テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
白山小梅
12
#借金
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◇ ◇ ◇ ◇
ご遺体の記録を終え、ホワイトボードに書かれた情報を消していく。
今日運ばれてきたのは、一軒家の階段の下で亡くなっていた七十代の男性だった。最近は強盗殺人も増えていたため、検死に回されてきたという。そして解剖の結果、事件性がないことが証明されたため、ご遺体は家族の元に返されることになった。
つい先ほど、娘だという女性が刑事と共に遺体安置室に向かう姿を見た。肩を落とし、歩くのもやっとという様子だったが、しばらくしてから悲痛な泣き声が響き渡った。
刑事の話によると、嫁いでからは実家に帰る機会も減っていたらしく、いつか帰ろうと先延ばしにしていたら警察からの連絡が来たという。
「死って、こんなに簡単にやってくるんですね……。生きているのが当たり前で、もっと時間はたくさんあると思っていました。言いたいことはたくさんあったのに、何も伝えることが出来なかった……」
女性は冷たくなった父親に寄り添いながら、そう呟いたそうだ。
"当たり前"は突然崩れるーー女性の言葉を聞いた昴は、体に寒気が走るのを感じた。それに昨夜の出来事が影響しているのは自覚していた。
七香を好きな男がいる。それはいつか七香に好きな男が現れて、自分のそばから離れていくかもしれないことを示唆していた。
彼女がそばにいることが当たり前になってきた今、いなくなることを考えると怖くなる。この世に一人ぼっちになるような孤独感を覚えた。
俺には早紀さんがいるーーとは思えなくなったのはいつからだろう。早紀は昴のことを心の片隅にしか留めていない。昴が彼女を想ったところで、求められるのは体のみだった。そんな昴が人として生きていられるのは、七香がそばで見守って生きる力を与えてくれているからに他ならなかった。
七香がそばにいることが当たり前だった。もしいなくなったらーーそう考えてぞっとした。
その時、扉をノックする音が聞こえてハッと我に返る。
「どうぞ」
声をかけると扉が開き、思いがけない人物が顔を出したのだ。その途端、昴の表情がみるみるうちに変わり、相手のことを鬼のような形相で睨みつける。
「教授はただいま席を外しております。何かご用ですか?」
「あはは。そんな怖い顔しないでくださいよ。それに用事は教授じゃなくて、あなたにだってわかっているでしょ」
岩田はクスクス笑いながら扉を閉めると、ゆっくりと昴の方へと歩みを進めた。
「これ、手土産です」
手に持っていたペットボトルのコーヒーを昴へ差し出すと、不敵な笑みを浮かべる。いつまで経っても手を引っ込めようとしないので、渋々コーヒーを受け取ったが、すぐに自分の机に置いた。
「どうして俺がここにいるって知ってるんだ? 早紀さんに聞いたのか?」
「あれっ、知りませんでした? 俺もここの卒業生なんですよ。学部は違いますけど、一応あなたの後輩です。だから知り合いからあなたが大学に戻って来たって聞いて、知っていたんですよ」
岩田は部屋の中をぐるりと見渡す。ホワイトボードや、白衣姿の昴を観察してクスッと笑った。
「それにしても……年上女性のヒモだって噂が流れて、かなり荒れていたあなたが、まさかこんなに真面目に仕事に取り組んでいるとは思わなかったので驚きましたよ。やっぱり……島波さんのおかげなのかなぁ」
昴は表情を変えず、ただ岩田を見据えている。
「でもあんなにいい子が、あなたみたいな人のそばにいたらもったいないって思いませんか?」
「……どういう意味か、さっぱりわからないな」
「島波さん、社内でもすごく人気があるんですよ。狙ってる男性社員はたくさんいますからね。でも彼女、隙が全くなくて。しかも全然心を開いてくれない。なのにあなたと一緒にいる時は本当に自然体で、正直イラッとしましたよ。きっと彼女、あなたがそばにいたら、あなた以外には心を開かないと思うんです」
何故かわからないが、昴の動悸が激しくなっていく。
「でも今日一緒に食事をしたら、少しだけ心を開いてくれたみたいで、最後の方はたくさん笑顔を見せてくれて……やっぱり彼女を諦めるのはやめようかなと思って」
その先の言葉が想像出来、今すぐにでも岩田の口を押さえつけて、何も発言出来ないようにしてしまいたいと思った。
「菱川さんがいると、島波さんは幸せになれないと思うんです。だから、彼女から離れてくれませんか?」
心臓が止まったような気がした。息が苦しくなり、視線が揺れる。
「……嫌だ」
「どうして? だって二人はただの友だちなんですよね?」
「大切な友だちだ。それをどうして関係ない奴に『離れろなんて』指示されなきゃいけないんだ」
「そんなの簡単です。俺は彼女と付き合いたい。あなたが邪魔なんだ」
昴は衝動的に岩田のネクタイをぐいっと掴んだ。呼吸は乱れ、表情は怒りに満ちていた。
「何を怒ってるんですか? 俺は彼女を大切に出来る」
「俺だってーー!」
「あなたの一番は早紀さんじゃないですか。俺はとっくに早紀さんから離れてる。彼女を一番に大切に出来るのはあんたじゃない。俺の方なんだよ」
岩田はそう言い放つと、昴の体を突き飛ばした。よろよろと床に尻餅をついた昴を見下ろしながら、形の崩れたネクタイを直す。
「自分勝手な独占欲で彼女を縛るのはやめて、とっとと消えてください。それでは失礼します」
扉に向かって歩き始めたところで、岩田が一度振り返る。
「あぁ、そうだ。早紀さんに会う機会があれば、よろしくお伝えください」
扉が開閉する音が部屋に響くが、昴は項垂れたまま、頭を上げることが出来なかった。岩田が言ったことは全て正論で、昴の自分勝手な言動が浮き彫りになっただけ。
昴が七香を不幸にしているのだという彼の言葉は、鋭い刃となって昴の心を深く突き刺した。