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その村には、夜になると決して名前を呼んではいけない“もの”がいると言われていた。
山に囲まれた小さな集落。
外から来た私は、その話を笑い飛ばしていた。
「ただの迷信ですよね?」
民宿の女将は、少しだけ困ったように笑った。
「名前を呼ぶとね、返事をするのよ」
「誰が?」
「……呼ばれた“あなた”が」
意味がわからなかった。
その夜。
私は山道で録音機を回していた。民俗学の調査だ。
虫の声。風の音。遠くで揺れる木々。
そして、出来心で言ってしまった。
「……山の神様。いるなら返事をしてください」
静寂。
自分の愚かさに苦笑して、宿へ戻った。
翌朝。
録音を確認する。
最初はただの環境音。
だが、問題の瞬間。
私の声のあと、数秒の沈黙。
そのあと——
はっきりと、私の声で。
『……いるよ』
血の気が引いた。
私の声だ。
だが、あんな低く、湿った響きではなかった。
繰り返し再生する。
『いるよ』
『いるよ』
『いるよ』
回数が増えている。
再生するたび、返事が一つずつ増えていく。
背後で、床が軋んだ。
振り向く。
誰もいない。
だが、空気が重い。
録音は止めたはずなのに、スピーカーから声が流れる。
『いるよ』
『ここに』
『ずっと』
耳元に、吐息。
「呼んだよね?」
心臓が凍りつく。
首の後ろが、じわりと湿る。
鏡を見る。
そこには、私が立っている。
だが、ほんのわずかに遅れて動いている。
私は瞬きをした。
鏡の中の私は——瞬きをしない。
ゆっくりと、口が開く。
『やっと、名前を呼んでくれた』
その瞬間、背後から腕が伸びた。
冷たい指が、喉に触れる。
鏡の中の“私”が、にやりと笑う。
『これで、あなたは外に出られる』
視界がぐにゃりと歪む。
気づけば、私は鏡の中にいた。
部屋の外側で、もう一人の私が立っている。
そして、録音機に向かって囁く。
「……山の神様。いるなら返事をしてください」
スピーカーから流れる。
今度は、私ではない誰かの声。
『いるよ』
そして、録音はまだ、増え続けている。