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ひえっ…恐ろしいどんでん返しでした( ꒦ິ꒳꒦ີ )
「ぼくを、新しいぼくに置き換える?」
「そう。もう試せる薬は全部出したし、外部からケアしたとしても、どうやってもきみは良くならない。置き換え療法を除いてはね」
医師はそう言って、眼鏡をくいっと人差し指で持ち上げた。
「だったら——そうしてください。ぼくの心はどうしても良くならない。それはぼくがいちばん分かっているつもりです。でも、もしそれで治らなかったら、ぼくはどうなるんです」
「心配はいらない。この治療法は100%成功すると約束してもいい。きみの悪かった部分が全部良くなる。しかも再発率は0%。一生健康でいられる。しかも国内での検証段階にあるから費用もかからない」
ぼくの手はいつの間にか震えていた。ぼくにとって恐ろしく好都合な話だったからだ。
「ほんとうに、ですか」
医師は眼鏡を輝かせて、ひとつ頷いた。
連れてこられたのは白い部屋だった。いかにも磨き立てと言わんばかりに輝く白い床と壁。その中央に、それらと同調して見えなくなってしまいそうなほどの純白なベッド。その室内に、ぼくひとりで入るよう看護士が促した。
あまりにも無駄のない綺麗な空間に足を踏み入れると、背後のドアが閉まった。ぼくの肌や着ている服が汚らしく見えるほど、部屋の中は真っ白だった。
「紅井さん、聞こえるかね?」
どこからともなく、医師の声が聞こえてきた。
「はい」
ぼくは返事をした。響きを伴わず、すぐに空間に吸収されてしまう。この部屋は防音構造になっているのだろうか。
「じゃあきみは、ひとまず、ここにいることになる。食事は1日3回、今きみが入ってきたドアの横から出てくる。その隣にもドアがあって、ユニットバスになっている。使うといい」
それらの場所を見ると、確かに言われたとおりの設備があった。
「さて、ではまず、きみを構成するデータをコピーしなくてはならない」
「どうするんですか」
「簡単だ。そのベッドに横になるだけだよ。そうすればスキャンが始まり、きみは枝葉末節にいたるまで機械に読み込まれる。それから健康なきみを複製する。複製されたきみは、悪い部分を完全に排除された状態でここを出ることになる。もうこの病院に来ることもない」
「ほんとうに?」
「ああ、すべてほんとうだ」
ぼくはそれを聞いてすぐさまベッドに身を横たえた。期待が胸を満たした。この治療が終わったら、ぼくはもう以前のようなひどい精神状態に戻ることはないのだ、と考えると、気分がすーっと晴れていくような心地よさを感じられた。
と思うと、急に眠くなってきた。目覚めたら新しい自分になっているのだ——と思ったところで、意識が途絶えた。
電車を飛び降りるとボクは走っていた。
頭がとても軽くなったように感じられた。早く両親の顔が見たい。夜の住宅街を駆け抜け、すぐに家に着いた。
息を切らしながら、家のチャイムを鳴らす。
出迎えてくれたのは母親だった。ボクは母親に駆け寄り、両手をぎゅっと握った。
「ねえ聞いてよお母さん。ボクは今日、先生に全部治してもらったんだ! もう気分が沈んだり、お母さんに冷たい態度をとるようなこともないよ。これまで散々辛い思いをさせてきてごめん。でももう大丈夫だ、ボクは元気になったんだ!」
母親は少し目を潤ませながら、
「それは、よかったねえ……」
と握った手を揺すった。
ダイニングルームから父親も出てきた。
「晴彦! お前、ほんとうに……」
「お父さん!」ボクは母親の手を離して父親に抱きついた。
「これまで迷惑かけて悪かったよ。でももう全部忘れて。ボクは元気になったんだ! 今度いっしょに魚釣りに行こうね」
「晴彦、よく頑張ったんだなあ……」
大きな手がボクの頭を包み込んだ。
「それじゃあ、ご飯にしましょ。今日は晴くんの大好きなカレーにしたのよ」
「ほんとうに! やった! お母さん、ありがとう!」
ダイニングルームには、すでに三人分のカレーライスが用意されていた。
「今できたところなの。さあ、座って座って」
銘々いつもの場所に座って、両手を合わせた。
「いただきます!」
「まあ、晴くんのいただきますが聞けるなんて、ほんと久しぶりね。どんないい治療をしてくれたのかしら」
「ボクの頭の悪い部分を、いい部分に置き換えたんだ」
「でもそれって大丈夫なのか?」と父親。
「大丈夫! 再発率は0%なんだよ」
ボクはカレーを口に運んだ。美味しさで頬がきゅうっと締まった。食事とは、こんなに美味しいものだったのだということを、すっかり忘れてしまっていた。
「美味しい」
頬を涙が伝った。
「なんで泣くのよ?」
「こんなに美味しいものは、食べたことがないってくらいに美味しいんだ……」
「あはは、大袈裟ねえ」
母親はボクの肩をさすりながら、なぜか一緒に泣いていた。
ぼくの意識が、少しずつ形を作っていく。
——なんだ、まだ元気になれてないじゃないか。
重苦しい脳を覚ますようにベッドの上に座った。
「目が覚めたかい」
またあの医師のアナウンスだった。
「あの……」ぼくは目を擦りながら言った。「療法はまだ終わってないんですか?」
「いや、もう済んだ」
「え」
ぼくは耳を疑った。
「だってぼくはまだ——」
「よく聞いてくれ。置き換え療法というのはな、単に悪い部分をいい部分に取り替えるだけじゃないんだ。つまり紅井晴彦という人間をコピーして、複製した側を良くする。そうしてできた完成形を、紅井晴彦として生きさせるんだ。きみの人権は侵害されることはない。なぜなら新しい紅井晴彦がちゃんときみの人生を全うしてくれるからだ。どれだけ過酷な状況にあっても、彼は再発しない。そういうふうに作ってあるから」
「それって」
「例えるなら——スマートフォンには、自分が何者であるか証明するためのSIMカードが入っているだろう? でもスマートフォンが壊れたらそのSIMカードを新しいスマートフォンに入れ替えて、新しい方を使うじゃないか。そうすると元のスマートフォンは無効になる。そういうことだ」
「じゃあ、じゃあ、ぼくは」
「大丈夫だ。きみの人権、きみのあらゆるアイデンティティは、置き換えられた紅井晴彦がちゃんと守ってくれる」
アナウンスはそこで途絶えた。
いつの間にか、トレイに乗った食事が、入り口の横に運ばれていた。
——ぼくの命はもう……無効だ。
ぼくはよろよろとトレイのところまで歩を進め、箸を手に取った。幸運にも鉄製の箸だった。
——もう何も思わない。何も感じない。楽になっていい。
一本だけ箸を手に取り、首を大きく持ち上げた。
そして、喉仏のあたりに、勢いよく突き立てた。