コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「…どこにも見つかんねぇ…」
弟と別れて暮らし始めてしばらくたったある10月24日。この日になると、毎年思い出すことがある。この日は、あの条約が締結された日で、彼の終わりが約束された日だった。
そして、彼のことを思い出すと、それに伴って、彼の果たせなかった願いが胸を引き裂かんばかりの痛みを与える。
何百年経とうと、彼がここにいなかったとしても、彼が見たかった海を最期まで自分には見つけられなかったことは忘れるなどできなかった。違うと分かっていても、弟の顔の後ろに彼の顔がどうしてもその日ばかりは浮かんできてしまうから、彼を描いた絵を見ることで、彼はもういないと何度も自分に言い聞かせてしまった。
彼が消える前に、極秘で絵師を呼んで描かせたスケッチだった。少し擦り切れて色あせてはいたが、彼の姿を遺した数少ないものだろう。出来上がった絵を見た時、彼は「形として残るものに、意味はないと思っていたが…案外嬉しいものだな」と、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
その絵は、半紙に包んで日記に挟んでいたはずだったが…見つからない。
「最悪だぜ…」
そもそも、その日記がどこにも見当たらないのだ。日記のある部屋には鍵をかけて、その鍵はこちらに持ってきていた。あの日記は、自分が見せるからこそ価値がある。見せるのと見られるのでは大違いだろう。
書きかけの日記は持ってきてはいたが、スケッチを挟んだのは、一つ前の日記だったことを今更思い出した。しかも、その日記はよりによって自分の部屋の机に入れたままで、鍵もかけていない。
今になって、持ち物を全部持って来なかったことを後悔したが、仕方がない。
ーーー全てのものを持ち出してしまったら、もう二度と弟と暮らすことができないような気がして、ある程度のものは残してきたのだったが、よりによって、日記もとは。
あの絵だけは、弟に見せるわけにはいかない。弟が勝手に机の中を見ることはないだろうが、不安はあった。
もしも、あの絵が見られてしまったら。
ずっと昔、あの男が言ったことが急に現実感を伴って蘇ってくる。
あれは確か、帝国ができてすぐ後のことだった。
ほんの少し前まで争っていたローデリヒが訪れていて、その日初めてローデリヒは弟に会った。
挨拶をしたほんの一瞬、その顔に驚きと、痛みの色が浮かんだ。しかし、すぐにその表情は消えて、自分にはついぞ見せたこともないような穏やかな微笑が浮かんだ。
「ドイツ、貴方に永き繁栄があるよう、祈っていますよ」
しかし、部屋から出ていくその時、オーストリアの顔に再び暗い影が差し、聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
「…今度は、貴方の番ということですか」
その言葉が気になって、ドアを閉め、弟に聞こえないよう注意を払ってから口を開く。
「おい、さっきのはどういう意味だよ?」
「言葉通りの意味ですが何か?」
すましたような顔で事も無げにいうこの男とは昔から馬が合わない。
「ッんだよ、話す気はねえってことか。それは別にかまわねぇが、あいつに余計なこと話すんじゃねぇぞ」
「私は話しませんよ。貴方じゃあるまいし。ご自分の口に気をつけたほうがよろしいんじゃないですか」
思わず目の前の男の胸ぐらを掴みあげた。
「テメェ!」
一発喰らわせてやろうかと思ったその時、相手の男の言葉とは裏腹な悲しげな瞳と視線がぶつかり、拳を下ろした。
「ローデリヒ、俺がしたことをお前怒ってんのか」
「いいえ。私はどちらかといえば彼の滅びに荷担してしまった側ですから、怒ることなどできませんよ。ですが…彼の最期は…どうでしたか?穏やかに逝ったんでしょうか」
「ああ、この上なく穏やかだったぜ。国を亡くして長かったからな」
「そうですか…それなら…よかった…ですが、きっと彼は最期まであの子のことを思っていたのでしょうね」
エリザベータも随分と心配していたんですよ、とこちらから目を反らしながら独り言のように付け足す。
自分は心配していなかったような口ぶりだが、その顔からはそうでないことが明らかだった。
痛い部分に触れられている。
だからこそ、何でもなかった振りをして、平静を装って口を開く。
「そうだったとして、それがなんだってんだ。あいつには神聖ローマの記憶は残ってねぇよ」
「そうでしょうとも。彼は中途半端なことはしない人でしたからね。それでも、想いというのは時に恐ろしいほど強いものです。彼がどれほど強くフェリシアーノのことを思っていたか。それこそ、自分が滅びてもいいほどに」
「何が言いたい」
「もし。あの子が、自分から気がついたら、貴方はどうしますか?」
その答えは決まっている。
「話さねぇよ。それが、神聖ローマの決めたことだ」
ローデリヒの目に浮かんだ悲しみの色が僅かに深くなり、それから何でもなかったかのような表情に戻った。
「そうですか。それもいいでしょうね。私は止めはしませんよ。あの子は未来を生きていく国ですから、過去の柵など何も知らない方がいいでしょう。けれど、貴方はどうなんです。いつかあの子が貴方を凌ぐほどに強い国になったら、貴方は」
「起きもしてねぇことをさも起きたことみたいにいうんじゃねぇよ」
吐き捨てるように言ったこちらに軽く肩を竦めてから、ローデリヒは何も答えずにこちらに背を向けて歩きだしたが、ふと立ち止まってこちらを振り返る。
「国を失えばどうなるか、知らない貴方ではないでしょうに。このお馬鹿さんが」
惜しむような、憐れむような、同情するようなさまざまな感情が綯交ぜになった奇妙な表情だった。
「…だからなんだってんだよ。あの腐れ坊っちゃんが」
あの男とは昔から話が合わない。
会話がいまいち噛み合っていないようでいて、的確にこちらの痛いところを突いてくる。
マイペースで鈍いように見えて、その実栄華を誇る大国の老獪さと鋭さを見せることがあるのだ。
ーーー思い出すだけでも、腹が立つが、今はその言葉があの時とは違って胸をざわつかせる。
弟が、国として大きく成長した今、自分はどうなっていくのか。
『よく、わからない。海を見たこともなくて、初めて見る海かこんなに素晴らしいんだと思った。それなのに、何か、違うと感じた。何かはわからないが』
そうとは、本人の口から決して聞いたことはないが、少なからず、弟には彼の記憶の残滓があるのかもしれない。
お前は。お前たちは、何を探している?
戦い、傷つき、自分を初めとして、力を分けた同胞たちに徐々にその役割を奪われ続けながら、終わりを待つ身となった彼が、最期に何を想ったのか、今ならわかるような気がした。