金曜の朝、会議室のドアを開けると藤川課長が電話中だった。
「築島課長が来たよ」と藤川課長が言った。
相手は咲か……。
朝から気分悪いな。
「ああ……、わかった。無茶はするなよ」
藤川課長は通話を終えて、スマホをテーブルに置いて、スーツのジャケットを脱いだ。
「おはようございます」と言いながら、俺もジャケットを脱いだ。
「おはよう。昨日は咲に会いに行ったんじゃなかったんだ」
「え?」
「無理して早く帰ったから、てっきり咲と会うんだと思ったんだけど、違ったから……」
藤川課長が俺と咲が付き合っていることを知っているのは態度で感づいていたけど、はっきりと咲の話題を振られるのは初めてだった。含みのある言い方が気に障る。
「成瀬は忙しそうなので、侑と飲みに行きました」
「おかげで、俺は久し振りに咲とゆっくり会えたよ」
「え……」
「咲は人に甘えることが下手だから、『会いたい』なんて言葉を待っても無駄だよ」
藤川課長は経理課のファイルを開く。
「あの……もしかして――」
嫌な予感が頭をよぎった。
藤川課長は俺の考えを察したらしく、ふっと笑った。
「『築島課長は大事な用があったみたいで、急いで帰った』と伝えておいたよ」
やっぱり――。
俺は両手で頭を抱えた。
「言います? そうゆうこと……」
「事実でしょ。あ、来たよ。仕事しなきゃ」
会議室のドアが開いて、監査室の担当者が入ってきた。俺と藤川課長は挨拶をして、領収書のファイルと向き合った。
昼休みに咲を捕まえて話をしよう。
咲への焦りと藤川課長への苛立ちで、午前の仕事は驚くほどはかどった。
秒針が十二を回り、十二時になると同時に、俺は席を立った。
「昼休憩行ってきます!」と言い終わらないうちに、俺のスマホが咲のスマホを呼び出していた。
出ない。
「この時間、咲がどこにいるか知らないの?」
俺のすぐ後ろから藤川課長が出てきた。
「知ってるんですか……?」
藤川課長に頼るのは不本意だが、背に腹は代えられない。
「ちょうど、俺も咲に用があるんだよ。一緒に来るかい?」
くそっ――!
俺は本当に仕方なく、藤川課長の後について、エレベーターに乗った。
藤川課長は十一階のボタンを押した。
「咲は昼休みに社内配達をしてるから、上層階で待ってれば会えるよ」
「藤川課長は、俺と成瀬が付き合うことに反対ですか」
俺は思い切って聞いた。
「反対されたら別れるの?」と、藤川課長は鋭い目つきで、柔らかく言った。
俺は気おされないように、藤川課長の視線を真っ直ぐ受け止めた。
「いえ、確認です」
「咲が幸せなら、それでいい」
「そうですか……」
十一階は総務部のフロア。パーテーションで仕切られているだけのオープンな他のフロアとは違って、課ごとに個室が与えられている。昼休みに限らず、共有スペースはいつも静まり返っている。
エレベーターを降りると、咲がカートを押して三課に入っていくのが見えた。
「まずいな……」
そう言って、藤川課長が三課に向かって走り出した。俺も後に続く。
三課のドアが閉まりかけた時、藤川課長が足でドアを止めた。数ミリの隙間から咲の声が聞こえた。
「お疲れ様です」
「お疲れ」と男の声。
「荷物、ここに置いておきます」
「こちらにもらうよ、成瀬さん」と男。
咲がカートから手紙や荷物を取り出しているのが、紙がこすれる音で分かった。
咲のヒールの音が響く。
「成瀬さん、今度食事でもどう?」と男。
「いえ、折角ですけど――」
「ああ! 藤川課長に叱られるかな?」
咲の言葉を遮るように、男はわざとらしく言った。
なんだ? あの男……。
「付き合ってるんでしょう? 藤川課長と」
「いえ」と咲が言った。
「別れちゃったの? 藤川課長、清水課長を追い出して課長兼任なんて、出世コース邁進中なのに、もったいない。あ、社長の息子の方が将来安泰だから?」
この男、何を言ってる……?
「川原主任、仰っている意味が分かりません」
川原?
室内の様子を見ようと身を乗り出した俺を、藤川課長が止めた。課長は『まだだ』と首を振る。
藤川課長は事情を知っているようだ。
「俺は怒っているんだよ。清水を懲戒免職に追い込んだ藤川に」と言った川原主任の声は、明らかに怒りをはらんでいる。
「それが私とどういう関係があるんでしょう?」と言った咲の声は、冷静だった。
「知っていたんだろ? 藤川が清水を貶めようとしていたこと。君も手伝ったのか? 領収書の偽造か? データの加工か?」
「川原主任、私にはあなたが怒っているのではなく、怯えているように見えますよ」
咲が意図的に挑発しているのが、声だけでわかる。
咲、何を考えている……?
「何を――」
「清水は主任だけでなく、同期のみなさんと懇意にしていたんですよね?」
「それが、どうした」
「清水は思い出を大切にしていたようで、あなた方の写真を大切に保管されていたようですよ――?」
まさか……川原主任の写真もあったのか?
バンッと机を叩くような音がした。
「俺はっ――!」
「俺は写っていない……ですか?」
「お前……どうしてそんなことまで知っている――?」
室内の緊張感が、俺と藤川課長にも伝わる。無意識にドアに手を伸ばした俺の肩を、藤川課長が強い力で掴んだ。
これ以上は、咲が――。
「本当に……写っていないと思っていますか?」
「な……に?」
「清水が保険を隠し持っているとは疑わないんですか?」
藤川課長の俺の肩を掴む手に力が加わる。咲が危ない橋を渡ろうとしているのだ。
「はったりだろ。清水が俺の不利になるデータを所持していたのなら、俺はとっくに監査に呼び出されてるはずだ。現に、清水と親交の深かった同期の何人かは自宅謹慎中だ」
「なら、主任は何に怯えているんですか?」
「怯えてなんかいない!」と川原主任が怒鳴る。
「俺はね、清水は藤川に貶められたと考えているんだよ。だから、怯えてなどいないし、藤川が清水を貶めた証拠を探している。だが、証拠なんて探さなくても、作ればいいんだよな? 君と藤川がやったようにな。それで、君も藤川もお終いだ。ついでに、君の新しい上司も巻き添えにしてやるよ」
「スキャンダルにスキャンダルを上塗りすれば、自分の罪も塗りつぶせると?」
この声――。
咲の背筋が凍り付くような、冷たい笑みが脳裏に浮かんだ。
咲の負の感情が入り混じり、吐き捨てるような口調。
「自分の写真はないと、安心できますか?」
「俺は無関係だ、あるはずがない!」
「ホテルの窓に映っている可能性は?」
「ま……ど?」と絞り出すように言った川原主任の声は、隠せないほど震えていた。
「ドラマなんかで見たことはありませんか? 窓に映りこんだ人影を解析するんです。窓だけじゃない、瞳に映る人影も同様です」
「そんなこと……フィクションだろ」
「断言できますか?」
「……」
ついに、川原主任は黙ってしまった。
「私は断言できますよ。顔じゃなくても、苦痛に歪む女性の瞳にあなたの髪の毛一本でも映っていたら、必ずそれがあなたのものだと証明してみせます」
「脅迫か――」
「いいえ? 警告です。築島と藤川に手を出したら、どんな手を使ってでもあなたを潰します」
心が震えた――。
咲の声は凍てつくほど冷たいのに、言葉は焼け付くほど熱くて、涙が出るほど嬉しかった。今すぐ彼女を抱き締めたかった。
「お前に……何……が出来る」
川原主任が咲の気迫に圧倒されているのが、声でわかる。
「そうですね……。手始めに清水を揺さぶってみますか? 『あなたを貶めたのは川原主任で、その手柄で彼は昇進する』と」
「ふん……。そんな戯言を信じるはず――」
「言葉だけでは信じないでしょうね。でも、あなたの写真だけ削除されていた事実と、あなたがお友達と一緒にいる写真を見たらどうでしょう?」
削除されていた……?
「会社を追われた清水が、絶対に自分を裏切らないと断言できますか?」
ふと、俺は気が付いた。いつの間にか川原主任が清水の共犯者であることが肯定されている。
咲は、川原主任をどうするつもりだ……?
「清水が保険を隠し持っているとは疑わないんですか?」と、咲はもう一度言った。
「法の基準では『疑わしきは罰せず』でも、社会の基準ではどうでしょうね? あなたは『やったかもしれない』と『やっていない』のどちらの証明が出来ますか?」
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