テラーノベル
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仮住まいへ戻る頃には、すっかり夜も深くなっていた。
玄関の前まで来た一花は、ふと足を止める。
ドアの隙間から、室内の明かりが漏れていた。
「……俊介?」
胸が大きく跳ねる。
急いで鍵を開けると、玄関には見慣れた靴が置かれている。
一花はそのままリビングへ向かった。
「俊介」
ソファには、数日ぶりに俊介が座っていた。
どこか疲れた顔をしている。
その姿を見ても、責める言葉は浮かばなかった。
ただ、無事に帰ってきてくれた。
それだけで、強張っていた胸の奥に、ようやく息が通った気がした。
「……おかえり」
俊介が顔を上げる。
「ああ」
「よかった……」
一花は胸元へ手を当てた
「ずっと連絡なかったから、心配してた……無事でよかった」
俊介は何も言わず、目を伏せる。
どこにいたのか。
なぜ連絡をくれなかったのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、それより先に伝えなければならないことがある。
一花は俊介の向かいへ腰を下ろした。
「……話したいことがあるの」
俊介の表情がわずかに動く。
「前も言おうとして、ちゃんと話せなかったから」
一花は膝の上で指を組み、ひとつ息を吸った。
「俊介は怒るかもしれないけど……私、水野に会いに行ったの」
「……え?」
俊介が顔を上げる。
「前に、俊介がやめろって言ったのは分かってた。でも、どうしても確かめたくて」
今度は、遮られなかった。
一花はそのまま続ける。
「水野に、私のことを教えてた人がいたの」
「……誰?」
「奈緒」
俊介の表情が変わった。
「奈緒が?」
「うん。住所とか、職場とか……私のことをいろいろ話してたみたい」
「なんで奈緒がそんなこと……」
一花は一瞬、言葉を詰まらせた。
奈緒の気持ちは、自分が俊介へ明かしていいものではない。
「それは……言えない」
「私が勝手に言っていいことじゃ、ないと思うから」
俊介は納得できないような顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
「でも、奈緒一人が全部仕組んだわけじゃなかったの」
「どういうこと?」
「裏に、三枝志保っていう女の人がいた」
一花は、これまで分かったことをできるだけ順序立てて話した。
733
きなこもち
183
#サレ妻
都築七美
1,141
三枝が奈緒へ近づいていたこと。
金を渡し、水野との間を繋いでいたこと。
そして今日、新たに分かったことも。
「風俗で働いてたって画像、やっぱり偽物だったの。昔、友達がSNSに載せた写真を使って作られてた」
俊介が一花を見る。
「……やっぱり」
「うん。でも、その嘘を否定したら、今度は別の噂が一斉に出てきたの」
一花は手元のスマートフォンを握る。
「俊介の借金のこととか、水野との関係とか、男関係がどうとか……」
「榊さんが調べたら、何人かがわざと炎上を煽ってる可能性があるって」
「榊?」
「あ……そうだよね。まだ話してなかった」
一花はそこで初めて、俊介が榊の存在を知らないことに気づいた。
「調べるのを手伝ってくれてる人。悠真の先生の知り合いなの」
俊介は何も言わない。
「奈緒の後ろに三枝志保がいて、その三枝の背後にも、まだ誰かいるのかもしれない」
「もしかしたら、火事のことだって……まだ私たちが知らないことがあるのかもしれない」
ようやく、話せた。
胸の奥にずっとつかえていたものを、少しずつ外へ出せたような気がした。
これで俊介にも分かってもらえるかもしれない。水野との間に何かあったわけではないことも、自分が必死に真相を追っていることも。
けれど、俊介は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「俊介?」
「……もういい」
一花が目を瞬く。
「え?」
「もう、いいんだ」
俊介は足元に置いていた鞄へ手を伸ばし、中から一枚の紙を取り出した。
そのまま、テーブルの上へ置く。
一花は何気なくそこへ視線を落とし――動きを止めた。
離婚届。
俊介の欄には、すでに署名があり、その横には印鑑まで押されていた。
「……何、これ」
自分の声なのに、ひどく遠くから聞こえた。
「一花」
「どういうこと……?」
俊介はすぐには答えず、目を伏せた。
「あのまま一緒にいても、俺はお前を傷つけるだけだ」
「もう、夫婦としてやっていけないと思う」
一花の指先から、すっと温度が消えていく。
「待って……」
反射的に首を振る。
「待ってよ。急にそんなこと言われても……」
「急じゃない」
「え……?」
「ずっと考えてた」
一花は俊介の顔を見つめた。
「でも、私たち……」
その先の言葉が続かなかった。
母を失った。
悠真は今も目を覚まさない。
住んでいた家も、仕事も失った。
それでも、俊介だけは最後まで家族として隣にいてくれるのだと、どこかで信じていた。
「私……今、話したよね」
声が震える。
「奈緒のことも、三枝って人のことも」
「まだ分からないことがあるって……」
「それとこれは別だ」
「別じゃないよ」
一花はテーブルの離婚届へ視線を落とした。
「だって昨日だって、俊介は私のこと疑ってたじゃない」
「でも、水野とのことだって、もっと調べれば違うって分かるかもしれないのに……」
「そういうことじゃないんだ」
「じゃあ、どういうことなの……?」
俊介は答えなかった。
重い沈黙だけが、二人の間に落ちる。
「俺がいる方が、お前を傷つける」
一花の目に涙が滲んだ。
「そんなの……勝手に決めないでよ……!」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
声が掠れる。
「私、離婚なんてしたくないよ……」
俊介は何も答えなかった。
やがて立ち上がり、まとめてあった荷物へ手を伸ばす。
その動きを見た瞬間、一花の顔が強張った。
「待って……」
俊介の手が止まる。
「また……どこかに行っちゃうの?」
振り返らない背中を、一花はただ見つめた。
「もう……帰ってこないの?」
俊介の肩がわずかに揺れる。
長い沈黙のあと、返ってきたのは掠れたひと言だけだった。
「……ごめん」
それだけを残して、俊介は玄関へ向かった。
扉が開き、やがて閉まる。
静まり返った部屋に、一花だけが残された。
テーブルの上には、離婚届。
そこに記された俊介の名前と印鑑が、見間違いではないのだと何度も突きつけてくる。
一花はしばらく動けなかった。
何分経ったのかも分からない。
ただ、俊介が座っていた場所と、目の前の離婚届を交互に見つめ続けていた。
やがて膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
一花は震える手で離婚届を掴んだ。
胸元へ引き寄せた途端、紙がくしゃりと音を立て、それを合図にしたように、堪えていた嗚咽が溢れ出す。
いろんなものを失った。
これ以上、失うものなんてないと思っていた。
けれど今度は――夫まで。
部屋の片隅に置かれた春子の遺影だけが、一花を見つめている。
一花は顔を上げることもできないまま、声を殺して泣き続けた。
その傍らで、細い線香の煙だけが、静かに揺れていた。
コメント
1件
うわぁ…やっと話せたと思ったら、いきなり離婚届とかキツすぎるよ…。一花が「私、離婚なんてしたくない」って泣くシーン、胸が詰まった。俊介の「俺がいる方が傷つける」も分からなくはないけど、それが一花の気持ちとまったく噛み合ってなくて切なすぎる。タイトル回収するための展開だとは分かってても、これは心に来るわ…次、どうなっちゃうんだろう。