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東京の夏は、息が詰まる。熱気がビルの谷間にこもって、アスファルトの上を歩くだけで靴底から熱が伝わってくる。
セミの声が耳を塞ぐほど響いて、信号待ちの間さえ汗が背中を伝う。
毎年のことなのに、今年は耐えられなかった。
いや、耐える気力がもう残っていなかったのかもしれない。
仕事は行き詰まり、依頼も減って、口座の残高も心許ない。
三年付き合った恋人には「距離を置きたい」とだけ言われ、もう一ヶ月連絡がない。
部屋に一人でいると、時計の針の音と、自分の呼吸だけがやけに響いて落ち着かなかった。
何かを変えなければ、という焦りだけが積もっていく。
そんなとき、知り合いの編集者から電話が来た。
「しばらく東京を離れたら? 山奥に古い家を持ってる人がいて、空けてるらしいよ」
避暑地というより限界集落に近いが、涼しいし、静かだと言う。
条件はひとつ——「庭の井戸には触らないこと」。
そのときは、深く考えなかった。
触らなければいいだけだろう、と。
僕はその話に飛びついた。
列車を何度も乗り継ぎ、バスで山道を登る。
窓の外の景色は徐々に緑が濃くなり、川沿いの道に出ると空気がひんやりしてきた。
蝉の声も東京とは違って、低く、間が長い。
山の匂い——土と水と草が混ざった匂い——が鼻を満たし、それだけで少し救われる気がした。
「……これで、少しは書けるかもしれない」
そんな淡い期待と、現実からの逃避心が入り混じっていた。
バスを降りた停留所には、誰もいなかった。
古びた案内板と、自販機が一台。
そこから先は舗装の剥げた坂道を歩く。
汗は出るのに、なぜか心地いい。
遠くから川のせせらぎが聞こえるが、不思議と水の音がやけに冷たく響く。
やがて、目当ての古民家が見えた。
瓦屋根は色あせ、軒下には干からびたツバメの巣がいくつも並んでいる。
その奥に、黒く口を開けた井戸があった。
石組みの縁は苔むし、桶を吊るす滑車は錆びているのに、なぜか崩れてはいない。
井戸の中からは、確かに冷たい風が吹き上がってきていた。
真夏の陽射しの下でも、そこだけは別世界のような涼しさだ。
——ここからなら、何かが変わるかもしれない。
そんな根拠のない思いと、説明できないざわつきが胸に同時に浮かんでいた。
その夜、持ち主だというおばあさんが来た。
背筋の伸びた人で、目が妙に鋭い。
開口一番、「井戸水は飲むな。夜は絶対に覗くな」
それだけを、何度も繰り返した。
僕は笑って「大丈夫ですよ」と答えたが、その目の奥にある何かが引っかかっていた。
まるで僕がすでに約束を破ることを知っているかのような、そんな目だった。