居なかった。
「犬山 健次です。新人ですが、よろしくお願いします」
ごく一般的な、普通の自己紹介をして済ませる。
「ありがとうね。では、君は奥の席についてくれるかな」
溝口に指さされた席に座る。
「あ、あと」
と溝口が付け加える。
「君は、隣の席の水井巡査部長とタッグを組んでもらうことになる。頼んだぞ、水井」
「よろしく頼む、犬山」
水井 康弘。堅実で、リーダーシップのある巡査部長だ。
水井からの挨拶に、犬山は無視を貫いた。気に食わない。タッグをとるなど、犬山には毛頭なかった。
水井は諦め、自分のことに目をやった。
昼休憩、犬山は署を出ようと、扉口へ向かった。
「どこに行くんだ?犬山」
呼び止めたのは、佐々木 隆守巡査だった。普段は陽気で、仕事もこなしているらしい。
「放っておいてください」
「そう言うなよ〜、初休憩なんだからさ、お互いの情報とか交換しとこうぜ」
噂に聞いた通りの性格である。短気な犬山にとっては癪に障って仕方がなかった。
「昼飯は食べないのか?良かったらお供するぞ」
「放っとけって言ってるのが聞こえないんですか」
つい、声を荒らげる。
佐々木は拍子抜けした表情で、正気を取り戻すと、今度は顔を強ばらせた。
「…愛想のないやつめ」
吐き捨てるようにして、犬山の前を去っていった。
犬山は署を出て、コンビニで軽く飯を済ませた。
鮭おにぎり一つでは空腹が止まないが、慣れきったことである。一日一食も食べられなかった昔に比べれば、一日三食食べられる分だけ随分と贅沢な方なのだ。
向かったのは犬山の地元だった。
南署から大した距離もない。
この場所に何か遺されている物はないか、手当り次第で探しに来たのだ。交番勤務の時も来たから、これで二回目である。
地元といっても、家があるわけではない。いわば父親は浮浪者だった。
父親が居座っていたのは、人気のない、パチンコ屋の裏路地だ。
父親はたまに、そのパチンコ屋から食料を恵んでもらっては、飢えを凌いでいた。
パチンコ屋は、地元の人しか使わないような古臭い小さな場所で、裏路地に居座るものだから、勿論店主とは俺も顔見知りだった。
本来なら、すぐさま店主に父親の動向を聞き出したいところだが、一回目来た時は、聞き出す勇気がなかった。
躊躇う理由、それは、ひょっとすると、父親が既に死んでいるという事実に直結しそうだったからである。父親は、ギャンブル中毒者だったのだ。
犬山は、パチンコ屋の門をくぐった。
仕事の休憩の合間にパチンコ屋を覗くとは、刑事としてあるまじき行為であろう。そんなことはお構い無しに、犬山は店主を呼び出した。
覚悟は、もう決まっていた。
店内は、パチンコ屋でありながらも、人が少ないためか、比較的静かだった。その為店主を呼べばすぐさま声が通る。
「はいはい」
ようやく奥から店主が顔を出した。店主が犬山の顔を見ると、驚いた形相で駆け寄ってきた。
「あらら、久しぶり。誰かと思えば、健次君だなんて…。大きくなったね」
店主は女性で、名は鹿乃という。この名前は、ここのパチンコの名前にもなっていた。歳は六十程度だろう。
「悲しいことに人手が少ないもんだから、景品が沢山余ってて…。良かったら持っていきなさい」
「結構です。これでも刑事なんで、問題になると困ります」
「刑事?」
鹿乃がまたもや驚いた顔をした。時間が無い。
そんなことより、と犬山が切って言い出した。
「鹿乃さんは、父のことをご存知で?」
鹿乃は言葉を詰まらせた。
やはり、何か言い難いことでもあるのか。
「ここ最近は見てないねぇ…。それも二年くらい…」
鹿乃が知らない素振りをする。店のすぐ裏にいた事だから、餓死してればすぐ目に入るし、どこか別の場所へ行けばそれにも気がつくはずだ。
「いいんです。知ってること全て教えてください。俺、父と何も話せてないんです」
鹿乃が犬山の目を見つめる。
「それもおかしな話だね。あんたが今更こうして父親を探し出すとは」
「はい?」
「だってあんた、父親のことを恨んでたんじゃないのかい」
恨んでいた、嘘なんかではない。今もそうだ。
「それでも探すということは、それなりの理由もあるんだろうけど」
鹿乃は溜息をついて、渋々語りだした。
「分かった、あんたには知ってること全て教えるよ」
鹿乃は外のベンチに座り込んだ。
「あんたが父親の元を離れてからちょっと経ったある日、何者かが裏路地に現れたのよ。怒鳴り声ばっかりあげて、殴ったり蹴ったりする音も聞こえてきた。あんたの父親のうめき声が聞こえてきて、すぐに被害にあってるって分かったわ」
「何者かって…」
「借金取りよ」
やはりか…、と犬山は確信した。
なんとなく、既に予測はついていたのだ。
大体、父親が闇金から多額の借金をしていたことも、借金取りが度々訪れていたことも。
だがそれが原因となると、父親の安否がかなり危うくなる。それに犬山が下手に足を突っ込めば、巻き添えを喰らう羽目になるかもしれない。
「その後、父さんはどうなったんですか」
「分からない。多分、借金取りに連れて行かれて、拉致されたんだと…。大体、私は原因を作った側にあるわけだから、下手に止めることも出来ず、ただ見過ごすことしか出来なかった…」
鹿乃は申し訳なさそうに、涙ぐんで語っていた。
何も鹿乃が悪そうにすることではない。全ては父親がしでかしたことで、正真正銘の屑は、父親の方である。それくらい、犬山にも分かっていた。
「鹿乃さんは、何も悪くありません。お時間頂戴して、すみませんでした。お詫びと言ってはなんですが、これ」
犬山は一万円札を取り出した。
「あら…。いいの?お金に困ってない?」
「昔じゃ、ありませんし。あの頃は、鹿乃さんから恵んでもらってばかりでしたから」
時間は昼休憩を終えようとしていた。
おそらく、このまま署に戻っても間に合わないだろう。犬山は、すぐさまにでも戻ろうと、鹿乃に別れを告げた。
「あ、そういえば」
鹿乃が犬山を呼び止める。
「なんです」
「刑事と言ったわよね」
「ええ」
「最近ここらで発生した、通り魔事件について知ってるわ」
「通り魔事件を?」
「ええ」
鹿乃は、何か葛藤するような顔で犬山を見た。
「犯人は、うちのパチンコ屋の利用者よ」
犬山は、遅れて署へと戻った。犬山は悪びれる様子もなく、堂々とオフィスの扉を開けた。
「おい犬山、どこへ行ってやがった」
初日だぞ、と言わんばかりに、溝口が責めよってくる。
「例の通り魔事件の犯人の居場所が掴めました」
机の書類にしか目をやっていなかった捜査員達が、一斉に犬山の方へ注目した。
「どういうことだ」
「犯人は知り合いのパチンコ屋を以前から出入りしてました。つい最近も、そこを出入りした確認がとれてます」
鹿乃は、犯人にも食料や逃げ場所を与えていた。鹿乃のパチンコ屋ならば人の出入りは少ないし、特に目を浴びることもない。
鹿乃は純粋なお人好しである。
凶悪犯とはいえ、唯一の利用客でもあった犯人を、そう簡単に売るわけにはいかなかったのだ。
それでも、犬山に犯人を売ったということは、鹿乃になんらかの心情の変化があったからに違いない。
「これで文句はないでしょう」
反論する言葉が見つからず、溝口は歯を食いしばった。
「問題は問題だ。次からきちんと守ってくれればいい…。とにかく、その犯人の居場所とやらを教えてくれ」
犬山は、鹿乃から聞いたことを洗いざらい話した。
犯人逮捕の作戦に移ったのは、翌日の午後五時頃。犯人が、いつもパチンコ屋へやって来る時間帯である。
張り込みをすることは事前に鹿乃へ告げられ、そこから犬山を含む四人で見張ることとなっていた。
佐々木と水井が、パチンコ屋の表入口を見張る。
佐々木が異変に気がつき、辺りを見渡した。
「犬山はどこだ」
犬山は、佐々木や水井と同じく表入口の見張りだった。
裏入口を見張るのは、巡査の磐井だけである。
時刻は十五分。
犯人が現れてもおかしくない時間であった。
犯人の男は、人気の少ない道から現れた。水井と佐々木にはまだ気づかれていない。
(警察…?)
先に気がついたのは、男の方であった。
脚が小刻みに震える。まともに歩けない状態になっていた。
気づかれないうちに、男は一歩、二歩と後退し、裏路地へと逃げていった。
(なんで警察がいるんだ…。パチ屋に居たのは俺だけ…。鹿乃が全て見張ってくれていた…)
まさか、鹿乃に裏切られたのか──最悪の答えが、男の脳裏によぎった。
警察官から離れるにつれ、脚の震えは段々と引いていった。
すぐさまその場を立ち去ろうと、足取りが軽くなる。まだ警察にはバレていない。このまま行けば、逃げ切ることが出来る。
「おい」
前方から声が聞こえる。
足元ばかりを見て、人が居ることに気がつかなかった。
そっと、視線を上にあげる。
声の主は、犬山だった。
「既に逃げ道は把握済みだ。そう簡単に逃げれるとでも思ったか」
男は絶望のあまり声が出ない。
正気を取り戻す前に、男はバッグの中身を探っていた。
近づいてくる犬山に、男は取り出した包丁を向けた。
「し、仕方なかったんだよ…。わざとやったわけじゃないんだ」
流石の犬山も、少し動揺する。
覚悟はしていたが、何にせよ、初めての事態だ。動揺するなと言われる方が厳しいことであった。
「話は署で聞いてやる。せめて大人しく罪を償ってろ」
男には、犬山の声が一つも聞こえていなかった。血走る目──
男は、犬山を殺すことしか考えていなかったのだ。
「死ね!クソポリがァ!」
犬山が拳銃へと手を伸ばす間に、男は犬山の腹部を突き刺した。
痛みというよりも、熱が一点に集中したかのようだった。
男は錯乱状態で包丁を振り回し、防御する犬山の腕を切りつけた。
犬山は喘ぎながら、その場に倒れこんだ。
ここから張り込み現場までは距離がある。
おそらく、この声も、佐々木たちの元には届いていないだろう。
犬山には、死あるのみだった。
「手を挙げろ!」
幻聴かと疑ったが、その声は紛れもなく現実のものだった。
視線をやると、たった一人の刑事が立っていた。
水井だ。
犬山は、確かにそこに水井の姿があることを確信した。
水井は拳銃を男に向け、刃物を捨てるように指示した。
犯人は刃物を地面に置き、両手を挙げる。水井が安全を確認し、手錠を持って近寄った。
「十七時三十五分、現行犯逮捕」
そう言いながら、水井は片手を男に嵌める。
丁度その頃、佐々木が遅れてこの場に駆けつけてきた。水井が佐々木に視線をやる。
その瞬間、男は地面に置いていた刃物を手に取り、押さえつけていた水井を振り払った。
待て───という制止も聞かず、水井と佐々木が拳銃を取り出そうとしたところに、刃物を振られる。
そのまま男は裏路地を逃げ出し、後を追うも、神隠しにあったかのように姿を消した。
残りわずかの所で、作戦は失敗したのだ。
「すまない…佐々木、犬山」
水井が申し訳なさそうに、頭を下げる。
「悔やんでも仕方ねぇよ。俺は署に帰って報告しとくから、お前は犬山を病院にでも連れて行ってやれ」
佐々木がそう告げると、そのままタクシーをつかまえ、署へと帰って行った。
「犬山、歩けそうか?」
激痛だが、幸いにも深手じゃない。問題ない、と水井に告げた。
「それじゃ、車に戻って近くの病院まで行こうか」
「一人でも、病院くらい行ける…」
犬山にとって、恩を借りるのは屈辱だった。
実際、病院なら頑張れば歩いてでも行ける位置にあった。
こんな所で恩を借りれば、厄介事になるに違いない、と犬山は考えていた。
「無茶言うな。いくら傷が浅くても、悪化したら失血で死ぬぞ。犯人を取り逃した詫びくらい、させてくれ」
犬山は黙ったまま、裏路地を抜けようと歩いた。
「行かせねぇぞ、犬山」
水井の態度が豹変し、犬山に迫る。
先程の申し訳なさそうな態度とは大違いだ。
流石の切り替えには、犬山も驚かされた。
「どういうつもりだ…」
「お前が変に手を組もうとしてないのはこっちも分かってる。だがな、そうやって単独行動をしていれば、いつか自分の首を締めることになるんだぞ」
今がそうだ──と水井が目で訴えかける。
反論できないのは、論破されてしまったからなのか、激痛によるものなのか、犬山は黙り続けたままだった。
「とにかく、俺はお前を見張る義務がある。何としてでも、病院に連れて行くからな」
流石の犬山も、水井の対応に折れ、病院には同行してもらうこととなった。
夜八時過ぎ、犬山は傷口を軽く縫ってもらい、その日のうちに、病院を後にした。
「大丈夫か?犬山」
「胃や腸に届いたわけじゃない。しばらくすれば治る」
麻酔が効いていた為か、痛みも全くなくなっていた。
「夜は何か予定あるのか?」
水井が明るい目をして犬山に問いかけた。先程、説教をしていた水井には到底見えない。
「特にないが…」
「時間帯も時間帯だし、腹も空いたろ。お勧めの居酒屋で呑んでいかねぇか?」
これも、俺を見張る為の手段なのだろうか。どちらにせよ、先程の後では、断らせてくれる様子が無かったため、犬山は渋々承諾した。
居酒屋に到着した頃には、八時半を回っていた。
居酒屋の名は、「幸福亭」。
居酒屋というよりかは、料理亭にも見えたが、中に入ると、ごく一般的な居酒屋だった。
店内は、思ったよりも静かで、犬山たちは、不自由なくカウンター席に座ることができた。
雰囲気に呑まれたからか、先程にも増して、空腹に苦しくなる。
水井は、運転しなければいけない為、ノンアルビールで済ませ、犬山は生中を注文した。
ビールが届き、水井が乾杯を誘うが、流石に気分が乗らないため、断った。
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。
犬山は、こういった人付き合いをしたことがない。
親しくなるつもりもない犬山は、特に自分から話題を振ることもなかった。
「お前はさ、何で刑事になろうと思ったんだ」
様子を察した水井が尋ねる。父親を探す為、なんて真意を話すわけには行かず、言い訳を考え続けた。
「俺はな、犬山。ただ単純に警察官が格好良かったからこうして刑事になったんだ。理由なんてなんだっていいだろ?ただ自分なりの正義を持っておけば、それに間違いなんてないんだ」
自分なりの正義──。
正義を考えたことなど、犬山にはなかった。
警察は正義で、犯罪者は悪。社会においては決まった構造であるかもしれないが、犬山自身を照らし合わせれば、そうとも言えないのかもしれない。
だが、犬山にだって正義はある。
父親を探し出すこと。
それを邪魔する者は悪であり、それ以外のことはどうでもいい。
それを否定される筋合いなど、どこにもなかったのだ。
犬山は、思わず水井の言葉に納得した。
水井であれば、犬山が警察になった動機も受け入れてくれるだろうか。
今までになかった葛藤が、犬山の中で起こった。
「まぁ、犬山。何もお前の周り全てが、お前の敵ってわけじゃない。少なくとも俺はな。だから、心を開くつもりになったら言ってくれよ」
犬山が言葉を出す前に、水井は犬山を案じて、話を終わらせた。
犬山は何か、不思議な気持ちだった。
言ってることは在り来りな、当たり前の言葉なのに、何故か、水井には心を開いてもいいという感情がどこかで芽生えていた。
とはいえ、まだ知り合って間もない。様子を見るのが第一だろう。
少なくとも、水井とは強制的にタッグを組まされることになる。
これから、どう捜査を進めていくべきか、犬山には考えつかなかった。
犬山は、ジョッキに入ったビールを飲み干し、つまみの唐揚げを完食した。
病みつきになるほどの美味さだったが、感動は胸の内にしまっておいた。
「今日は、無理矢理連れ来たようなモンだったし、奢ってやるよ」
水井が愛想よく、犬山に促す。
犬山は特に断る理由もなく、水井に甘えて、店を後にした。
あれから一週間。通り魔の男は、行方を晦ましていた。
鹿乃に聞けば、パチンコ屋に顔を出すことも一切なく、目撃情報の一つも入っていないらしい。
県警本部は、県外逃亡の可能性ありと見て、全国の警察庁で捜索が行われることとなった。
南署 捜査一課
「まさか、あれを突拍子に一切姿を消してしまうとはなぁ」
佐々木が外の景色を見ながら呟く。
世間からは、作戦失敗の情報を受けて、ますます県警に批判の声が上がることになった。
その声は、水井に直接向けられたものではなかったが、水井は罪悪感に肩身の狭い思いを随時していた。
「大体、佐々木があんなタイミングで来ずに、初めからあの場にいれば、犯人確保は間違いなしだっただろうにな」
犬山が悪意のある言い方で、佐々木に言った。
何も佐々木にだけ責任があるわけではないのは、承知の上だったが、水井だけが罪悪感に呑まれるのは、これ以上見ていられなかったのだ。
「なんだと。それならお前こそ、あの場でヘマしてなけりゃ、水井と2人がかりで捕まえられていただろうが」
「犯人の姿に気づくことも出来なかった無能な先輩がよく言うな」
なんだと──と佐々木が言いかけた所で、溝口が止めに入った。
佐々木は不満げに犬山の顔を睨み続ける。
「やめてくれ、犬山、佐々木。俺も、これ以上自分を責めることは辞めた。誰も悪くない。今は、犯人確保が第一の筈だろ」
水井が机に座ったまま、静かに言った。
口では言いつつも、どこか申し訳なさげな顔をしている。
犬山と佐々木が黙り込むと、水井は立ち上がった。
「どこに行く」
犬山が気になっていると、先に佐々木が尋ねた。
「休憩がてら、一服してくるだけだ」
そう言って、水井は部屋を出た。
このまま不味い空気を吸うのに嫌気が差した犬山も、水井の後を追った。
署内には喫煙所がない。
少し前までは、各階ごとに設けられていたそうだが、禁煙ブームが進み、屋内の喫煙所は撤去されたそうだ。
刑事課があるのは三階だから、一服するには、わざわざ一階まで降りなければいけない。
面倒だと思いつつも、犬山は、一階に降り、署を出た。
「お前も吸いに来たのか?」
水井は、スタンドの灰皿を前に立ったまま喫煙をしていた。
「いいや、煙草に興味はない」
「お、意外だな。だが、非喫煙者がこんな所に来て大丈夫なのか?」
どこか犬山をからかうような口調で尋ねる。
犬山は言葉にせず、頷き返した。
水井が喫煙者であることは知っていたが、実際に吸っている姿を見るのは、これが初めてだ。
いかにも喫煙に慣れ親しんだ様子には、どこか渋みが増している。
喫煙者を格好良いと感じたことは無かったが、水井の喫煙姿には、どこか憧れる部分があった。きっと人間性が相まってそう見えるのだろう。
「それで、何の用だ」
水井に尋ねられ、ふと我に返る。
「通り魔の犯人についてだ。捜査の担当になって間もないものだから、詳しく聞いておこうと思って」
水井は、煙草を存分に吸って、灰を落とした。
「犯人の名は、森崎 竜二。昔から素行が悪く、酒癖の悪い奴だったらしい。森崎は、事件当日、クラブで酔いつぶれた後、一度自宅に帰り、包丁を持ち出して、顔も知らない通行人を襲った。被害者の女性は、腹部に激しい損傷を負って死亡。おそらくは、アルコールが回って、正常な判断力を失っていたのだろう」
──仕方がなかった
あの時の森崎の言葉とも合点がいく。
人を殺めてしまうほど酔いつぶれていたのなら、本人だって事実を認めたくないはずだ。
だが、森崎のやったことは、”仕方ない”で済ませられることではない。それどころか、警察官への傷害と逃亡で、取り返しのつかない所まで行ってしまった。
「にしてもおかしな話だ。あれ以来、全国指名手配にもなってるって言うのに、一度も姿を見せないんだ。神隠しというのは、実在するのかねぇ」
水井が、冗談交じりに呟いた。
だが、確かにそうだ。
あの日、森崎を見失った時も違和感があった。
森崎の消えた通路は、そこまで人通りが多かった訳では無い。直前まで逃げていれば、すぐに分かったはずだ。
あの短時間で姿を消すとなれば、誰かに拐われでもしていないと辻褄が合わないのだ。
「こうなれば、片っ端から調べていくしかない。まずは例のクラブにでも押しかける」
犬山が水井に向かって言った。
自分の目で確かめた方が、感覚的にも調べやすい。そう判断したのだ。
「行動力が凄まじいな。だが、心を落ち着かせるのも大事だ。ほれ、お前も一本、吸ってくか?」
水井は一本の煙草を、犬山に差し出した。
犬山は生まれてこの方、一度も煙草を吸ったことがない。
煙が嫌いなわけではないが、ただの食わず嫌いだ。
犬山は、面倒事をする気になれない為、素っ気なく断った。
「煙草の一本くらい吸っとかないと、一丁前にはなれねぇぞ」
執拗に迫るのにうんざりしたが、この一本で慣れ親しめるのであればと思い、その煙草を受け取った。
初めてでは、火をつけることすらも苦戦する。
百均のライターは、思うように火がつかず、微笑みながら見ていた水井が、代わりに火をつけた。
ようやく、一吸い。
予想を上回る大量の煙が肺に行き渡り、思わずむせる。いかにも初心者の素振りだ。
「なんだよこれ、不味いだけじゃねぇか」
またもや水井が嘲笑する。
煙草と相まって不快になったが、しばらくすると、煙草の不味さの方が際立って、気にも留めなくなっていた。
「”ピース”っつー銘柄だ。初心者にはキツすぎたか?」
犬山でも聞いたことがあるほどの有名な銘柄だった。
なぜ、水井はこんなものを余裕で吸えるのか。そう考えると、慣れというものが恐ろしく感じた。
必死の思いで最後まで吸い切り、犬山と水井は、喫煙所を後にした。
それからようやく、クラブ捜査の許可をもらい、水井の外車で現場まで向かった。
水井は、信号待ちでガムを口に含み、犬山に話を振った。
「クラブを経営してる者については、知ってるのか?」
ああ───と犬山は返事をする。
森崎の行っていたクラブ『ロン』は、関東の指定暴力団である、竜崎組が運営するナイトクラブだ。
竜崎組は、関東の一二を争う代表的な暴力団組織で、三年前に、それまで関東の頭を張っていた東山組との大抗争で勝利を収めていた。
現在では、東山組との手打ちも済み、東山組は、竜崎組の傘下組織となっているらしい。
その為、竜崎組の規模は更に増していき、警察組織からもかなりマークされている組織となっている。
犬山は、通り魔事件の捜査資料でも認識していたが、それ以上に、以前から耳にしたことのある名でもあった。
特に今となっては、父親絡みで調査しなければいけない対象である。
この他にも、竜崎組と肩を並べる松原会には目をやっていた。
「もし仮に、森崎失踪に竜崎組が絡んでいたとしたら、酒癖云々以前に、組とのなんらかのトラブルを起こして、拉致されたんじゃ…」
父親失踪についても同時に調べようと、犬山は水井に尋ねた。
「まぁ、有り得ない話ではないだろうな。だが、今のところそういった話は聞いてない」
やはりそう簡単に明らかにならないと思い、釈然とせずにいると、そういえば、と水井が付け加えた。
「竜崎組の拉致事件なら、過去にサラ金関連で男が拷問殺害された事件があったな」
犬山が水井の顔を見る。
「一体どんな」
「解決したとはいえ、未だ明らかになっている事は少ないが、サラ金の取り立てを迫られていた男が、竜崎組の忠告を無視して、そのまま拉致拷問されたんだ。更には、殺害されて海に死体を棄てられているのが発覚し、警察と世間の目に着くこととなった」
話を聞いて、背筋がぞっとする。森崎が殺害された可能性もだが、それよりも更に前に拉致されている父親となっては、殺害されている可能性の方がずっと高い。
最悪の事実に、犬山は目線を下にやった。
「どうかしたのか」
犬山は、水井に全て打ち明けることを決意していた。やはり、捜査の上で仲間は必要となる。信頼できる人に打ち明けておいた方が、後々楽なのだ。犬山は、閉ざしていた重い口を開いて告げた。
「俺の刑事になった目的は、失踪した父親を探し出すことなんです。母親が亡くなってからギャンブルに依存し、その為にサラ金に手を出しました。失踪の原因は、やはり拉致と見て間違いないようです。ですが、殺害されている可能性の方が高いかと…」
水井が一瞬驚いた顔をすると、すぐさま優しげな顔に切り替えた。
「そうだったんだな。詰まる所はあるだろうが、出来る限りのことは協力する。だが、拉致となると困った話だな。それだけ内密に捜査を進めるということは、警察組織にはバレたくない情報なのか?」
「決してバレたくない訳では…。だけど、あの頃は、自分自身も非行ばっかりだったし、誰も通報する人が居なくて。正直、大嫌いな父親のことなんて、どうも思っていなかった」
じゃあなぜ───と水井が問う。
「中学の時から世話になっていた人に言われたんだ。どれだけ嫌いな親でも、放っておくことは息子することじゃないって。だから、自立する最後くらい、きちんと別れを告げて来い、と」
「それで、単独で捜査をするって手段に出たんだな」
犬山がそっと頷いた。
「にしても不思議なもんだ。サラ金関連の事件なんて日常的に起こってるのに、警察の目に留まることなんかほとんどない」
極道も上手くやってるんだ、と水井が困った顔で言った。
とにかく、あくまで犬山たちが捜査一課である以上、踏み込めるのは通り魔事件だけである。暴力団関連の捜査は四課の仕事であった。この事件を機に、どこまで父親失踪の件まで持っていけるか、それが犬山にとっての肝だった。
クラブ『ロン』に到着したのは、午後二時頃であった。当然、昼間である為、クラブは営業時間外である。
水井がチャイムを鳴らすと、一人の女が顔を出した。おそらくは、ここの管理者であろう。化粧一つもしておらず、無愛想な顔で、こちらの様子を伺う。
「警察です。近頃の通り魔事件について、お話を聞かせていただけたらと思いましてね」
水井が丁重に事情を説明した。
女は不機嫌そうな顔をする。
「警察なら、少し前に十分捜査をしたはずでしょう」
「それが、少しお話させてもらうだけで大丈夫ですので」
不機嫌な女の対応に、水井も対抗する。
「それなら、令状はあるんでしょうね」
手も足も出ない言葉に、流石の水井も動揺する。
癪に障る女の対応に、犬山も我慢の限界であった。
「てめえ、何か見られたらやましいことでもあるのかよ」
「まさかそんなことは」
「だったら、さっさと上の者を呼んで来いって言ってんだよ!」
予想外の反応に、女も戸惑い、犬山の指示に従った。
「おい、こっちは公務員なんだぞ…。少しは対応ってモンを考えろよ」
呆れた水井が注意を促した。
犬山は何食わぬ顔で、女が戻るのを待っていた。
五分ほど経った頃、再度、女が扉から顔を出し、中へ招き入れた。
案内された場所には、強面の男たちが勢揃いしていた。おそらく、竜崎組の者と見て間違いないだろう。何か揉め事があった時の為に、数名ここに配置しているのだ。
事務室のソファに腰掛けると、サングラスを掛けた男が話し始めた。
「いつものデコ助じゃないな。どこの者だ」
デコ助、警察や特にマル暴を指す隠語だ。気迫に圧倒されながらも、こちらも負けずと男たちを睨みつける。
「捜査一課の者だ。例の事件当日、ここへ訪れていた森崎とは、何か関係があったのか」
どんな相手にも変わらず丁重な言葉で、水井が問う。
フン───と男が鼻で笑って続けた。
「俺らは事件に関与なんかしてねぇよ。あいつが勝手に暴走して事件を起こしただけだ」
「じゃあ何故、森崎はここへ頻繁に訪れていたんだ」
水井に代わり、犬山が割って入った。
「そんなの、俺らの知ったことじゃねぇな」
「知ったことじゃねぇだと?笑わすな。お前らが森崎に絡んで拉致ったんじゃねぇのか」
犬山が本音を出すと、同時に別の男たちが一斉に怒声をあげた。
「どうせ口だけで証拠はねぇんだろ?」
「証拠なんざ、いくらでも出せる」
「大した実績もないのによく言うな。大体、森崎がここに来ていたのが事実でも、奴は酒すら呑まずに帰ったんだ。それなのに、俺らに因縁つけるってことは、それ相応の覚悟はできているんだろうな」
酒すら呑んでいない───?
予想外の回答に、言葉が詰まる。酒すら呑んでいないのであれば、事件が起きたきっかけはなんだったのか。警察側の言い分とは全く違うものになる。
黙り込んでいた矢先、男が再び口を開いた。
「俺らを疑うくらいなら、それより先に、森崎の行き着けていたパチ屋でも疑えばどうだ。俺ら、犬と戯れてる暇はないんだよ」
分かったなら帰れ──と言い放ち、犬山たちは、クラブを後にした。
「パチ屋…。前の鹿乃の所か」
車を運転しながら、水井が呟いた。
原因が大きく変化してしまった今、今度は何を調べればいいのか。森崎は、何が仕方なかったのか。犬山には、検討もつかなかった。
「なあ犬山。もう一度、鹿乃に話を聞いてみないか」
「鹿乃に?」
「疑ってる訳では無いが、俺たちが何か見誤っていたのは事実だ。今、頼れる人間は、鹿乃しかいない」
確かに、現段階で、最も森崎と関わり深かったのは鹿乃だ。
森崎がただの常連だったのではなく、鹿乃は森崎を匿っていた。そんな鹿乃が、森崎のことを何も知らないはずがない。何か事情があったに違いがないのだ。
犬山は、水井の提案に乗り、明日、鹿乃の元へ行くことを決心した。
鹿乃の元に向かったのは、午前十一時頃だった。
水井と犬山の二人きりで、鹿乃のパチンコ屋を訪れた。
二人ともが、その異変に気がついたのは、到着して間もない頃。
水井は、目を疑う素振りを見せ、犬山は、開いた口が塞がらずに立ち尽くしていた。
「これって…」
水井が声を漏らす。
パチンコ屋のシャッターは閉まっており、看板の一つも出していない。第一、今日に限って定休日なんてことは、決して有り得なかった。
犬山は、状況の理解が追いつかず、気づけば、鹿乃の家へと走っていた。
鹿乃の家は、パチンコ屋の近所で、徒歩で行ける距離にある。犬山は、不安な気持ちを押し付けるかのように、家のチャイムを連打した。
しばらくして、鹿乃の声が聞こえてくる。鹿乃は、驚いた形相で顔を出した。
「お巡りさんがこんな時間にどうしたのよ。前の刑事さんも一緒で」
「どうしたはこっちの台詞ですよ!何でパチンコ屋が閉まってるんですか」
犬山が、思っていたことを素直に吐き出す。鹿乃は、暗い表情を浮かべ、口を開いた。
「パチンコ屋は、もう閉業しようと思ってるのよ。あの人が来なくなってから、まともに収入も入らなくて…」
あの人───森崎のことだろう。少なからず、やはり森崎は、鹿乃にとって大事な客だったのだ。
「死んだ旦那と始めた稼業だったから、辞めようにも辞められずに居たのよ。だけど、もうそろそろ、終わり時じゃないの」
過去に世話になったパチンコ屋と、こんな形でお別れになるとは、思ってもいなかった。
犬山は呆然としたまま、本来の目的を忘れてしまっていた。
「今日お邪魔したのは、森崎の件なんです。少しお時間宜しいですか」
犬山の代わりに、水井が間に入って伝える。
鹿乃は俯いたまま、取り調べに応じた。
鹿乃に案内され、鹿乃の家に上がる。かなり古い木造建築で、玄関やリビングの至る所に、鹿乃の旦那の写真が立てられていた。
水井と犬山が座敷の客間に座ると、鹿乃は急いで麦茶を差し出した。
「どうぞお構いなく」
水井が麦茶を差し出す鹿乃に向けて言った。鹿乃は、黙ったまま、犬山たちと対面になるようにして正座した。
「森崎のことは、以前も話したはずよ。これ以上、何が聞きたいの」
鹿乃から話を振った。いかにも、隠し事があるかのような素振りだ。犬山と水井も、目に見て分かった。
「鹿乃さんは、森崎が事件を起こした原因をご存知で?」
水井が単刀直入に尋ねる。
「さあ。前にも言った通り、彼の酒癖のせい、としか考えられないわね」
犬山が鹿乃を睨みつける。水井も、先程の優しげな顔は、消えて無くなっていた。
「森崎は、あの事件の日、一滴の酒も呑んでいませんでしたよ。なんなら、ナイトクラブに行った日全て、森崎は飲酒していなかったんです」
だから───と、鹿乃のことはお構い無しに、水井が続ける。
「あなたは何か、本当の理由を知ってたんじゃないですか」
三人の間に、沈黙が流れた。
「知らないわ。何も」
鹿乃がその言葉を発したとともに、犬山がテーブルを叩きつけた。
「シラケてんじゃねぇぞ!森崎を匿っていたのはてめぇだろうが!お前が何の事情も知らずに匿うことが無いことくらい、俺が昔から知ってんだよ!」
犬山が、初めて鹿乃に怒鳴りつけた。
顔を上げる鹿乃に、水井も続いた。
「鹿乃さんは、森崎から仕送りを貰っていたんですよね。そのお金を使って、パチンコ屋を続けられるように賄っていた。それなら、森崎の動機くらい、知ってたんじゃないんですか」
鹿乃は、静かに頷いた。
「これ以上、あんたの旦那に恥じるようなことは、しないでくれ」
犬山が、先程とは変わって、鹿乃を諭した。
鹿乃は無表情のまま涙を浮かべ、ようやく口を開いた。
「あの人が事件を起こしたきっかけは、間違いなく覚醒剤が絡んでいた。覚醒剤の事は、かなり前から、本人に伝えられていた」
覚醒剤──薬物絡みならば、突発的な通り魔事件を引き起こした原因にも納得が行く。だが、そんな一方的な犯罪者を、鹿乃が匿うだろうか。そんなことを犬山が疑問に感じていると、先に鹿乃が説明した。
「薬に手をつけていたのは事実でも、彼は被害者だったの……。友人から無理矢理、覚醒剤を使用させられて、それに病みつきになってしまった。おかげで仕事も人望も失った彼は、お金を私に差し出す代わりに、匿ってもらうことを願い出た」
「その友人って?」
水井が素朴な疑問を口にする。
「竜崎組と絡んでいる人だとは聞いていたわ」
犬山の脳内で全ての謎が解かれた。
「もう一度、竜崎組と話をつけてきます」
犬山はそう吐き捨て、水井と鹿乃のことを置いたまま、鹿乃家を出た。
水井のことはお構い無しに、二人で乗ってきた外車に乗り、すぐさま、竜崎組事務所に車を走らせた。
やはり、一連の事件は、竜崎組が糸を引いてたというわけか。
竜崎組に接点のある友人に、森崎はシャブ漬けにされ、クラブ『ロン』にて、覚醒剤を買い求め続けるようになった。
しかし、森崎が通り魔事件を起こしたことで事態は急変。
森崎と竜崎組との間にトラブルがあったかは知らないが、竜崎組の悪事を表に出さない為、森崎を拉致し、隠蔽。
過去の事例に照らし合わせても、よく似た犯行だった。
そして、父親の拉致事件も。
父親も、森崎も、必ず生かしたまま取り戻してみせる。
その一心で、犬山は、アクセルを踏んだ。
事務所は、塀の上から松の木を覗かせる、立派な豪邸だった。
事務所の駐車場には、黒塗りの外車がずらりと並んでいる。
犬山は、堂々と門をくぐり、玄関前でチャイムを鳴らした。
しばらくして、一人の若衆が顔を出した。
「何の用だ」
サングラスを掛けたまま、犬山を睨みつけている。服の襟元からは、入れ墨を覗かせていた。
「警察だ。組長はいるか」
犬山は、既に限界に来ている。ここで茶番をする余裕はなかった。
「サツが何の用だ。令状はあんのか?」
令状が無い以上、ここは不利だと思い、無理矢理、若衆の男を押しのけて中へ入った。
騒ぎを聞きつけていたのか、組員たちは全員、警戒態勢に入っていた。意外なことにも、組長の竜崎は堂々と、犬山を前にして座っていた。
「フン。警察の割には、随分と無礼じゃないか。あんた、マル暴じゃないな」
いきなり竜崎が口を開いた。
犬山が四課のマル暴じゃないと分かるということは、それほど、四課の刑事とは争って来たのだろう。
「独りで乗り込んで来るとは、命知らずにも程があるな」
「俺はお喋りをしに来たんじゃない。森崎の件でここに来た」
犬山は単刀直入に、竜崎へと伝えた。
静かにしていた組員の一人が、犬山に反応する。
「お前、ロンに来やがった…」
クラブ『ロン』に居た組員だ。
全員が納得した顔で、犬山を睨みつける。
「森崎にシャブ売りつけて、挙句の果てに拉致ったのはてめぇらだろ」
小馬鹿にする竜崎たちの態度に、犬山は怒りを露にした。
「調子に乗りやがって…このデコ助!」
同時に、黙って見ていられなくなった組員の一人が、犬山の頬を殴りつけた。
不意の攻撃に、思わず倒れ込む。
他の組員たちも便乗し、罵声を吐き捨てながら、犬山に蹴りかかった。
犬山の中の何かが爆発する。
───殺られる前にやるしかない。
犬山は、痛みが麻痺した状態で、蹴りつけてきた組員の脚に、思い切り噛み付いた。
噛まれた組員が、痛みに絶叫し、その場に倒れかかった。
同時に、犬山も立ち上がって、他の組員たちを次々に殴りつける。
相手の攻撃などはお構い無しに、ただ相手を攻撃することしか、犬山の脳にはなかった。
犬山の実力は、警察学校時代もトップクラスだった。その上、仲間に喧嘩を振り掛け回っていた為、多勢との喧嘩には、人一倍慣れている。
その実力を生かし、犬山は、全員に満遍なく攻撃を加えた。
状況に慌てた一人の男が、拳銃を取り出す。
犬山は、拳銃を取り出した男に殴り掛かり、同時に拳銃を奪いあげた。
そのまま、奪った拳銃を天井に向け、トリガーに指を掛ける。
───パァンッ
耳鳴りする程の大きな銃声が、室内に響き渡った。
多くの組員は、足腰立てずに横たわっている。犬山は、竜崎へと銃口を向けた。
犬山の行動に気づいた組員も、一斉に拳銃を犬山に向ける。
「落ち着けお前ら。このお巡りさんは、ただ話がしたいだけじゃないか」
銃口を向けられてもびくともせず、事態を鎮静化させるよう、竜崎が指示をした。
「ここまで、うちの組員を滅茶苦茶にしたことは褒めてやる。褒美に、要件を受けいれてやる」
竜崎は、犬山との対話に応じた。
犬山は変わらず、拳銃を竜崎に突きつけたまま、口を開く。怒りからか、微かに拳銃が震えてることが見て取れた。
「森崎と、二年前に親父を拉致ったのはてめぇらか」
「親父?」
「犬山 茂朗だ」
竜崎がハッとした顔で、犬山の眼を睨んだ。しばらくし、安堵した様子で、高級そうな椅子にもたれかかる。
「そうか…、お前が」
明らかに、竜崎は父親のことを知っている。犬山の疑念は、確信へと変わった。
「何を知っている。親父は生きてるのか」
脳が震えるような緊張感を覚える。全身から汗が滲み、焦りから言葉が詰まる。
そのしんどさに、今にも倒れそうでいると、竜崎がようやく口を開いた。
「お前の父親は、二年前に死んだ。それが事実だ。今頃、海に分解されちまっただろうよ。最期は、健次、健次って叫んだまま、殺されたそうだ」
───父親は、死んでいた。
追い求めていた事実が、明らかとなった。
犬山の震えは、先程にも増して激しくなる。だが、その中でも、竜崎の他人事のような口調が鼻についた。
手の震えはヒートアップし、やがては銃身が定まらないほどに激化していた。
人差し指は、トリガーにかかっている。
犬山は、思い切り目を瞑り、覚悟を決めた。
拳銃を後方へ思い切り投げ捨てる。
同時に、先程の震えは引いていき、冷静になることができた。
「森崎は生きているんですか……」
半放心状態になりながらも、竜崎に尋ねる。
「さあな。森崎の安否は、俺たちの知ったことじゃない」
知ったことじゃない───やはり、父親の件も、森崎の件も、情報を把握しているのに対し、実行しているのは別のような言い癖だった。まだ、犬山の知らない裏があるというのか。
「知らないってどういう」
「お前の父親も、森崎も、拉致ったのは、俺たちじゃない。まぁ、関与していないと言ったら嘘になるがな」
「じゃあ、一体誰が…」
「マーリスっつう、密輸組織だ」
マーリス───今までの捜査資料にも書かれていない、初耳の組織だ。これほど大胆な事件は、父親や森崎だけでなく、他にも多数起きているはずだ。それなのに、この名が明らかにならないのは、可笑しな話であった。
密輸組織ということは、竜崎組が直結している組織なのだろう。違法薬物や武器はそこで仕入れている、ということになる。
「でも、なぜ親父や森崎が密輸組織なんかに」
「こういう汚れ仕事は、マーリスが全て片付けてきた。ただ俺たちが直接、手を下してこなかっただけだ」
それだけ親密な組織であれば、竜崎組から森崎を解放させることも出来るはずだ。今であれば、竜崎に懇願して、それも叶うかもしれない。
「なら、マーリスに頼んで、森崎を解放させてください」
竜崎は、まずいをことを言われたかのような、先程とは全く違う顔へと変えた。
「無理にも程がある。大体、あんたの要件は呑んだじゃないか。今回は見逃してやるが、次は、たとえ刑事でも、命の容赦はしない」
竜崎は、組員に帰らせろ──と命令し、強引に犬山を連れ出そうとした。
父親が死んだ以上、森崎のことはどうでもよくなっている自分がいた。だが、マーリスという組織を追うことは、まだまだ自分の使命なのではないか。ここで諦めてもいいのか。犬山にとって、最大の葛藤所であった。
「マーリスについて、まだまだ聞きたいことがあるんです」
組員に押されながらも、必死になって、竜崎へと訴えかける。
組員の向こうに、呆れ顔をする竜崎の姿が見えた。
「マーリスに光を当てれば、それこそ地獄の始まりだ。それだけは、きっちり頭に叩き込んでおけ」
竜崎が最後にそう言い捨てると同時に、犬山は、外へと放り出された。
玄関前の階段を転がり、先程の傷も相まって、全身が痛む。疲労しきった体になりながらも、犬山は、水井の外車へと乗り込んだ。
バックミラーで自身の顔を確認すると、額には三箇所の傷がつき、唇は切れ、頬には痣が出来ていた。普通であれば、痛みで対話どころではない損傷だ。
傷に気がつくと、更なる痛みが襲いかかったが、必死な思いで耐え抜き、犬山は、次なる目的地を目指した。
時刻は、二十時。犬山の乗った水井の外車を、激しい雨が打ち付けていた。
昼から何一つ口にしていなかったが、不思議にも、食欲は湧かなかった。病は気からというが、受け止めきれない事実に気が動転し、病でも患ったのかと思うほどだった。
犬山が向かった先は、民家の一軒家だった。
今、向かうにはそこしかない。全てが終わったら、また戻って来ようと、心に決めていた。
目的地に到着し、玄関前のチャイムを鳴らす。しばらくして、そこに住んでいる一人の男が顔を出した。
「健次…?その格好に、その傷…。一体何が?」
犬山は、無言を貫き通す。
男は納得した顔で、犬山を家にあげた。
犬山は、リビングのソファに座り、男に渡されたタオルで、雨に濡れた頭を拭いた。
男の名は、山川 義郎。歳は六十後半の年配である。彼は、紛れもなく、犬山の大恩人だった。
犬山は小学生の頃、母親を亡くした。死因は、膵臓癌。その出来事を境に、犬山の家庭環境は、狂ってしまった。父親は、妻を喪ったショックで酒に浸り、ギャンブルに病みつきになった。家庭の財産は、全て父親がギャンブルに使い込み、やがて家は売却され、住む場所を追いやられた。一方、犬山はというと、父親から万引きを強要され、非行に走る毎日だった。万引きをしくじれば、実の父親から過剰な暴力を受け、またもや非行の繰り返し。そんな家庭環境が、犬山を変えてしまった。
そんな、犬山の中学時代、出会った恩人が、山川だった。道端でうずくまる犬山を、見ていられなくなった山川が匿ったのだ。暖かい飯から風呂に寝床。これほどまでにない贅沢を、犬山に味わせた。それから、居場所を見つけた犬山は、父親と関わることはなくなり、一人で生きていく道を見つけたのだ。
山川のおかげで、高校を卒業した犬山は、仕事探しに追われる日々を過ごした。自分一人で、これ以上、父親と関わらずに生きていく為、そして、山川にお礼を返す為。その為だけに、犬山は、仕事探しに励んだ。だが、山川の意思は、犬山と異なるものだった。
自立をする以上、父親とは別れを告げること───それが、これまで面倒を見た分に与えられた、犬山の課題だったのだ。
犬山は、山川の言いつけに従い、仕方なく、あのパチンコ屋の裏路地へと向かった。
しかし、その場所に、父親の姿はなかった。
どこを探しても、父親の居そうな場所に、父親の姿はない。
犬山は、特に変わった感情は持たず、ただそのまま山川の元へ帰り、あったことをそのまま話した。父親がいないのならば、別れを告げる必要はない。これから自立していけばいい。そう思っていた。
だが、山川はそれを許さなかった。居ないのであれば、父親を探し出す。それが、息子としての使命である。そう、犬山に言い聞かせた。
やがて、意を決した犬山は、警察の道を歩んだ。全ては父親を探し出す為。それを持って、山川にお礼をする為。
そうして、犬山は、前へと進んだ。
しかし、結果は違った。
そもそも、父親は既に死んでいた。
別れの仕様など、どこにもなかったのだ。
それを伝える為だけに、犬山は、この場へと戻ってきた。
山川は、犬山の心情を察していたからか、黙ってホットコーヒーを差し出した。
犬山は、コーヒーを一口呑み、本題を口にした。
「親父は、死んでました」
山川の動きがぴたりと止まる。しかし、ある程度、犬山のことを察していたからか、すぐに冷静を取り戻した。
「やっぱり俺、親に別れを告げることすらできない、ガキのままなのかな」
犬山が、山川を前に弱音を洩らす。
犬山が人前で弱音を吐くなんてことは、よっぽどのことがない限り、有り得ない話だ。
その上、犬山は涙を浮かべていた。事実を知ったあの時、いや、父親の姿が消えて察した時は、一粒の涙を浮かべることはなかったのに、ただ今になって、なぜか大量の涙が溢れ出す。
あんなロクデナシで、クズで、救いようのない父親が、なぜこんなにも愛おしく感じてしまうのか。
ただ、目に浮かぶのは、ロクデナシでクズな父親でもなく、母親が生きていた頃の、笑顔な父親の姿だった。その姿に感涙して、涙は止まらなくなってしまっていた。
「ごめんなさい」
山川との約束が果たせなかったことを、心から、犬山は詫びた。
山川は、顔色一つ変えず、犬山の様子を眺めていた。
「お前はもう、ガキなんかじゃねぇ」
その言葉に、犬山の涙が止まった。
「お前がこうして、必死になって父親を探し出すこと。それで十分、別れを告げられたんじゃないのか。そうして事実を受け止められただけで、お前はもう、立派な大人だよ」
犬山も、山川の方へと視線をやった。
全く別の涙が溢れそうになったが、ぐっと堪えて口を開いた。
「ありがとうございます」
犬山は、ある決意をして、山川へ告げた。
犬山は、出されていたコーヒーを呑み干し、玄関の扉を開けた。
予想外の動きに、山川が焦って犬山を追った。
犬山は玄関の前で立ち止まり、もう一度、山川を見た。
「俺は、もう山川さんのお世話になることはありません。元からそう決めていましたから。俺が立派になれたのは、間違いなく山川さんのおかげです。本当にありがとうございました」
山川に、最後の別れを告げ、犬山は車に乗った。
「ああ、元気でいろよ」
山川は、車内に聞こえるように、犬山へと告げた。
翌日、犬山はいつも通り、南署へと向かった。
借りたままの水井の外車を返すべく、いつも愛用している単車は使わず、そのまま水井の外車で出勤した。
署に入ると、いつも通り、水井が自分の机に向かって、淡々と報告書を書いていた。
水井───と犬山が声を掛ける。
水井には、本当のことを話さなくてはいけない。父親の件は、自分の中でも節目がついたが、森崎のことや刑事としての自分の立場が、正直どうでもよくなっていた。そのことも全て、報告すべきだと犬山は感じていた。
「よくも俺の車を──と言いたいところだが、今はそれどころじゃないみたいだな。大丈夫だったのか?」
水井は、いち早く、犬山の状態を心配した。
「そのことで、水井と二人きりで話したい。今日、例の居酒屋で付き合ってくれるか」
犬山は、なんとも言えぬ顔で、水井を呑みに誘った。水井も、予想とは違った反応だったからか、多少動揺しつつ、承諾した。
晩、水井の外車で居酒屋『幸福亭』に立ち寄った。
お馴染みのカウンター席に腰掛け、二人とも、ノンアルコールビールと、つまみの枝豆を注文した。注文したビールと枝豆が届くと、乾杯することもなく、黙り込んだまま、ビールを口に入れた。
犬山は、久しぶりの酒だった。単純に、仕事で忙しいのもあったが、何より、父親の件が脳から離れず、食欲が出ていなかったのだ。今までの空腹が重なってか、一瞬でビールを呑み干し、大量の枝豆を、皮ごと口に頬張った。
「親父は死んでた」
ある程度酔いが回った頃、犬山から話し始めた。
水井は、犬山の様子から同情する素振りを見せたが、犬山はとっくに受け入れたことだった。
「森崎は、まだ生きてるかもしれない」
断定はできない。だが、竜崎の言葉から察するに、マーリスとやらの密輸組織から殺害報告が来ていないのだろう。
「やはり、竜崎組の仕業か?」
「分からねぇ。ただ、竜崎が言うには、別の組織が絡んでいたそうだ」
犬山は、竜崎の言ったことは事実だと認識していた。竜崎の隠そうとする素振りから見ても、事実を知られればまずいからだろう。嘘であれば、嘘の証拠を流し込んで、警察の時間を稼ぐことも可能だったはずだ。
「竜崎は、マーリスという組織だと言っていた。俺も聞いたことがない名だ。特定は難しい」
水井も知らなかったのか、目線を上にやった。
「確かに、捜査資料に一つも書かれていなかった名だ。この土日に、俺の方からも調べておく」
犬山は、休日にまで仕事に励む水井の堅実さに感心しながら、自身の心境を打ち明けた。
「俺、正直、父親のことが分かってから、どうでも良くなったんだよ。森崎のこととか。折角、大人になれたと認めてもらったのに、今何をすればいいのか、全然分かんなくて」
認められた、というのは、山川のことだ。
水井は少し考えた後に、口を開いた。
「自分という存在が分かっていないんだろう。親元を離れたばかりによくあることだ。目的を見失って、何をするべきか分からなくなる。そういうのは、経験を積み重ねて、ようやく分かってくるもんなんだよ。こういう風に生きたいって思える物を、見つけられれば、いいんじゃないのか」
水井の言葉が、心の奥底に突き刺さる。自立して終わりじゃない。まだまだこれからだ。
犬山の生き方───憧れる人は居た。食わず嫌いしていたものが、口に入れてみると、なんだか認められるようになった。そして、その重要性を教えてくれた。
犬山のなりたい人。
「俺は、水井のようになりたい」
その言葉に、水井が噎せた。その反応を見て、犬山が軽く微笑む。
気を取り直すと、水井は犬山の眼を見た。
「なれるのか?」
犬山も、鋭い眼差しで水井に返した。
「なってみせるさ」
月曜の朝は、快晴だった。
これまで鬱陶しく感じていた週明けが、心地よく感じる。
犬山の心も、からっきし晴れていた。
──水井のようになってみせる
それが、その日からの犬山の目的となった。
犬山は、自分の単車に跨り、スロットルを捻ると、勢いよく走り始めた。
すっかりと慣れた道を通り、南署へ到着すると、異変に気がつき、辺りの駐車場を見渡した。
───水井の外車がない。
署内へ入ると、やはり水井の姿が見つからなかった。
署内を行き来していると、溝口と廊下ですれ違った。
「水井は一体?」
先輩だろ───と指摘し、問いに答えた。
「今日は有給をとって休むと報告が入った。どうせ明日には来るだろ」
水井が有給休暇───有り得ない。体調不良なら、少なくとも犬山に連絡を入れるはずだ。それに、水井は土日にマーリスについて調べると言っていた。少なくとも、現段階での情報は共有してくるはずだ。
不審に思い、犬山はその日の仕事を終えてから、水井の元へ向かうことにした。
まだ、事件は終わっていない。森崎を逮捕するまでが、事件解決の道だ。
仕事を早めに切り上げた午後六時頃。溝口から水井の住所を聞き出し、単車で家まで向かった。
季節は春の終わり頃。夏の存在を匂わせる気温になってきていた。その暑さは、この夕方でさえ、感じさせられる。
やがて、水井の家に辿り着く頃には、日も暮れて寒さが出始めていた。
玄関前で、チャイムを鳴らす。しばらくし、水井の声で返事があった。容態は無事のようだ。だが、どこか声が弱々しかった。金曜日、あの居酒屋での陽気さはどこへ行ってしまったのか。
水井が扉を開けて顔を出す。徹夜でマーリスを調べたからなのか、他に原因があるのか、水井の目下には、くっきりとクマが出来ていた。
「なんで連絡してくれなかったんだ。心配したぞ」
「悪いが、今日は帰ってくれ」
疲れているんだ───と目で訴えてくる。
変わり果てた水井の様子に、犬山は呆然と立ち尽くした。気がつくと、水井は無理矢理扉を閉め、犬山はただ一人で立ち尽くしていた。
犬山は、単車に乗って、一人夜の道を走った。
やはり、水井の変貌には、マーリスが関係しているのだろうか。それなら、水井は一体、マーリスの何を知ってしまったのか。
結局、犬山に答えは出なかった。
どちらにせよ、早くしなければ、今度は森崎まで殺られる。それはどうにかしてでも防がなければならない。
しかし、その翌日も、翌々日も、水井は署に顔を出さなかった。
犬山は、疎遠になっていた、佐々木を呼び出した。
佐々木は、水井の同期で、同時に捜査一課へ配属された仲間である。普段から、友人らしい絡みをしていた。
「急に呼び出して、何の用だ」
佐々木は、犬山に対して冷淡な口振りで尋ねた。これまでの犬山の接し様からも、仕方の無いことだと思い、特に返すことなく要件を伝えた。
「水井が来なくなった原因は、マーリスという密輸組織を調べたからに違いない。だから───」
犬山の言葉が詰まる。佐々木は相変わらず、冷ややかな目で犬山を睨んでいた。
「マーリスの捜査を協力して欲しいん…です」
慣れない敬語で、佐々木に懇願した。
予期せぬ犬山の言動に、さすがの佐々木も慌てふためいた。まさか、あの不良者がこのような形で迫ってくるとは予想できる筈もない。
返事が来ずにいると、今度は、犬山が頭を下げた。
「お願いします」
佐々木は開いた口が塞がらないでいたが、気を取り直し、先程とは全く違う目で、犬山を見た。
「まさか、あのお前が───気持ちはよく分かった。俺も捜査に協力する。上の者にも捜査要請を出しておくよ」
「良いんですか」
佐々木が犬山を見て微笑んだ。
「これでも、あいつの同期だからよ」
犬山に気がつかなかったが、佐々木も心配でままならなかったらしい。
犬山は佐々木とタッグを組み、マーリスの動向を探ることを決意した。
その日、佐々木からマーリスという組織の存在が署長にも伝えられ、警察組織間で知られることになった。
翌日、南署に水井の姿があった。
以前見た時よりもげっそりと痩せており、無精髭をも生やしていた。
「水井、そろそろ本当のこと話してくれたっていいだろ」
水井が、虚ろな目で犬山を見つめる。
「ここでは話せない。いずれ話す」
水井が煙草を持ち、喫煙所に向かおうと席を立った。あいにく、箱には一本の煙草も入っていない。最後の一本だと気がつかないまでに、衰弱しきっていたのだろう。
───煙草なら、水井も機嫌を取り戻すかもしれない。
単純な考えのまま、犬山は一人、署を出た。
単車に跨り、近場のコンビニを目指す。
都会とは言えない為、単車で移動しても五分はかかる。水井を元気づけたい思いをぶつけるように、思い切りスロットルを捻った。
コンビニに到着し、ヘルメットを外すと、額に汗が滲んでいた。昼はもう夏の暑さだ。到底、五月の気温とは思えない。
店内のクーラーに癒されつつ、慣れない言葉で、煙草を購入した。
水井が愛煙していたのは、ピースだ。どうせなら、もう一度、水井と笑って吸ってみたい。慣れない、不味い煙草であったとしても。
犬山が深い溜息を吐いた途端、着信が鳴った。
───水井だ。
「どうした」
「今から、例のパチンコ屋の裏路地に来て欲しい」
鹿乃のパチンコ屋だ。わざわざ呼び出すということは、二人きりでしか出来ない話か。おそらく、マーリスの件に違いない。
「───水井、これ」
電話の向こうから、署長の声がした。水井の慌てる様子が音から感じられる。どうやら、お茶を出されただけのようだった。
それほどまでに重要な話であることは分かった。
犬山は、電話を切って、再度単車に乗った。
ここからパチンコ屋まではかなり距離がある。時間は二十分程度か。水井より五分ほど遅れることになるだろう。
何がともあれ、急ぐに越したことはない。犬山は先程よりもスピードを上げて、風を切った。
午後一時、鹿乃のパチンコ屋が見えた。
相変わらず、パチンコ屋は閉店したままだ。
辺りに人は居らず、水井が居るのか分からないほど、静寂に包まれていた。
パチンコ屋の前に単車を停める。目の前に、水井の外車も停まっていた。
「来たぞ」
犬山が、裏路地に顔を出した。
犬山の思考が停止する。
───え
犬山が、微かな声を洩らす。
そこにあったのは、森崎の姿だった。
手には、血に染った包丁。微かに体が揺れている。
そして、足元には───
「水井!」
血に塗れた水井が横たわっていた。
───俺は、水井のようになりたい。
考えるよりも先に、気づけば体が動いてしまっていた。
森崎は、発狂しながら、犬山に向かって走り始めた。
犬山は、森崎の包丁を横に交わし、顔面を、思い切り横殴りにした。
言葉も何一つ出ない。怒りかどうかさえ分からなかった。実の親が殺られた──そんな気分だ。
犬山は森崎の顔面を殴り続けた。
鼻の骨をへし折り、返り血を浴びる。
その次は、前歯を折ってやった。
遠くから、森崎の絶叫が聞こえてくる。そんなのはお構い無しに、森崎へ最後の一発を顔面に喰らわせた。
気づけば、犬山は包丁に手を取っていた。
───殺してやる。
「やめてくれ…違うんだ……」
包丁を握り締めた手を大きく振り上げる。
歯を食いしばったまま、勢いよく包丁を振り落としかかった。
───包丁を振り落とせない。
手首を固定されたような異変に気がつき、犬山は後ろを振り返った。
その瞬間、頬に強い衝撃が走り、頭が吹っ飛んだ。
「てめえ、自分が何してるのか分かってんのか!」
聞き覚えのある声だった。
先程の衝撃で、意識が朦朧としていながらも、声の正体を確認した。
「佐々木…」
佐々木の他に、捜査車両の存在に気がついた途端、佐々木が犬山の襟元へ掴みかかった。
「それ以上やったら、てめえが逮捕されちまうんだぞ!」
「でも……、水井が」
言葉を発した途端、佐々木は犬山を睨んだまま硬直した。
水井の方へ目をやると、捜査員たちが状態を確認し、救急車にも運ばれて行った。
様子を見る限りだと、おそらくもう脈は無い。
犬山を怒鳴りつける佐々木だって、本当は悔しいはずだ。ようやく署に顔を出せるようになり、これから事件が解決されていく時だと言うのに。こんな終わり方ではやりきれないじゃないか。
「佐々木さんだって……水井のこと…」
佐々木は、犬山を思い切り突き飛ばした。
「なら水井は、俺やお前が刑務所にぶち込まれることを望んだのかよ、ああ?」
望んでいない───それくらい、犬山にだって分かった。それでも、犬山は納得がいかなかった。
佐々木は、こっちへ来い──と犬山連れ、を捜査員の群がる場所から遠ざけた。
佐々木に連れられる中、人混みの中から、一人の一般人女性が顔を覗かしているが見えた。
───鹿乃だ。
鹿乃と視線が合う。
犬山は、顔向けすることすら出来なかった。
人混みから大分離れた頃、佐々木は、先程と打って変わった口調で、話し始めた。
「水井は、何よりもお前が立派な刑事になることを望んでいた。───お前がやって来た初日、水井は俺に、お前をどうにかして更生させてやりたいって言ったんだ。誰もがお前に呆れる中、水井はお前のことを見捨てなかった。そんな水井に、仇で返してどうすんだよ」
犬山はただ呆然とした。ずっと、水井は自分の為に───
───俺は、水井のようになりたい。
───なれるのか?
───なってみせるさ
あの時の、水井の表情が脳裏に浮かんだ。
あの時、水井はどんな気持ちだったんだろうか。
自分にとって、水井は親のような存在で、自分は水井の、子のような存在だった───
佐々木は、黙った犬山の肩に手を置いた。
「だからよ、もうあいつに顔向けできないようなこと、二度とすんなよ」
佐々木は、犬山を置いたまま、その場を離れた。
その後、犬山に罪を問われることは無かった。
犬山の正当防衛が認められたのは、佐々木の訴えがあったことを、犬山自身も勘づいていた。
森崎が逮捕されたことで、事実上、事件は解決した。だが、水井の死は、何らかの形でマーリスが絡んでいたことは間違いないと、犬山は確信していた。
とはいえ、これまで一切の情報が載せられなかったマーリスの存在を、県警は空想であったと結論づけた為、以後、マーリスの存在を問われることはなかった。そして、当の本人である犬山も、深堀することはなかった。
───なってみせる。
あの日の水井との約束を、破るわけにはいかない。犬山は、水井のような刑事になることを、決意していた。
水井が死んだと同時に、春は明け、猛暑の夏がやってきた。
すっかりと、犬山に狂犬の影は無くなってしまっていた。
堅実で、仕事熱心なその姿からは、かつての水井を感じられるほどであった。
その後、持ち前の実力で、幾多の事件で手柄を挙げ、更には昇任試験に合格し、犬山は巡査部長へと昇格。
捜査一課一年目とは思えないほど、圧倒的な成長を見せた。
「すっかり、一人前の刑事になったな」
書類整理を淡々とこなしていた犬山に、佐々木が話しかけた。
「仕事も大事だが、たまには休憩しろよ。変なとこまで、水井に似ちまうんだから」
「分かってます。ですが、今のうちに片付けてしまった方が、後々楽なので」
丁重な敬語で、愛想よく返した。
夜、仕事を一通り終え、署を出た。
自身の単車に向かう途中、犬山は足を止めた。
目線の先には、水井がよく立ち寄っていた喫煙所があった。
あの日、水井に渡せなかったピースを、犬山は取り出した。
いつか吸おうと準備していたライターで、煙草に火をつける。先端が赤くなったのを確認し、煙を肺に吸い込んだ。
相変わらず不味い。だが、咳は出なかった。以前よりも吸いやすくなっている。
やはり慣れなのだろうか───疑問に思いつつも、あっさりと一本の煙草を吸い切ってしまった。
犬山は喫煙所を後にし、単車に跨って帰路についた。
空には、美しい満月が、光り輝いていた。
冬の夜だった。
クリスマス・イブということもあってか、イルミネーションの光り輝く通路には、人混みに溢れていた。
ある程度、人混みから外れた頃、犬山は煙草を取り出し、口に咥えた。近くに喫煙所があることを知っていたからだ。
火もつけず、ただ煙草を咥えっぱなしにしていた時、背後から人の気配がした。
「そこの君」
掠れた野太い声。振り返ると、額に傷のある、威圧感に溢れた巨漢が、こちらを見つめていた。
「なんです」
男は、しばらく犬山の眼を睨んでから、口を開いた。
「君が、狂犬か」
狂犬───以前、犬山が罵られていたあだ名だ。見ず知らずの男が、なぜ自分のことを知っているのか。
疑問を口にしようとした時、男が声を出して遮った。
「狂犬と言われていたほどには、らしくないな」
男は、自分に何の用があるのか───次々と疑問が重なっていく。
「あの…」
犬山がようやく声を出したが、男に圧に言葉が詰まった。
「マーリスは、お前にしか倒せない」
咥えていた煙草が、地面に落ちた。
警察にすら知られていない名を、なぜ──
やはり、男は犬山の問いに、答えるつもりはなかった。
またどこかで───と言い残し、男は闇へと消えていった。
狂犬の影 [完]
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[お知らせ] 少し前に、運営からエピソードごとのカバー画像が設定できなくなると発表がされていました。 個人的に、カバー画像も拘っての小説だと思うので、ノベライズ版の第二部&第三部は、連載ではなく別々にしようと思います。 把握の方よろしくお願いします🙇♂️
長文お疲れ様でした<(_ _)>
慣れないノベルで読みにくい所もあったかもしれませんが、なんとか第一部書ききれました! 第二部は現在制作中です。この調子だと多分公開できるので、ぜひ気長に待っていただけると嬉しいです!