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井戸の中の青い手

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井戸の中の青い手

2 - 第一章:静かな集落

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2025年08月15日

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朝、目を覚ますと、窓の外はもう明るかった。東京では聞こえなかった鳥の声が、一定の間を置いてゆっくりと響く。

時折、遠くからコンコンと木を叩く音がして、それが妙に心を落ち着けた。


この家は風通しが良く、扇風機もいらないくらいだった。

障子越しの光が柔らかくて、夏の朝とは思えないほど涼しい。

——いや、本当に涼しいのだ。

夜も窓を開けて寝ていたのに、布団の中で少し冷えを感じたくらいだ。


午前中は家の周りを散歩してみることにした。

集落といっても家は十軒もなく、ほとんどが空き家か年寄りの暮らす家だ。

舗装の剥げた細い道に沿って、畑や棚田が点在している。

日差しは強いが、谷から吹く風が熱を奪っていく。


出会った村の人はみな穏やかだった。

ただ、僕が「井戸が涼しいですね」と口にした途端、微妙に表情が変わるのが気になった。

笑顔を崩さないけれど、会話の流れを変えるように別の話題を振ってくる。


——触れられたくない話題なんだろう。

でも、そのほうが逆に気になるのは、人の性だ。


昼前に家へ戻ると、おばあさんが縁側で何かを干していた。

声をかけると、干しているのは薬草だという。

「山は湿気るからね。こうして干しておかないと」

そう言いながらも、彼女の目は庭の井戸のほうへと時折動く。


「井戸の水、きれいそうですね」

僕がそう言うと、おばあさんは首を横に振った。

「きれいでも、飲むな。……あれは飲む水じゃない」

言葉の端に、ほんの一瞬、ためらいが混じった気がした。

何かを言いかけて、飲み込んだような。


そのとき、井戸からふっと冷たい風が流れてきた。

真昼の太陽の下なのに、その風は秋の夜みたいに澄んでいて、足首から背筋まで一気に冷たさが駆け上がった。

僕は思わず鳥肌を立てたが、おばあさんは平然としている。

いや……平然に見せているだけかもしれなかった。


午後は部屋にこもって原稿に向かった。

でも、なぜか集中できない。

静かすぎるせいか、パソコンのキーを叩く音がやけに大きく響く。

そして時折、風の流れが変わると、あの井戸からの冷気がふわりと入り込んでくる。


冷たさそのものは心地いい。

でも、心地よすぎる涼しさは、かえって落ち着かない。

まるでこちらを呼んでいるような……そんな錯覚を覚える。


自分でも笑ってしまう。

たかが井戸だ。何百年も昔から、そこにあるだけの井戸だ。

そう思いながらも、頭の片隅に「夜の井戸はどうなっているんだろう」という考えが、小さく芽を出していた。


——おばあさんの言葉を守るつもりはある。

けれど、「守るつもり」のうちにどれだけの誘惑を振り払えるかは、自信がなかった。

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