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森の中に足を踏み入れた瞬間、ぞわりと全身に悪寒が走った。
あまりの魔力の濃度に、思わず眉根を寄せてしまう。
「――ヤバいね、こりゃぁ」
夏希先輩がそう口にして、私はこくりと頷いた。
「どこがあちらとこちらの境目なのか、わからないくらい同化している感じがします」
たぶん、迷ってしまえば間違いなく、戻ってくることが出来なくなるだろう。
それくらい、あちらとこちらの空間は曖昧に混ざり合い、この場にあった。
アリスさんは私と夏希先輩に改めて顔を向けて、
「絶対に、自分の名前だけは忘れないよう、気を付けて」
私と夏希先輩は深く頷く。
あちらの世界――今はもうこちらの世界だろうか――では奥に進むごとに、色々なことを忘れてしまう。
それは帰る道だけでなく、これまでの生い立ち、人間関係、言葉、そして、自分の名前すらも。
特に自分の名前を忘れてしまうと、芋づる式に自分に繋がる全てを忘れ去ってしまうと言われている。
それがこちらの世界から戻れなくなる一番の理由であり、最も恐ろしいことだった。
何故、どういう理由でそんなことが起こるのかは解っていない。
調べようとしても、調べた先から忘れてしまう、そういう魔法がかかっているのだ。
だから、メモされたこと以外にこちらのことは解らないし、それが正しいという保証もない。
ただ確実なのは、入れば全てを忘れてしまうということだけ。
こちら側のこの森のことを、私たち魔法使いたちは『名前のない森』と呼んでいる。
入れば名前を無くす森。名前どころか、全ての記憶を失っていく恐ろしい森。
そんな森の中を、真奈ちゃんは彷徨っているのである。
「今のところ、みんなの魔力線はまだこっちに流れてきてるね」
しばらくして、夏希先輩は今まで歩いてきた獣道を振り向いた。
振り向いた先には鬱蒼とした樹々が立ち並んでいるようにしか見えないのだけれど、確かにあちらに残った皆から流れてくる魔力の流れを身体で感じることができた。
ただ、この流れもどこまで続くかわからない。
どれくらいまで奥に進んで大丈夫なのか、どこまでならこの魔力を辿って戻ることができるのか、わからないのだ。
「とにかく、急ぎましょう」
私は再び前を向き、
「早く真奈ちゃんを見つけないと。真奈ちゃんの記憶が失われる前に」
私はホウキを取り出し、夏希先輩と一緒に腰かけて宙に浮かび上がった。
歩いて探すより、ホウキで空から探した方が早い。
アリスさんも可愛らしくデコレーションされたホウキに腰かけると、
「行きましょう」
言って、私の前を飛んでいった。
人生二度目となるこちら側の森の中は、高校の頃に訪れた時と変わらないままだった。
名前も知らない木々や植物に溢れかえり、自分たちの世界では見かけない動物――幻獣たちがあちらこちらを歩いていた。
やたらと細長い足が特徴的で、ボサボサの羽に大きな嘴が不気味なジャブジャブ鳥。
長い耳にバクのような口元の、豚に似た緑色の身体のラース。
アナグマか狸のような見た目で、グルグルの栓抜きのような口をしたトーヴ。
他にも名も知れない、謎の生き物たち。
そんな動植物を見下ろしながら、そこで私は、自分の名前を確かめた。
私は、鐘撞葵。
私の後ろにいるのは、榎夏希。
前を飛んでいるのは、楾アリス。
探しているのは、楸真奈。
楸真奈は、楸真帆と楸優の娘。
……うん、大丈夫。まだ、何も忘れていない。と、思う。
もし忘れていたとしても、忘れたことすら忘れているのかも知れないけれど。
「夏希先輩、魔力磁石は?」
「このまま、まっすぐ先を示してる」
私は前を飛ぶアリスさんに、
「アリスさん! そのまままっすぐみたいです!」
アリスさんはこくりと頷くような仕草を見せて、
「えぇ。解るわ」
それからわずかに首をひねってこちらに顔を向けてから、
「感じるもの。真奈ちゃんの魔力を」
「魔力磁石も無しにですか?」
驚いて尋ねると、「えぇ」とアリスさんは答えて前を向き、
「……だって、真奈ちゃんのこと、彼女が生まれた時から解っているもの」
その言葉には、確かな自信が感じられた。
まぁ、でも、それもそのはずだろう。
真帆先輩が真奈ちゃんを産んだ時、付きっきりで母娘のお世話をしていたのがアリスさんだったのだから。
アリスさんからすれば真帆先輩は妹も同然だし、その妹も同然の真帆先輩が産んだ娘は姪っ子も同然。そしてそんな姪っ子も同然の真奈ちゃんとは同時に、師弟関係でもあるわけで。
長くずっと一緒だったからこそ、魔力磁石なんてなくても、感覚で真奈ちゃんの魔力の流れを辿ることができるということだろう。
しかも、真帆さんが魔法協会の仕事で遠方に行っている間、真奈ちゃんのお世話を代わりにしていたのも、アリスさんだったはずだ。
ともすれば、その絆は実の母である真帆先輩よりも――
その時だった。
どこかから、バサバサと何かが羽ばたくような、大きな音が聞こえてきたのだ。
「聞こえる? アオイ」
「はい」
私は答え、先を飛ぶアリスさんに声を掛けようとして、
「――っ!」
突然、目の前に現れた大きな影に、息を飲んだ。
そこには、鋭利な牙の並んだ口を大きく開いた、ぎょろぎょろ目玉の巨大な化け物の姿があった。
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