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「講和?」
ビスコーネは、差し出された書状から顔を上げた。
「ええ。グラン軍より使者が参っております」
「なんと言ってきている?」
「マシニーサ王子に王位を譲り、ヌミダスから兵を退けるように、と」
一瞬の沈黙。
やがてビスコーネは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
書状を卓上へ放り投げる。
「なぜ、こちらが勝っているのに王位を譲らねばならん」
マシニーサは敗れ、国を追われた。
そのマシニーサを連れてスピリタスがヌミダスへ上陸してきたものの、
ウテカを落とすことすらできず、そのまま冬を迎えようとしている。
優勢なのはこちらだ。
そんな条件を飲む理由など、どこにもない。
「使者を追い返しますか?」
「当然だ」
そう答えかけて――。
ビスコーネは、ふと窓の外へ目を向けた。
冷たい北風が幕舎を揺らしている。
海から吹きつける風は日に日に強くなり、夜ともなれば吐く息さえ白くなった。
「……いや、待てよ」
口元がゆっくりと吊り上がった。
「スピリタスどもは、海岸近くに陣を敷いているのだったな?」
「はっ」
「この寒空の下、海風に吹かれながらの越冬か」
ビスコーネは喉を鳴らして笑った。
「それは、さぞつらかろうのう」
「では……?」
「決めた」
椅子へ深く腰を下ろす。
「講和には応じる」
側近たちが驚いて顔を見合わせた。
だが、ビスコーネは片手を上げた。
「勘違いするな。講和するとは言っておらん」
「……と、申されますと?」
「話し合うだけだ」
条件を出させる。
こちらも条件を返す。
難癖をつける。
また使者を送らせる。
そうして一日、また一日と時間を稼ぐ。
「春まで話し合ってやってもいい」
ビスコーネは楽しそうに笑った。
「講和の話を長引かせて、存分に震えていてもらおうか」
幕舎に笑い声が広がった。
ビスコーネもまた、満足そうに笑っていた。
自分がスピリタスを罠にはめたのだと信じて――。
その頃。
スピリタスは小高い丘の上に立っていた。
眼下には、広大なヌミダス軍の冬営地が広がっている。
数万の兵を収容する宿舎が所狭しと並び、その間を兵士や馬が行き交っていた。
隣にはマシニーサがいる。
スピリタスは先ほどから黙ったまま、敵陣を眺め続けていた。
兵の数を数えているのだろうか。
柵の高さを見ているのか。
それとも、攻め込む場所を探しているのか。
マシニーサがそう思っていると、不意にスピリタスが口を開いた。
「ねえ、マシニーサ王子」
「はい」
「ヌミダスの宿舎って、藁ぶきなの?」
「……はい?」
あまりにも予想外の質問だった。
マシニーサは眼下の陣営を見る。
「はい。越冬も兼ねておりますので。
柱は木で、屋根には藁や葦を使うのが普通ですが……」
「ふーん」
スピリタスは、それだけ言った。
また黙って敵陣を見る。
マシニーサは首を傾げた。
スピリタスの視線を追う。
木の柵。
木造の宿舎。
乾燥した藁。
密集して建てられた兵舎。
そして――。
冬の、乾いた風。
マシニーサの表情が変わった。
「……まさか」
スピリタスが笑った。
「じゃ、行こうか」
「どこへです?」
丘を下り始めたスピリタスは、振り返りもしなかった。
「講和しに」
冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。
未明。
まだ空が白み始めるより前のことだった。
ヌミダス軍の陣営、その一角から火の手が上がった。
最初は、小さな炎だった。
だが――。
その夜は、風が強かった。
火は藁葺きの宿舎から宿舎へと飛び移り、乾いた藁を食らって一気に燃え広がっていく。
「火事だ!」
「水を持ってこい!」
「馬を出せ!」
眠りから叩き起こされた兵士たちが、次々と宿舎から飛び出してくる。
だが、すでに遅かった。
強風に煽られた炎は、瞬く間に陣営全体へ広がっていた。
馬が嘶く。
兵が叫ぶ。
燃え落ちた屋根が崩れ、火の粉が夜空へ舞い上がる。
誰もが火を消すことに必死だった。
鎧を着ける暇さえない。
剣を持たずに飛び出してきた者もいる。
その時――。
地面が震えた。
「……なんだ?」
一人の兵士が暗闇へ目を凝らした。
馬蹄の音。
一つではない。
二つでもない。
無数の馬蹄が、燃え盛る陣営へ向かって近づいてくる。
「敵襲!」
叫び声が上がった。
「敵襲だあっ!」
次の瞬間。
陣営を取り囲んでいたグラン軍騎兵が、一斉に襲いかかった。
東から。
西から。
南から。
逃げ道を塞ぐように、騎兵たちが雪崩れ込んでくる。
その先頭を、一人の男が駆けていた。
「行けえええっ!」
マシニーサだった。
昨日まで、わずか十数騎を率いて荒野を彷徨っていた男。
その男が今、数千の騎兵の先頭に立っている。
炎を背に、マシニーサは敵陣へ突入した。
混乱したヌミダス兵に、抗う術などなかった。
火から逃げれば、騎兵がいる。
騎兵から逃げれば、炎が待っている。
軍勢は戦う以前に崩壊していった。
少し離れた丘の上から、その光景を眺めていたラエリウスは、
何とも言えない顔をしていた。
夜空を焦がす炎。
逃げ惑う敵兵。
そこへ容赦なく襲いかかる騎兵。
しばらく黙っていたが、やがて隣の男に尋ねた。
「将軍。」
「ん?」
「これは……卑怯なやり方なのでは?」
スピリタスは不思議そうにラエリウスを見た。
「いや。」
そして胸を張った。
「正々堂々、奇襲した。」
ラエリウスはしばらく黙った。
「いや、それを正々堂々とは言わないでしょう。」
「そうか?」
「そうです。」
「じゃあ、言い方を変えよう。」
スピリタスは再び燃え盛る敵陣へ目を向けた。
炎の向こうでは、マシニーサの騎兵が敵を追い立てている。
「バルカなら、こうした。」
ラエリウスは言葉を失った。
スピリタスは、静かに戦場を眺めていた。
かつてグランの将たちは、バルカの戦い方を卑怯と呼んだ。
正面から戦わない。
罠を使う。
地形を使う。
天候を使う。
敵の思惑さえ、武器として利用する。
だがスピリタスは違った。
敵が優れているのなら――学べばいい。
そして。
学んだものを、今度は敵に使えばいい。
「戦争だからね。」
スピリタスは小さく呟いた。
「勝てる時に、勝っておこう。」
夜が明けようとしていた。
燃え盛る炎の向こうから、朝日が昇り始める。
マシニーサが王座を取り戻すための最初の戦いは、
正々堂々たる奇襲によって始まった。
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コメント
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読み終わりました。ビスコーネが講和を長引かせて冬の寒さで苦しめようとする算段、その裏でスピリタスが「藁ぶき」と「乾いた風」から火攻めの奇襲を組み立てる流れが鮮やかでした。特に「正々堂々、奇襲した」と胸を張るスピリタスと、ラエリウスの「いや、それを正々堂々とは言わないでしょう」の掛け合いがツボです。バルカの戦術を学び、敵に使うという発想もスピリタスらしい。マシニーサが再び騎兵の先頭に立つ姿に、これからの王座奪還が本当に楽しみになりました。