ソラマリアたちは空からの再襲撃に警戒しつつバゾ湖を発ち、豊穣を寿ぐべく秋の粧いへと彩るイーヴズ連山を突き進んでいた。山を北に抜ければ、いよいよユカリ派の使い魔たちと落ち合える街にたどり着く。
朝まだきの灰色がかった柔らかな明かりの中、一羽の眠たげな梟が紅と黄金の山稜へと舞い降りる。ソラマリアはすかさず撃退しようと剣の柄に手をかけた。
「待って。一羽だよ」とベルニージュの警告を受け、飛び掛かるのはやめにする。
一昨夜、襲撃してきた使い魔は十中八九嗾ける者だと既に除く者から聞いている。一羽では反撃できるわけもない。考えられるとすれば使者として送られてきた梟なのだろう。しかしソラマリアの予想に反して、その梟には嗾ける者自身が貼られていた。
梟はユビスの背負う荷の上にとまり、恭順を示すように背を低くする。
「えーっと、私は嗾ける者で――」
そうと分かるとソラマリアは獲物を射程に収めた蛇の如く瞬く間も無しに梟を取り押さえ、封印を剥がした。
「何それ? モディーハンナはどういうつもり?」ユカリが問い詰めるように嗾ける者、そして除く者へ視線を向ける。
しかし二人ともがまるで分からないと首を振る。
一行は道なき道の山間の少し開けた場所で、昼の軽い食事を摂りながら嗾ける者の持つ情報を開示させていた。
「魔導書を譲るだけでなく、情報を多く持つ使い魔を手放すというのは解せないですわね」とレモニカの姿のレモニカがソラマリアの腕につかまりながら呟く。
「罠か何かだとしても、そうと分かる雑な罠だしね」と言うベルニージュはいつも以上に疑心暗鬼だ。「こいつに知ってることを話させたとして、嘘、というより事実ではないんじゃない?」
固い麺麭にどこかで買った鰊の塩漬け、野生の香草抜きをベルニージュは齧っている。
「どういう意味? 嘘って普通事実じゃないでしょ?」とユカリ。
「要するにさ。ワタシたちを惑わすために嘘を吹き込まれてるのかもしれない」とベルニージュが解説する。
「なるほど。真実を話すように命じられ、知ってることを全て話したとしても、それは私自身が真実だと思っているだけの嘘、と。確かにその可能性はありますね」と嗾ける者が他人事のように感心する。
グリュエーがくすくすと笑う。「冷静だね。何とも思わないの?」
「まあ、そうだったなら私は救済機構に貢献できているということですからね」と梟は羽毛を震わせてふんぞり返る。「敵を騙すにはまず味方から、なのでしょう」
「もう破綻しているでしょう」とアギノアがぼそりと呟いた。
「とりあえず真偽を見極めるためにも引き続き知ってることを全て話させよう」とソラマリアは提案し、反対意見もないので、その通りに嗾ける者に命じた。
そうして食事を終えた後も嗾ける者に洗いざらい話させながら険しい山道を進んでいた。が、どれもこれも以前から知っていたか、除く者に教わっていたか、あるいは推測できる内容ばかりだった。嘘を警戒していたものの、そもそも新情報がないので杞憂に終わりそうだ。
「それでは焚書機関第五局の話はどうですか?」と嗾ける者の方から提案し始める。「実は今、焚書機関の第五局が魔法少女狩猟団の下で働いているのですよ」
「それも知っている」とソラマリアが返す。「捨て駒のように扱われているようだな。古巣とはいえ私の元部下だ。憐憫の情も湧こうというものだ」
「捨て駒になっている理由はご存じで?」と梟は取り入るように尋ねる。
「お前たち使い魔の取り扱いもぞんざいな気がするが」ソラマリアの指摘に梟は何も返さない。「第五局は元々ライゼン大王国に潜入して諜報活動や破壊工作、暗殺を通じて魔導書を探究する部隊だ。焚書機関の中では魔法少女抹殺という任務に適している、からではないのか?」
「違うわ」とレモニカが答える。「忘れたの? 第五局の一番の狙いはソラマリア、貴女よ?」
「その通りですが、少し違います。第五局、というより上の連中の目的は貴女を――」
突如ソラマリアの言葉を遮るように巨大な黒い影が現れ、ユビスの背に乗っていた嗾ける者と憐れな梟が攫われた。そうして走り去るのは影で塗り込めたかのような立派な風体の黒馬だった。長毛馬ユビスに比べると小さな体だが、躍動する筋肉は山岳を横切る雲のように力強い。騎手は鉄仮面にライゼン風の服装、第五局の焚書官だ。不思議なことに散らばった木の葉さらに蹴散らしているにもかかわらず、その馬の足音は完全な無音であり、幽霊の如く遠ざかっていく。
直後、ソラマリアは自らの足で馬を追って駆け出し、一瞬遅くベルニージュの放った炎の燕がソラマリアを追い抜いて黒馬に迫るが、鬣に目があるかのようにかわされる。
山道に慣れていないユビスと違って、その黒馬は傾斜に揺らがず、木々を軽妙に避けながら駆けていく。
「貴女を利用した処罰なんですよ! ソラマリア!」と今まさに攫われている最中の嗾ける者が叫んでいる。
まだ封印が貼り直されず、ソラマリアの命令のままに暴露しているのだ。黒馬の乗り手はソラマリアから逃げながらでは嗾ける者を貼り直すことができないらしい。
「嗾ける者! 暴れろ! 逃げろ! 抵抗しろ! 封印を剥がされるなよ!」とソラマリアは【命じた】。
黒馬の足が鈍り、ソラマリアとの距離が縮む。処罰とは何のことだろうと気を取られつつも、唱え慣れた魔術で氷の槍を右手に握り、狙いを定め、黒馬の乗り手に投擲する。
そしてかわされる。それは想定内だったが、そのありようは想定外だった。馬とは思えない垂直方向の跳躍。黒馬は高々と飛び上がり、軽く木の枝に蹄をかけたかと思えば、次の木の枝へと跳躍する。到底馬の在り方とは言えない。
その猿のような動きにソラマリアが呆気にとられて足を止めたのはほんの一瞬だったが姿を見失うには十分だった。そしてやはり戛々たる馬蹄の響きは耳に届かない。
「処罰とは何の話だ!」と思いついたことを叫び、【命ずる】。「聞こえるように言え!」
「第五局の僧兵たちの罪ですよ! 貴女に対する罪です!」
嗾ける者の声が聞こえる方へとソラマリアは再び駆け出す。
馬の重みに耐えられるはずのない小枝やその先の葉は揺れすらしていない。黒馬は何の痕跡も残さず逃げており、故に嗾ける者の声だけが頼りだった。
「私に対する罪!? 何のことだ!?」
せめて観る者だけでも持って来れば、と思ったが白紙文書の中から探している内に逃げ果せただろう。今のソラマリアに追いつく可能性があるとすればグリュエーだが、これほど静かに逃げられては望むべくもない。
「救済機構は公平なのです! たとえ今の貴女が教敵であっても、教敵と認定される以前の貴女に対するセラセレアたちの罪悪を許すことはありません!」
セラセレアとは第五局の現首席焚書官であり、かつてのソラマリアの副官だ。至極丁寧で、ともすれば慇懃無礼と見なされることもあったが、副官としてよく助けてくれた。姉のようであった、気がしないでもない。
山を駆け、木々を避けて逃亡者を追いながら思い返すがセラセレアの罪など何も覚えはなかった。むしろまだ若造だった自分の方が迷惑をかけたように思う。挙句の果てには大王国に捕まり、王妃に絆され、裏切ったのだ。ソラマリアの方には後悔や罪悪感などまるでないが、救済機構の側からすればソラマリアの方こそずっと罪深い存在であるはずだ。
「一体何をした、私は何をされたというのだ!?」
「貴女を大王国に売ったのがセラセレアなのですよ!」
それを聞いてもソラマリアに大した衝撃はなかった。元々自身には何の落ち度もなく失敗もなく大王国に捕縛されたので、その可能性は高いと考えていたのだ。嗾ける者の声が聞こえる方向が大きく変わり、しかしすぐさま合わせられる程度には冷静だった。方向転換で僅かに速度を緩めたらしい。黒馬と乗り手の姿を木々の間に垣間見る。
「そして魔法少女狩猟団の下で働きつつ!」ソラマリアは再び氷の槍を構え、狙いを定め、「私を暗殺する任務が刑罰というわけか!」気勢と共に放つ。
「そんな風に考えている者は上にいませんよ! こいつらは死刑囚で、貴女が処刑人なのです!」
空気との摩擦熱で溶解する速度で放たれた氷の槍は半分ほどの大きさに縮みながらも黒馬の乗り手に突き刺さる。
しかし何かがおかしい。木々の間の僅かな隙間からしか見えず、その異変に確信は持てなかったがソラマリアは警戒する。抜刀しつつ、落馬した襲撃者のもとへ向かう。
地面に倒れた襲撃者は氷の槍に貫かれたために血が吹き出ていた。だがそもそもソラマリアが狙ったのは馬の方だった。どうやら騎手の方が馬をかばったらしい。
駆け寄り、検める。息絶えていた。そして嗾ける者の封印を持っていない。
黒馬の姿はどこにもなく、相変わらず蹄の音は聞こえず、嗾ける者の叫び声も消え失せ、森は静寂を保っていた。