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井戸の中の青い手

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井戸の中の青い手

1 - 序章:山に入る理由

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2025年08月15日

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東京の夏は、息が詰まる。熱気がビルの谷間にこもって、アスファルトの上を歩くだけで靴底から熱が伝わってくる。

セミの声が耳を塞ぐほど響いて、信号待ちの間さえ汗が背中を伝う。


毎年のことなのに、今年は耐えられなかった。

いや、耐える気力がもう残っていなかったのかもしれない。


仕事は行き詰まり、依頼も減って、口座の残高も心許ない。

三年付き合った恋人には「距離を置きたい」とだけ言われ、もう一ヶ月連絡がない。

部屋に一人でいると、時計の針の音と、自分の呼吸だけがやけに響いて落ち着かなかった。

何かを変えなければ、という焦りだけが積もっていく。


そんなとき、知り合いの編集者から電話が来た。

「しばらく東京を離れたら? 山奥に古い家を持ってる人がいて、空けてるらしいよ」

避暑地というより限界集落に近いが、涼しいし、静かだと言う。

条件はひとつ——「庭の井戸には触らないこと」。


そのときは、深く考えなかった。

触らなければいいだけだろう、と。

僕はその話に飛びついた。


列車を何度も乗り継ぎ、バスで山道を登る。

窓の外の景色は徐々に緑が濃くなり、川沿いの道に出ると空気がひんやりしてきた。

蝉の声も東京とは違って、低く、間が長い。

山の匂い——土と水と草が混ざった匂い——が鼻を満たし、それだけで少し救われる気がした。


「……これで、少しは書けるかもしれない」

そんな淡い期待と、現実からの逃避心が入り混じっていた。


バスを降りた停留所には、誰もいなかった。

古びた案内板と、自販機が一台。

そこから先は舗装の剥げた坂道を歩く。

汗は出るのに、なぜか心地いい。

遠くから川のせせらぎが聞こえるが、不思議と水の音がやけに冷たく響く。


やがて、目当ての古民家が見えた。

瓦屋根は色あせ、軒下には干からびたツバメの巣がいくつも並んでいる。

その奥に、黒く口を開けた井戸があった。


石組みの縁は苔むし、桶を吊るす滑車は錆びているのに、なぜか崩れてはいない。

井戸の中からは、確かに冷たい風が吹き上がってきていた。

真夏の陽射しの下でも、そこだけは別世界のような涼しさだ。


——ここからなら、何かが変わるかもしれない。

そんな根拠のない思いと、説明できないざわつきが胸に同時に浮かんでいた。


その夜、持ち主だというおばあさんが来た。

背筋の伸びた人で、目が妙に鋭い。

開口一番、「井戸水は飲むな。夜は絶対に覗くな」

それだけを、何度も繰り返した。


僕は笑って「大丈夫ですよ」と答えたが、その目の奥にある何かが引っかかっていた。

まるで僕がすでに約束を破ることを知っているかのような、そんな目だった。

井戸の中の青い手

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