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#ヒューマンドラマ
Hp2
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市場で見せた『形』ではない。
けれど、同じ無防備が、今度は部屋の静けさに守られている。
縫季はその笑みを、視線で追ってしまった。
追った、と気づいた瞬間に、遅れて心拍が跳ねる。
帝辛は茶碗を置き、僅かに身を乗り出した。
湯気の向こうで、瞳だけが冴える。
さっきまでの脆さを、器用に畳んでしまう目だった。
「――今の顔、忘れるな。私が許す」
命令でもないのに、赦しの形だけが落ちた。
縫季の喉が一瞬、鳴る。
――年下のくせに。
腹が立つ。はずなのに、胸の奥が妙に熱い。
縫季は帳尻を合わせるように、官吏の顔を作った。
「……恐れ入ります」
そう言ってから、しまったと思う。
丁寧すぎる。距離が、逆に露骨だ。
帝辛は、笑った。
「……そういう返しをするから、そなたは厄介だ」
からかう笑みではない。
けれど主導権だけは、確かに握ったままの口元だった。
「……手強い男だ。官吏の分際で、私の心の中に無遠慮に踏み入ってくる」
そう言いながら、帝辛は自分の碗に茶を注いだ。
注ぐ量は、やはり一定だった。湯の線が、迷わず止まる。
「だが……悪くない。その無作法に、少し救われた」
温かい茶の香りが、二人の間に満ちる。
しかし、その安らぎを塗りつぶすように、縫季の脳裏には「黒闢」という不気味な影が、消えない滲みとなって残り続けていた。
帝辛は茶碗を置き、ふと、縫季の指先を見た。
見ているのは指ではなく――そこに残る、さっきの『押さえ方』だと縫季は思った。
「……不思議だ」
帝辛が小さく言う。
「そなたの言葉は、どこか……ここではない場所の匂いがする」
王太子府の長い回廊。
静寂から放り出された縫季の耳には、自分の足音さえもやけに大きく響いていた。
(……忘れるな、か。言い方がいちいち生意気だ)
赦しの言葉を振り払おうとした、その瞬間だった。
回廊の影が、ふっと薄くなる。
天井も壁も変わらないのに、空気だけが「白く」なる。
潮でも霧でもない、香の海のひかり――
灯台の光が、縫季の輪郭をそっと撫でて包み込んだ。
冷たい指で後頭をなぞられたみたいな感覚が、奥から広がる。
音はない。
耳ではなく、脳の内側に直接、何かが落ちてくる。
縫季は胸の底で言葉を整えて、光の内側へ返した。
口に出せば回廊に響く。呼吸と一緒に、流し返す。
『状況を』
灯台の声ではない。
情報の圧だ。問いの形をした、数値の要求。
『配給線、異常なし。倉と工房の動線も良好。民の士気、安定』
『香の濃度を』
縫季は一瞬、止まった。
(……香の濃度?)
『執務棟周辺、記録値より零・三層、上振れている』
光が重くなる。受け取った合図ではない。
計算している間だ。
『倉庫区は』
『……こっちは逆だ。記録値より薄い』
『乖離の方向が逆転している』
灯台はそこで一拍、沈黙した。
縫季はその沈黙の意味を、調整員として知っている。
乖離は一方向に起きるのが自然だ。
濃い方向と薄い方向が、同じ敷地内で逆転している――
それは「流れ」ではなく、「意図的な偏り」を示す。
『……誰かが、香の分布を操作している』
『記録にない香が、特定の経路に乗っている。流入の起点を探せ』
『王太子の線は』
縫季の呼吸が、一拍だけ遅れた。
光がすぐにそれを拾う。
『今、呼吸が一拍遅れた』
『……歩いてるからだ』
『王太子の線の話をする前に遅れた』
返す言葉が、見当たらない。
灯台は続ける。声の起伏はない。
感情がないから、余計に刺さる。
『私情は記録に残る。
縫う者の線が歪めば、修正対象に干渉できなくなる』
『……分かってる』
『王太子の線、現時点での固定点との距離は』
縫季は息を吐いた。
仕事に戻れ、ということだ。
『まだ遠い。だが……縮まってはいない。
悲劇の起点は、王太子の内側じゃない。
外から入ってきてる』
『香の流入経路と一致するか』
『……一致する可能性が高い』
光が、また一瞬だけ重くなる。
『引き続き観測しろ。
記録に残らない香は、存在しなかったことになる。
だが、その香が人に触れた痕跡は――線に残る』
縫季はその言葉を、胸の奥に落とした。
記録に残らない香でも、人が変わる。
人が変われば、選択が変わる。
選択が変われば、歴史の線が歪む。
香そのものは記録からこぼれる。
だが、香に触れた人間の選択は、正史に刻まれる。
『以上だ』
光が、すっと引いた。
コメント
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第10話「乖離」、読ませてもらいました……! 茶の間での帝辛と縫季の、距離感の絶妙なやりとりがすごく好き。帝辛の「今の顔、忘れるな。私が許す」ってセリフ、命令じゃないのに赦しの形だけが落ちてくる感じ、胸に来ました。縫季の「年下のくせに」って感情が、立場を超えて心を揺らすのが切ない。 そして回廊の灯台との通信――「呼吸が一拍遅れた」って指摘される瞬間、ハッとしました。香の乖離が逆転してるって、誰かが意図的に操作してる匂い。記録に残らない香が人に触れて、歴史の線が歪む……この世界のルールがじわじわ染みてくる。続きが気になります🌙