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それから数日間
俺はいつも通り自分の経営する花屋に出勤し、笑顔を張りつけて接客をしていた。
朝の光が差し込む店内は、色とりどりの花々が咲き誇り、甘やかな香りが満ちていた。
しかし、その美しい光景も、俺の心には届かない。
ガラス張りのショーケースに並んだ鮮やかな花々は、まるで俺の心を映し出すかのように
鮮やかでありながらもどこか寂しげに見えた。
笑える時点で、まだ大丈夫なのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
口角を上げて、愛想の良い言葉を並べる。
そのたびに、頬の筋肉がひきつるような感覚があった。
ここに立てている時点で自分は大丈夫、メンタルが少しやられただけだ。
大丈夫、大丈夫。
まるで壊れたテープレコーダーのように、何度も何度もそう言い聞かせて
何事も無かったかのようにいつも通りに振る舞う。
兄さんのことなんて忘れてしまえばいい。
そう思うようになった。
そうしたほうが自分にとってもいいのだと思った。
そうすれば、この胸の痛みも、心の奥底に沈む鉛のような重さも消えてなくなるのではないかと。
けれど心の中では、拭いきれない違和感が常に付きまとっていた。
それはまるで、美しい絵画の中に
一枚だけ不自然に歪んだ筆跡があるような、そんな小さな、しかし決定的な違和感だった。
いつものように花に水をやり、来店する客に明るい声で「いらっしゃいませ」と声をかける。
完璧な笑顔を貼り付け、花束を丁寧にラッピングする手つきも普段と何一つ変わらないはずなのに、どこか上の空になってしまう自分がいた。
客の言葉が遠く聞こえたり、花の色がぼやけて見えたりするたびに
これが自分でも不思議で仕方がなかった。
まるで魂だけが抜け落ちてしまったかのような感覚に、時折、胸が締め付けられる。
ふと、手にしたバラの棘が指に刺さり、チクリとした痛みが走る。
その痛みだけが、俺がまだここに存在していることを教えてくれる唯一の感覚だった。
店の一角に置かれたテレビから流れるニュースも
街の喧騒も、全てが遠い膜の向こう側で起こっている出来事のように感じられた。
◆◇◆◇
そんなある日の休日
いつもの4人でバーに集まって晩酌をしようという話になり
久しぶりに皆で飲むことになった。
重い足取りでバーの前に着くと、ちょうど仁さんと鉢合わせになった。
夕暮れのオレンジ色の光が、仁さんの横顔を照らしている。
その姿を見るだけで、胸の奥が締め付けられるような気がした。
「楓くん、久しぶり」
仁さんの優しい声が耳に届き
「あっ、仁さん……」
と、自分でも驚くほど元気の欠けた返事をしてしまった。
その声は、まるで枯れた花のように生気がなく
すぐに仁さんにバレてしまった。
「どうした?顔色が悪いが」
彼の鋭い視線が、俺の心の奥底まで見透かしているようだった。
仁さんの視線が真っ直ぐに俺の顔を捉え、その心配そうな眼差しに一瞬言葉に詰まる。
彼の瞳には、俺を案じる色がはっきりと見て取れた。
彼の瞳には、俺を案じる色がはっきりと見て取れた。
「え?いや、なんでもないです!」
精一杯の笑顔を作って誤魔化そうとするが、その笑顔はひどく歪んでいたに違いない。
頬の筋肉が強張り、無理に作った笑顔は
かえって俺の不調を際立たせていた気さえする。
「本当か?」
仁さんはまだ疑っているようだった。
その問いかけに、俺はさらに焦る。
「はい、ちょっとした仕事疲れなので!」
無理に明るい声を出して、仕事のせいにしてしまった。
声が少し上ずっているのが自分でもわかる。
仁さんは眉をひそめ、じっと俺を見つめる。
その視線は、まるで俺の嘘を見破ろうとしているかのようだった。
「……ならいいけど」
そう言いながらも、仁さんの表情は不安そうだった。
その優しさが、かえって俺の罪悪感を刺激する。
彼に心配をかけていることが、何よりも辛かった。
「それより、早く入りましょ!」
俺は無理やり話を逸らし、仁さんの腕を引いて店の中へ促した。
一刻も早くこの場から逃れたかった。
「あ、ああ。そうだな」
二人で店の中に入り席につくと、すでに瑞希くんと将暉さんが集まっていて
楽しそうに談笑していた。
彼らの明るい声が、今の俺には眩しすぎる。
店内の賑やかなBGMと、人々の話し声がまるで遠い幻のように聞こえた。
「あ!やっと来た~二人とも遅すぎ〜」
瑞希くんが手を振って、子供のように無邪気に声を上げる。
その元気な声が、俺の沈んだ心には響かなかった。
「いやいや瑞希くんが早すぎるんだよ。待ち合わせ5分前だし」
苦笑いしながらそう突っ込むと
「はあ?」と不服そうな顔を見せる瑞希くん。
その軽快なやり取りが、いつもなら心地よいはずなのに今日はどこか遠く感じられた。
彼らの楽しそうな姿を見るたびに、俺だけが取り残されているような孤独感に襲われた。
「まあいけど、それより早く乾杯しよ」
瑞希の催促に、店員さんに注文をして乾杯を済ませると、4人はそれぞれ話し出した。
グラスがカチンと鳴る音も、会話の賑やかさも
全てが遠い世界のことのように思えた。
喉を通る冷たいアルコールが、身体中にじんわりと広がり、じんわりと火照りを覚えた。
普段ならもう少し時間がかかるはずなのに、今日はやけに早く酔いが回ってくる。
アルコールが、俺の心の重さを少しずつ溶かしていくようだった。
「ふう……」
小さく息を吐くと、心地よい酪感を感じ始める。
身体の力が抜けていくような感覚に身を任せ
そのままテーブルに突っ伏し、腕を枕にするようにして顔を埋めた。
意識が溶けていくような、ふわふわとした浮遊感。
頭の中が、白い霧に包まれていくようだった。
「楓ちゃん今日は酔うの早いね?」
俺の様子を見て、俺の斜め右前に座る将暉さんからそんな言葉が飛んできて
将暉さんの声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
少し恥ずかしくなりつつも、重い頭を上げて返答をする。
「そうですね、今日はなんだか酒が進んじゃって」
曖昧な笑みを浮かべながらそう答える。
「そうなんだ?まぁそんな日もあるよね」
将暉さんの声が聞こえる。
そんな感じで話しているうちに、どんどん酔いが回ってきたようで
頭がぼうっとしてくるのを感じた。
目の前で行われる会話が、まるで別世界のことのように聞こえるような錯覚に陥りながらも
俺は必死に話を聞いていたのだが、途中から何を言っているのか全く分からなくなってきた。
音の洪水の中に、意味の無い言葉だけが漂っているようだった。
音の洪水の中に、意味の無い言葉だけが漂っているようだった。
視界が歪み、彼らの顔もぼんやりと霞んで見えた。
そんなとき
「…くん、楓くんって…!」
仁さんの声が、まるで遠くから呼びかけるかのように耳に届き、ハッとする。
「え…?な、なんですか…??」
慌てて顔を上げると、仁さんが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「大丈夫か?さっきから何度も呼んでるのに反応しないし、もう酔ってるの?」
彼の心配そうな顔を見て、俺は咄嗟に答えた。
口から出る言葉は、まるで他人事のように聞こえた。
「え、えっと…そういうわけじゃないですよ!ちょっと、気が抜けてて…」
必死に言い訳を並べるが、声は震え、顔は熱い。
額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「……すみません、やっぱり今日抜けていいですか?だいぶ、疲れてるみたいで…っ」
もうこれ以上、この場にいるのが辛かった。
皆に心配をかけるのも、無理に笑顔を作るのも
全てが限界だった。
自分で参加しといてなんだが、このままここにいたら、きっともっと醜態を晒してしまう。
3人から了承を貰うと、俺は申し訳なく思いながらも席から立ち
その場で会計を済ませて店員さんからお金を貰うと、深い息をついた。
財布から小銭を取り出す手が、微かに震えていた。
「じゃあ、すみません。お先に失礼します」
そう言い残して身を翻し、店の出口に向かおうとした
そのときだった
突然足元がふらつき、まるで糸が切れた人形のようにそのまま力が抜けたように床に膝を着いてしまった。
ガタン、と小さな音がしたような気がしたが、それすらも曖昧だった。
視界がぐらりと揺れ、床が迫ってくる。
「ちょ……っ、楓くん…大丈夫……?」
慌てた様子で仁さんがこちらに駆け寄ってくるのが見える。
その焦った声が、俺の意識の薄い膜を揺らす。
将暉さんと瑞希も、驚いた顔でこちらを見ているのが分かった。
しかし、俺は返事ができないほど意識が朦朧としていた。
喉が張り付いたように、声が出ない。
「…………っ…」
ああ、だめだ。言葉がでない。
頭の中が真っ白で、何も考えられない。
気分転換のために、呑みに来たというのに早々にリタイア
それに加えて店内で膝崩して倒れるとか、なにやってんだろ。
仁さんたちに心配かけてるし、普段は気にならない周りの目も、今は針のように突き刺さる。
焦燥感が全身を蝕んでいく。
早くこの場から消えたい、という思いだけが俺の意識の片隅を占めていた。
そうやって焦燥感に蝕まれたところで、俺の意識は完全に途切れた。
暗闇が全てを覆い尽くした。
意識が途切れる直前、仁さんの焦った顔が、まるでスローモーションのように脳裏に焼き付いた。
そうして次に目を覚ました時には、見慣れた自宅のベッドの上に寝かされていた。
天井の模様がぼんやりと視界に入り、自分がどこにいるのかをゆっくりと認識する。
柔らかいシーツの感触が、肌に心地よかった。
「あれ……?」
掠れた声が喉から漏れた。
俺が目を覚ますと同時に、部屋の扉がゆっくりと開き、そこから仁さんが顔を覗かせた。
その顔には、安堵と心配が入り混じった表情が浮かんでいた。
彼の存在が、俺の心を少しだけ落ち着かせた。
「あ、起きたか?……急に倒れるからびっくりした
ぞ」
優しい声色で俺に問いかけてくる彼を見ると
なぜだか無性に涙が溢れてきそうになるのを感じて、思わず目を背けてしまう。
その優しさが、今の俺にはあまりにも重かった。
彼の心配そうな声が、俺の心の奥底に響き渡る。
「えっと……はい…」
蚊の鳴くような声で答える。
仁さんは俺の返答を聞いた後、少しだけ黙り込ん
だ。
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