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レモニカは戯れに夜の闇に念視の魔術を試みる。三つの指で作った環を、閉じた瞼で覗き込むと、野営の外の真っ暗闇に思考の迸りのようなもの、観念の靄が視える。小動物や虫にも思考かそれに類するものがあることに疑問を抱いていた訳ではないが、こうして視覚化されると手触りに近い実感を得られた。
魔法少女のユカリさまはあの思考に触れて会話しているのだろうか、と思いかけるが、それでは非生命と会話できることの説明にはならないことに気づく。
秋の夜に潜む生命たちの思考に何か意味を見出そうと目を凝らす。ふと視界の端で何か意味ありげなものを見た気がしたと思った次の瞬間には雨に打たれる沼のように掻き混ぜられて掻き消える。そういうことが何度もあって、しかし何も見出せなかった。
レモニカが諦めて野営の方へ振り返るとソラマリアと目が合う。
「もうよろしいのですか? 念視の魔術の方は」
「念視というよりは窃視ね」
「後悔しておいでなのですか?」
「まさか。でも、言い訳はできない、と覚悟しなければね。他者にかけられた呪いではなく、自ら利用する魔術なのだから」
ソラマリアは神妙な表情で頷いた。
「お姉さまは――リューデシアお姉さまのことよ――もうお目覚めになったかしら」
「どうでしょう。この長さです。単に眠っているとも思えません。あるいは呪いをかけられているのやも」
「様子を見に行くわ」
大王国の戦士たちの酔いに任せた喧騒がレモニカたちにも届く。ロガットの街からの撤退の長い旅路にようやく一区切りをつけたとはいえ、随分気が抜けている。とはいえ、まるで主のようにレモニカが口を出したところで、聞きはしないだろう。長らく存在すら隠されていた王女のことなど、敬意や信頼以前に承認すらしていない者もいるはずだ。
その喧騒の中にユカリとグリュエーがいて、楽しげに食事をしていることに気づいたが、足を止めることなく聖女アルメノンだったリューデシアの眠る天幕へと向かう。
天幕にはベルニージュとアギノアがいて、敷物の上に寝かされたリューデシアのそばで談笑しているようだった。いつからリューデシアが使い魔に操られていたのか分からないが、起きた時に何をしでかすか分からないのでベルニージュとソラマリアが交代で見張ることになっている。
「レモニカ、ソラマリア、どうかした?」とベルニージュが言った。
「特に用事があるわけでは。お姉さまはどのようなご様子でしょうか」
「お静かなものです。寝息一つ立てず、少しも身動きをとりません。まるで凍り付いているかのようです」と小さな油燈に艶めかしく照らされたアギノアが答える。
「呪いかどうかもよく分からないね。試しに念視で見てみたら? 何か手がかりが得られるかも」とベルニージュに提案され、レモニカはこくりと頷く。
指の輪の中に横たわったリューデシアを収める。すると観念の靄はこれまでと違い、明瞭に形を成した。
「視えましたわ! これほどはっきりと視えたのは初めてです。でも、おかしいですわね。ソラマリアではありません。以前、私が近づいた時はソラマリアの姿に変身したのですが。これは男性ですわね」
ベルニージュの嫌いな男性に変身した時の姿に似ている。言おうか迷ったが、やめておく。勇壮な体格が似ているだけで同じ人物ではないのは確かだった。
「一番お嫌いな者が変わったのですね」とアギノアが素朴な感想を呟く。
「そうなのかな。早々変わるものだとも思えないけど。そうだ!」と言ってベルニージュが胸元から蝶のような意匠の蝋の首飾りを取り出す。「レモニカに一つ提案があるんだ。これは記憶の入れ物でね。一人分だけ封じ込められるんだけど、誰かの、例えばソラマリアのレモニカの記憶を此処に封じ込めて、それをレモニカが身に付けたらレモニカの姿のままでいられると思う。使い魔の封印やクヴラフワでの指輪みたいに実質呪いを打ち消せるってわけ」
レモニカは急な提案に動揺するが、それは確かに魅力的な解決策だ。呪いを解呪しない限り死なず、解呪すれば死ぬという母から与えられた恩寵を残したまま呪いに悩まされずに生きていくことができる。
「しかし、わたくしの記憶をソラマリアから奪う、というわけには……」
「……殿下がお望みであれば――」
「は?」と思わず口をついて出る。「それはどういう意味? わたくしのことを忘れても構わないと? わたくしがそのように望むと?」
「いえ、決してそのような、ただ、そうすることで私の――」レモニカと目が合ったソラマリアがすぐに目を伏せる。「申し訳ございません。迂闊な発言でした」
「ごめん」とベルニージュも謝罪する。「ソラマリアの記憶云々は例えばの話だけど、ワタシも迂闊だったよ」
「ベルニージュさまはお気になさらないで。素晴らしいご提案ですもの。何に変身するにせよ、ずっと同じ姿でいられる方が何かと都合が良いですから」
「それじゃあレモニカの分も作っておくよ。そんなに時間はかからないと思うから。あとそれなら記憶を奪う魔術も覚えておいた方が良いよね」
「そ、そうですわね」レモニカは少し抵抗を感じた。その行為にも、それを軽々しく提案するベルニージュの発言にも。しかし、自分でやるか誰かにやらせるか、であれば自分でやらねばなるまい、と思い直す。「またご教授お願いします」
その時、外で爆発音が轟き、分厚い天幕さえも透かして光が貫いた。驚き、慌てて飛び出すとライゼンの戦士たちが怒鳴り合っている。
どうやら侵入者があったらしい。グリュエーが宙に浮いて、あっちに行った、こっちにいる、と指示を出している。
ソラマリアに加勢を指示しようとした、その時には侵入者は捕らえられていた。
ラーガの前に召し出されたのは何も知らない一人の男だった。男が何も知らないのは、ただ使い魔の憑代に過ぎないロガットの街の罪人だったからだ。
「罪人ならいいよね。実験に使ってみよう」というベルニージュの囁きに、レモニカは不承不承頷き、罪人の処分を預かることを兄に申し出た。
レモニカたち一行に与えられた天幕に拘束された罪人の男を連れ込み、一生縁の無かったはずの豪勢な絨毯に座らせた。
レモニカは早速男の記憶を読み取る。立ち会ったのはベルニージュだけで、ソラマリアはリューデシアを見守っている。レモニカはベルニージュの記憶にないベルニージュの最も嫌いな男に変身している。ライゼンでも稀なる恵まれた肉体の男だ。
二人の男に挟まれたベルニージュは明らかに緊張しているようだった。
「お姉さまの時と違って、曖昧ではっきりとしませんわね」
観念の靄ははっきりとした像を結ばず、何も読み取ることが出来ない。
「ああ、分かった。アルメノンは眠っているからじゃない?」そう言うとベルニージュは呪文を唱え、躊躇なく男の意識を頭の奥底に沈めた。男は絨毯に勢いよく倒れ、すぐにいびきをかき始めた。
レモニカにはどんな魔術を使ったのかさえ分からなかった。
「ああ、確かに形を成し始めました。これは、女の人、巻き毛、僧服、モディーハンナですわ!」
「へえ、随分痛めつけられたんだろうね。それに何かに使えそう」
ベルニージュはしかめっ面で男の頭に触れて呪文を唱える。すると飛び出してきた一頭の蝶を鷲掴みにして首飾りの蝶に押し込んだ。
「その蝶がこの男のモディーハンナの記憶なのですわね。そうすると何故ベルニージュさまの記憶にない人物に変身してしまうのでしょう?」
「はっきりしたことは分からないけど、ワタシの記憶喪失は記憶の器そのものは失くしてなくて、器に穴が空いているんじゃないか、って仮説を立ててる」
「なるほど。つまりその穴を埋めていた何かを取り戻さなければ記憶は回復しないのですわね」
「記憶が回復するかどうかは……。まあ、穴を埋めなきゃいけないのは確かだね。はい、どうぞ、この蝶飾りが一番近くにあれば、モディーハンナに変身できるはず」
レモニカは首飾りを受け取る。すると確かに変身し、モディーハンナの着ている僧服と狐の毛皮を身に着けていた。
「どうですか?」
「うん。モディーハンナ、ますますやつれてるね」
その時、またもや閃光が放たれた。今度は空高くから色とりどりの光が降り注いでいる。レモニカとベルニージュは驚きつつ呆れた表情を浮かべて天幕を出る。
罪人に貼られていた使い魔爆ぜる者はユカリが預かっているはずだ。まさに天幕の外にユカリとグリュエーがいた。
「いくらロガットから離れたからって浮かれ過ぎじゃない?」とベルニージュが苦言を呈する。
「ち、違うよ!」と言ってユカリは白紙文書を取り出して、大きく減った封印の中に爆ぜる者があることを示す。
「爆ぜる者があらかじめ仕掛けていた魔術ってこと?」とグリュエーがベルニージュに尋ねる。「だとしたらそれは何で?」
「何かの合図かもしれませんわね。警戒するようお兄さまに進言して参りますわ」
「もう動いているようですよ」とソラマリアが天幕から半身を出して言った。
確かにその通りだ。皆が皆、夜空に打ち上がる爆ぜり火の彩りに気を取られつつも、野営を囲み、襲撃を警戒している。
しかし待てど暮らせど襲撃はない。夜空を舞い散る無数の炎は流星のように、全方向へと線を引き、以って黒い画布に花を描く。星々をも恥じ入らせる夜空の饗宴は強く意識を引き付け、地上の些事を忘れさせ、神の奇跡を目の当たりにしたが如く仰ぎ見させる引力を放っている。レモニカたちも戦士たちもその力に引き寄せられていることも気づかずに見惚れていた。
何故爆ぜる者に問い質すことを思いつかなかったのか、リューデシアから目を離していることに気づかなかったのか、理由は分かっている。ただその爆発がとにかく美しかったのだ。