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「わざわざ我が家まで寄っていただいて申し訳ありませんでした。おかげで大変助かりました」
「いえ、気にしないでください。ルシンダと色々話せて楽しかったです」
「こちらこそアーロン殿下とお話しできて楽しかったです。では、また明日学園で」
「ええ、また明日」
馬車の外でお辞儀するルシンダに、アーロンが笑顔で手を振る。
それから馬車が王宮に向かって走り出すと、アーロンは後ろの窓から遠ざかる景色を覗き見た。
(……見送りなんてしないで、早く屋敷に入ってくれていいのに)
ルシンダはアーロンと別れた後もすぐには屋敷に入らずに、アーロンの馬車を見送ってくれているようだった。
気持ちは嬉しいが、そこまで気を遣ってくれなくてもいいのにと思ってしまう。
(ルシンダの真面目なところは好ましいけれど、たまに心配になってしまうな)
そもそも、ルシンダを馬車で送ることになったのも、学園からひとり馬車に乗って王宮に帰る途中、彼女がなぜか馬車ではなく徒歩で帰っているのを見かけたことがきっかけだった。
何か理由があって馬車を使わずに歩いているのかとも思ったが、空模様が怪しく、このままでは雨に濡れるのではないかと心配になり、馬車を停めて声を掛けてみた。
すると、今日は彼女の兄の帰りが遅くなるため、兄に馬車を譲ろうと歩いて帰っていたと言うので、アーロンが自分の馬車に乗るよう言ったのだった。
(でも、それも何度も遠慮されてしまったし……)
別れ際の挨拶でも、ルシンダは「ありがとう」とは言わずに「申し訳ない」と言っていた。
昔から謙虚な女の子ではあったけれど、これほどではなかった気がする。
今は謙虚を超えて、自己犠牲や自分を卑下する気持ちが強すぎるようにも思えた。
(たしか彼女は、ランカスター家の亡くなったご令嬢に見た目がそっくりだとかで養女になったのだったはず。やはり、生まれのことを気にして遠慮がちになってしまったのだろうか……)
王宮へと帰る馬車に揺られながら、アーロンの脳裏にはルシンダの控えめな笑顔が焼きついて離れなかった。
◇◇◇
ある日の放課後。
アーロンが中庭を通る渡り廊下を歩いていると、庭のベンチに腰かけているルシンダの姿が見えた。どうやら魔術の教科書を読んでいるらしい。
ルシンダは授業中、誰よりも真剣に教師の話に耳を傾け、授業後も分からないことを質問しに行ったりと、本当に勉強熱心だ。
幼い頃、王宮に令嬢たちを招いたお茶会で言っていた「将来は魔術師になって旅に出たい」という夢をきっと今も持ち続けているのだろう。
(この間はルシンダが昔とは少し変わったように思ってしまったけど……やっぱり根っこの部分は同じままだ)
そのことが妙に嬉しく、つい足を止めてルシンダの様子を眺めていると、ふいに彼女の頭がぐらりと傾いだ。
珍しく居眠りだろうか、と思った瞬間、ルシンダの頭だけでなく体ごと傾いていく。
あっと思ったときには、ルシンダの体は地面の上へと倒れてしまった。
「ルシンダ……!」
慌てて駆け寄って抱き起こすが、ルシンダは気を失っているようで返事がない。
しかも、先ほどは遠目で気づかなかったが、よくよく見ればルシンダの顔は赤く、汗ばんでいる。
そっと頬に触れてみると、明らかに酷い熱を持っていた。
(……まずいな。ひとまず保健室に連れていかなくては)
◇◇◇
「……まさか不在とは」
ルシンダを抱きかかえて保健室へとやって来たが、入口の扉には「外出中」の札が掛かっている。幸い、鍵はかかっていなかったので、肩で扉を押し開けて中へと入る。
そうして、まだ意識を失ったままのルシンダをベッドへと寝かせると、アーロンは薬品や器具が置いてある棚を検めはじめた。
「保冷の魔道具があるはずだけど…………あった」
棚の引き出しに見つけた保冷の魔道具を起動させると、すぐにひんやりと冷気を放ち始める。
ルシンダのところへ戻って、額に魔道具を載せてやれば、苦しがっていた彼女の表情がわずかに和らいだ気がした。
(よかった……あとは一応、先生が戻ってくるまでついていようか)
眠っているルシンダをひとりで残すのは心配だし、何かあっては大変だから側にいたほうがいいだろう。先生も「外出中」ということは帰宅したわけではなく、そのうち戻ってくるはずだ。
アーロンはベッド脇の椅子に腰掛け、長い睫毛を伏せたまま、すうすうと規則正しい寝息を立てて眠るルシンダを眺めた。
(一体いつから体調を崩したんだろう。これほどの高熱が急に出るとも思えないし、まさか授業中から具合が悪かったんだろうか)
そういえば、今日のルシンダは魔術の実技の授業でいつもより休憩を取る回数が多かったような気もする。
(まさか、そのときから……?)
もしそうだとすると、登校してすぐに体調が悪かったということになる。
気づいてあげられなかった自分も悔しいが、ルシンダもなぜここまで我慢したのか理解しがたい。1日くらい休んだところでルシンダならすぐに追いつけるし、早退して療養すべきだったのに。
(どうしてこんなになるまで我慢を──)
まだ開かないルシンダの目に、アーロンが心配そうな眼差しを向けたとき。ルシンダの綺麗な睫毛がかすかに震えたように見えた。
そうして、彼女の小さな唇がわずかに動く。
「ルシンダ? 気がつきましたか?」
意識が戻ったのかとアーロンが声を掛ける。
しかし、ルシンダはその呼びかけに答えなかった。
そして、目を瞑ったままの顔を何かに怯えるように強張らせる。
「も、申し訳ありません……また罰を受けるので……許してください……」
さっきまで落ち着いていた呼吸は乱れ、謝罪の言葉を必死に繰り返している。
おそらく悪夢にうなされているのだろうが、ルシンダの震える声が切実で、聞いているこちらまで胸が痛くなる。
(これは起こしてあげたほうがいいかもしれない)
そう思って、ルシンダの肩に手を掛けようとしたとき、ルシンダがまた口を開いた。
「ごめんなさい……お父様、お母様……今度はちゃんとしますから……」
その言葉を聞いた瞬間、アーロンは全身が氷のように冷え切るのを感じた。
(”お父様、お母様”……?)
ルシンダはたしかにそう言っていた。
そして、”また罰を受ける” とも。
(この言葉の意味することは、つまり──)
アーロンが最悪の可能性を想像していると、ルシンダがぱっと魔法が解けたかのように目を覚ました。はぁはぁと荒い息を吐き、額から冷や汗が伝っている。
「ルシンダ……大丈夫ですか?」
アーロンが気遣わしげに声を掛けると、不安そうに揺れる翠色の瞳と視線が合った。
「アーロン殿下……? どうして……?」
目覚めたばかりのルシンダは当然ながらまだ状況が分からない様子で、困惑したように眉根を寄せる。アーロンはそんなルシンダを落ち着かせるように穏やかな声音で返事した。
「ルシンダが中庭のベンチで倒れたのを見かけたから、保健室に連れてきたんです。高熱で気を失ったようですね。ひとまず保冷の魔道具で冷やしていたのですが、具合はどうですか? あ、無理せずそのまま横になっててください」
説明を聞いたルシンダが申し訳なさそうな表情で起きあがろうとしたのを、アーロンが慌てて阻止する。ルシンダもさすがに体が辛かったのか、素直にアーロンの言葉に従った。
「色々ご迷惑をお掛けして申し訳ありません……。ここまで運んでもらったうえ、介抱までしていただくなんて……」
「気にしないでください。むしろ私が気づけてよかったです。あの場所はあまり人が通りませんから、発見が遅れていたら大変でした」
「そう、ですね……。ありがとうございます、アーロン殿下」
ルシンダからお礼の言葉が聞けて、アーロンがほっとしたように目を細める。
「いえ、保健の先生がいなかったので手当てが不十分だと思います。もうすぐ戻られると思うので、ちゃんと診てもらいましょう」
「はい、分かりました……」
吐息混じりの辛そうな声で返事するルシンダを見て、アーロンが悩ましげに眉間を寄せる。
先ほどの悪夢のことが気になって仕方ないが、今は触れないほうがいいだろう。
もしルシンダが困っているなら力になってあげたい。
しかし、下手に話を聞き出そうとすれば、かえって距離を置かれてしまいそうだった。
結局、ルシンダが悪夢にうなされていたのは見なかったことにし、少しだけずれていた毛布をそっとかけ直してやる。
「今思えば、今日は朝から体調を崩していたのではないですか? そういうときは無理して登校するよりも、家でゆっくり休んだほうがいいですよ。こうして倒れてしまっては、屋敷の皆さんも心配します」
ルシンダを安心させたくて言った言葉だったが、ルシンダはなぜか返事に困ったかのように口を開きかけたまま固まってしまった。
「ルシンダ……?」
どうしたのかと呼びかけると、ルシンダが曖昧な作り笑いを浮かべる。
「あ、いえ……たしかに、迷惑をかけてしまいますからね。気をつけます」
(迷惑……)
アーロンは、ルシンダが倒れれば屋敷の者たちが心配するだろうと思ったが、ルシンダは迷惑をかけると思っているらしい。
これはルシンダがそう思い込んでいるのか、それとも、そう思ってしまうような扱いを普段から受けているのか……。
(──これは一度調べてみたほうがよさそうだな)
◇◇◇
「やっぱりそうだったか……」
近衛騎士から受け取った報告書を読みながら、アーロンが溜め息をつく。
秘密裏の調査に基づいてまとめられたその書類には、案の定、アーロンが危惧していたとおりの事柄が記されていた。
《ルシンダ・ランカスター嬢は義両親から冷遇され、屋敷の使用人たちからもぞんざいに扱われており──……》
この他にも、色々と具体的な内容が書かれているが、読むだけで胸が痛んで耐えられない気持ちになる。
ルシンダが孤児院から引き取られた養女であることは知っていた。
幼少期に開かれた婚約者候補を探すためのお茶会の前に、招待する令嬢全員に対してある程度の調査は行なわれたためだ。
しかし、ランカスター夫人はルシンダを可愛がっているように振る舞っていたし、ルシンダもずっと笑顔で楽しそうにしていたから、まさか屋敷ではこんな酷い目に遭っていたとは思いもしなかった。
(兄のクリスだけはルシンダを庇ってくれているのは幸いだけど……)
それでも、屋敷に味方が一人しかいないのではどんなに心細かっただろう。
(──彼女のために、何かできることはないだろうか)
夕食のあと、バルコニーで夜風にあたって考え事をしていると、後ろからふわりとショールをかけられ、アーロンは驚いて振り返った。
「……母上」
ショールを掛けてくれたのは、アーロンによく似た顔をしたラス王国王妃オリヴィアだった。
王妃らしい凛とした佇まい。けれど口元には息子を思う母親の柔らかな微笑みをたたえている。
「今夜は少し冷えるわ。風邪をひいたら大変よ」
「ありがとうございます」
アーロンがショールの礼を伝えると、オリヴィアがコツ、コツと靴音を響かせてアーロンの隣に並んだ。
「夕食のときからうわの空だったけど、何か悩み事でもあるのかしら?」
夜空を見上げながらオリヴィアが問う。
食事中はいつもどおり振る舞っていたつもりだったが、母親にはお見通しだったらしい。
アーロンが苦笑して答える。
「自分のことではないのですが……友人の手助けができないかと思っていまして」
「それは学園のお友達?」
「はい、そうです」
息子の返事が意外だったのか、オリヴィアがわずかに目を見張ってアーロンに視線を向ける。
「……あなたにも、寄り添ってあげたくなるようなお友達ができたのね」
「私にも友達くらいいますよ。ライルだってそうですし」
「ふふ、それはそうかもしれないけど、今まで彼のことでこんなに親身に悩んでいたことがあったかしら」
「……まあ、たしかに彼は放っておいても安心できる男ですから」
言われてみれば、誰かのためにこれほど心配をして、自分が助けてあげたいと思ったのは初めてかもしれない。
そのことが妙にくすぐったいし、母親にそれを見抜かれていたのも恥ずかしくて、アーロンはオリヴィアから目を逸らした。
「──母上にひとつ、聞いてもいいですか?」
「もちろん。何かしら?」
「母上はいつも凛としたご様子で堂々となさっていますが、どうしたらそんな風に自信を持てるようになるのでしょうか?」
アーロンが逸らした視線を戻して、オリヴィアを真っ直ぐに見つめる。
「自分に自信を持つために必要なのは何か、ということね?」
「はい、教えてください」
アーロンの透き通った、自分譲りの碧眼を見つめ返してオリヴィアが答える。
「そうね、一番大切なのは『愛情』でしょうね」
「愛情……ですか?」
その回答にがっかりしたかのように、アーロンが眉を下げる。
しかし、それも仕方ないことだ。
どうしたらルシンダが自分を卑下せず、自信を持てるようになるだろうかと思って聞いたのに、その答えが、ルシンダに最も足りていない『愛情』だと言うのだから。
つい暗い表情でうつむいてしまうと、オリヴィアがぽん、とアーロンの肩に手を置いた。
「あら、アーロン。もしかして誤解してるのではない?」
「え? 誤解とは……」
「わたくしは親の愛情とは言っていないわよ?」
「あ……」
オリヴィアがにっこりと微笑む。
「わたくしの両親は厳しい人たちだったわ。おそらく、我が子を王妃にするのだという強い思いからだったのでしょうね。そのことで、わたくしも辛い思いをしたり寂しさを感じることはあった。けれど、わたくしには両親の代わりに愛情を注いでくれる乳母がいてくれた。彼女から深い愛情をかけてもらえたおかげで、わたくしは自分に自信を持つことができたのだと思うわ。つまりね……」
冷たい夜風が、オリヴィアの美しい金髪をなびかせる。
「親の愛情でなくても、誰かの支えにはなれるということよ」
オリヴィアの言葉がアーロンの胸に響く。何か、すとんと腑に落ちたような気がした。
「……ありがとうございます、母上。私がすべきことが分かった気がします」
「それならよかったわ」
明るい色を取り戻した我が子の瞳を見つめて、オリヴィアは優しく目を細めた。
◇◇◇
「アーロン殿下!」
数日後、学園の渡り廊下で呼びかけられたアーロンが足を止めて振り返る。
「どうしました、ルシンダ?」
先日の体調不良からすっかり回復した様子のルシンダが、驚きと戸惑いを含んだ眼差しでアーロンを見つめる。
「あの……アーロン殿下にお礼をお伝えしないといけないと思いまして……。その、我が家に王宮侍女の方を譲ってくださったと聞いて……。ご親切にありがとうございます」
深々と頭を下げてお辞儀するルシンダに、アーロンは何でもないように返事した。
「いいんですよ、こちらとしても助かりましたので」
「え……?」
どういうことなのかと小首を傾げるルシンダに、アーロンが説明する。
「彼女は王宮侍女として優秀な人だったのですが、貴族の屋敷の侍女に興味があるからと、どこかの貴族家への紹介を頼まれていまして。でも、なかなかちょうどいい家が見つからずに困っていたところ、偶然ルシンダのお兄さんとお話しして、ルシンダには侍女がいないと伺ったものですから、ぜひルシンダの専属侍女として雇ってもらいたいとこちらからお願いしたんです」
にこやかに事情を伝えると、ルシンダは綺麗な翠色の目をぱちぱちと瞬かせた。
「そう、だったのですか……?」
「はい、そうなんです。だから、遠慮することなく新しい侍女を頼ってやってくださいね。彼女も喜ぶと思いますから」
「そういうことでしたら……分かりました」
ルシンダがほっとしたように微笑む。
そんな和らいだ表情の彼女に、アーロンもまなじりを下げる。
そうして、ルシンダの遠慮が薄まったところで、「そういえば」と声をかけてみた。
「今日の実技の授業でのルシンダを見て思ったのですが……」
「は、はい! 何か悪いところでもありましたでしょうか……?」
ミスを指摘でもされるとでも思ったのか、また少し強張ってしまったルシンダに、アーロンが首を横に振って話を続ける。
「いえ、悪い話ではなくて、ただ……ルシンダが髪をひとつにまとめていたのが、よく似合っていて可愛らしかったと言いたくて」
「…………え?」
ルシンダは頭が追いつかないでいるのか、ぽかんと口を開けて固まっている。
そんな姿を微笑ましく思いながら、もう二言ほど付け足す。
「ルシンダの髪は綺麗ですよね。いろんな髪型が似合いそうですから、新しい侍女に頼むといいと思います」
「え……あの……」
「楽しみにしていますね」
「あ……は、い……」
だんだんと顔が赤く染まっていくルシンダを見て、アーロンの頬が思わず緩む。
「では、私はこれから職員室に行くので失礼しますね」
「はい、失礼、します……」
ぎこちなくお辞儀するルシンダに別れを告げてその場をあとにしたアーロンは、自身の作戦に手応えを感じ、人知れず胸を撫で下ろした。
(ひとまず第一歩は上手くいったかな)
ルシンダの専属にと王宮侍女を送ったのは、侍女本人の希望であることはたしかだが、そもそもはアーロンが聞き取りを行って見つけ出した人材だった。
条件は、ルシンダよりも10歳は年上で、ランカスター伯爵家と同等以上の家門の出身。
雰囲気に流されず、正義感があり、さらに包容力も兼ね備えた女性であること。
決して妥協せず、王宮中の侍女から選び抜いて決めた逸材だった。
目的はもちろん、ランカスター家にもう一人、ルシンダの味方を作ること。
常にそばに侍り、兄のクリスがいなくてもルシンダが孤独を感じることがないように。いつも誰かが見守ってくれていると安心できるように。
これが、アーロンがルシンダのために考えた手助けのひとつだった。
そして、もうひとつは──ルシンダの自己肯定感を上げること。
彼女は真面目で努力家で謙虚さのある素晴らしい令嬢だが、彼女の場合、それは生来の性格だけではないように思われた。
きっと屋敷で酷い扱いを受け続けてきたせいで、いつしか自信を喪失し、駄目な自分を補おうとひたすら努力を続けるようになったのではないか。
その一方で、魔術については幼い頃から教師のフローラが褒めて指導していたおかげか、比較的自信を感じているようだった。
だから、それ以外の部分についても躊躇せずに褒めて認め、そのままの彼女を肯定してあげることで、やがてはルシンダも自分の価値を自分で認められるようになるかもしれない。
その役割を、まずは自分が担おうと考えた。
心の問題に関することであるから、おそらく長期戦になるだろう。
しかし、どんなに時間がかかっても、ルシンダの心を閉じ込めている “呪い” を解いてあげたかった。
これからは、いつだってルシンダに寄り添って、彼女のいいところや努力はすかさず褒め、自分を卑下することがあれば「そんなことはない」と言ってやるのだ。
ありったけの愛情を込めて。
(よし、ルシンダのために頑張ろう)
アーロンは心の中で気合いを入れると、軽やかな靴音を響かせて職員室へと向かっていった。
◇◇◇
「ルシンダ、今日の古典の授業での朗読、とてもよかったですよ。ルシンダは声も綺麗ですね。心地のいい語りでもっと聴いていたかったです」
「ルシンダ、歴史のノートを見せてくださってありがとうございました。分かりやすくまとめられていて助かりました。ルシンダの字は丁寧で読みやすいですね」
「ルシンダ、アンケートの取りまとめ、私も手伝います。ルシンダはいつも率先して先生を手伝われていて素晴らしいですね。私も見習います」
「絵が上手く描けない? たしかに猫にはあまり見えないかもしれませんが……私はルシンダの描く絵が好きですよ。それに色使いが優しくて素敵だと思います」
アーロンは計画どおり、毎日ルシンダのいいところを見つけて褒め、些細なことでも礼を伝えた。
ルシンダは、初めこそ驚いて固まったり、「そんなことありません……!」と否定することが多かったが、何度も何度も、何日も何か月も声をかけ続けていると、少しずつ反応が変わっていった。
恥ずかしそうに頬を赤く染めたり、嬉しそうに口元を綻ばせたり、上目遣いで遠慮がちに目を合わせ、「ありがとうございます」と返事をしてくれたり。
元々アーロンひとりで始めた声かけだったが、次第に他のクラスメートたちも互いに褒め合うようになり、ルシンダにはアーロンだけでなく、クラスメートからもたくさんの尊敬や感謝の言葉がかけられるようになった。
それは、暗く乾いた土地に咲いていた一輪の花に、明るい日が差し、温かな雨が降り注ぐようで──。
ルシンダは、今まで彼女の奥深くに埋もれてしまっていた自信と、本来の笑顔を取り戻しつつあった。
「アーロン、おはようございます」
珍しくルシンダから挨拶の声をかけられて、アーロンは少し驚きながらも朗らかに笑って振り返る。
「おはようございます、ルシンダ。……ちゃんと “アーロン” と呼んでくれましたね」
これまでずっと「アーロン殿下」と敬称をつけて呼ばれていたが、ルシンダにはただ名前で呼んでほしくて、そうお願いしてみたのだった。
きっと昔の彼女だったら、かたくなに拒まれていたはずだ。
けれど、今こうして「アーロン」と呼んでくれている。
そのことが、ルシンダが自分に心を開いてくれたように感じられて、アーロンの胸に言い知れない喜びが湧いてきた。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。……これからもずっと、そう呼んでくれますか?」
頼まれたから一度だけ言ってくれたのではなく、これから毎日、毎回、「アーロン」と呼んでほしい。そんな願いを込めてお願いしてみれば、ルシンダはふわりと春の花々よりも可憐な笑みを浮かべてみせた。
「はい、もちろんです、アーロン」
「……!」
その屈託のない笑顔が、柔らかく細められた眼差しがあまりにも眩しくて。
けれど、わずかにでも目を逸らしたくなくて。
アーロンは瞬きも、息をすることさえもできず、目の前の美しい女性を見つめたまま立ち尽くすばかりだった。