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意識が、深い、深い海の底へと沈んでいくようだった。
現代日本。
海洋資源の研究者として、深海探査船に人生を捧げていた俺の最期は、実にあっけないものだった。
不慮の機材トラブルによる爆発事故。
視界が真っ白に染まり、鼓膜を突き破るような轟音のあと、強烈な衝撃が全身を貫く。
(……ああ、クソッ。せめてあのアカグツの産卵周期だけは、この目で突き止めたかったな……)
あの深海に咲く紅い花のような姿を、もう一度……
薄れゆく意識の中で、最後まで頭をよぎったのは、家族の顔でも、未練のある現世の娯楽でもなかった。
ただ、愛してやまない、暗く冷たく、それでいて生命に満ちた海の神秘のことばかりだった。
次に目を開けたとき、俺は見上げるような高い壁の中にいた。
「ほら、カイリ。何を呆けている。早く手をかざせ」
突然、目の前に現れた厳格な顔つきの男が、傲慢な声で俺を急かす。
「え? 俺は……っていうか、ここは? あなたは一体……?」
口から出た自分の声の幼さに驚愕する。
手を見ると、節くれだった大人のそれではなく、白く細い少年のものに変わっていた。
混乱する頭で情報を整理すると、信じがたい事実が浮かび上がってきた。
そこは、海を「魔物の住処」として極端に忌み嫌い、巨大な外壁で隔離された砂上の要塞都市『アストラ』。
俺はそこで、名門魔術師家系の長男、カイリとして転生していたのだ。
そして目の前の男は、実の父親にあたる人物。
この世界では、海は恐怖の対象であり、人々は乾燥した砂の上で、攻撃魔法の火力だけを競い合って生きていた。
「……説明した通りだ。まだ寝ぼけているのか?さっさと終わらせるぞ」
「なになに……魔力値……3。フン、ゴミめ。やはり期待するだけ無駄だったか」
突如として始まった魔力測定の儀。
俺が恐る恐る水晶に手をかざした結果は、あまりにも無情だった。
「ゴ、ゴミ……?!」
「お前の固有魔法…水質浄化だが、まるで使い物にならんな」
父親と呼ぶべき男から投げかけられたのは、肉親に対するものとは思えない、氷のように冷徹な言葉。
「お前のような無能は、アストラの血を汚すだけだ。火魔法の一種すらまともに使えやしない出来損ないなど、我が家にはいらん。……辺境の地で野垂れ死ぬがいい」
ガラン、と重々しい鉄格子の扉が開く。
兵士たちに引きずられ、突き出された先は、要塞都市の外——海を一望できる断崖絶壁だった。
しかし、そこに見えるのは、俺がかつて愛したあの美しい青ではない。
どろりと濁り、雷鳴のような咆哮を上げながらうねる灰色の霧。
吸い込めば肺を灼き、浴びれば肌を腐らせるという絶望の領域『魔毒の霧』が、島の周囲を完全に飲み込んでいた。
「さらばだ、アストラ一族の恥晒しめ。その霧の中で、自らの無能さを呪いながら消えるがいい」
背中を強く蹴飛ばされ、俺の体は浮遊感とともに、断崖から霧の底へと落下していく。
現世でも死んで、ここでも死ぬとか転生した意味が分からなくて笑えてくる。いや、笑えるか。
また転生したりして……なんてな。
死を覚悟し、俺は静かに目を閉じた。
……だが。
霧に触れた瞬間、死の恐怖よりも先に、俺の「海洋オタク」としての魂が激しく叫んだ。
(……いや、待て。これ、毒なんかじゃない。ただの『宝の山』だぞ……!?)
鼻を突く、懐かしくも強烈な磯の香りと、肌にピリつく濃密な魔力の奔流。
現代の海洋学者としての知見が、瞬時に脳内で解析結果を叩き出す。
この霧は、超高純度の魔力が海中の豊富な塩分と結びつき、異常な密度で気化したものだ。
毒に感じられるのは、単に含有エネルギーと濃度が、この世界の人間には濃すぎるからに過ぎない。
(適切に「濾過」さえすれば、これは無限のエネルギー源だ。……それどころか、最高級の希少資源じゃないか!)
「……無能と言ったこと、生き延びて後悔させてやる」
空中。
猛烈な風圧に晒されながらも、俺は冷静に指先を指揮者のように振るった。
全魔力を一点に集中させ、固有スキルを発動させる。
『水質浄化(モレキュラー・フィルタリング)』
俺の周囲の霧が、分子レベルでパチパチとはじけ、急速に分解されていく。
有害な不純物が消え去り、純粋な魔力へと還元された大気のクッションが、落下の衝撃を殺しながら俺の体を優しく押し上げた。
ドサリ、と柔らかな砂浜に着地する。
そこには、要塞都市の住人が一生かかっても拝めないような、澄み渡る青空と、宝石を溶かしたような透明な波打ち際が広がっていた。
「……ふぅ。さて、こうなったら仕方ない。まずは生き残るための拠点作りからか」
砂を払い、立ち上がった俺の目に、波打ち際で力なく揺れる『桃色の輝き』が飛び込んできた。
眩しい太陽の光を浴びて、苦しげに悶える、一人の少女。
白く繊細な肌。
そして腰から下は、深海を映したような蒼い鱗に覆われた、美しい尾びれ。
「人魚……?嘘だろ、本当に存在したのか……」
その光景を見た瞬間、俺の胸はかつてないほど激しく高鳴った。
魔毒に侵され、煤けたように黒ずんだ鱗。
それでも隠しきれないその幻想的な美しさに、俺は一歩、また一歩と引き寄せられていく。