テラーノベル
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朝、目を覚ますと、窓の外はもう明るかった。東京では聞こえなかった鳥の声が、一定の間を置いてゆっくりと響く。
時折、遠くからコンコンと木を叩く音がして、それが妙に心を落ち着けた。
この家は風通しが良く、扇風機もいらないくらいだった。
障子越しの光が柔らかくて、夏の朝とは思えないほど涼しい。
——いや、本当に涼しいのだ。
夜も窓を開けて寝ていたのに、布団の中で少し冷えを感じたくらいだ。
午前中は家の周りを散歩してみることにした。
集落といっても家は十軒もなく、ほとんどが空き家か年寄りの暮らす家だ。
舗装の剥げた細い道に沿って、畑や棚田が点在している。
日差しは強いが、谷から吹く風が熱を奪っていく。
出会った村の人はみな穏やかだった。
ただ、僕が「井戸が涼しいですね」と口にした途端、微妙に表情が変わるのが気になった。
笑顔を崩さないけれど、会話の流れを変えるように別の話題を振ってくる。
——触れられたくない話題なんだろう。
でも、そのほうが逆に気になるのは、人の性だ。
昼前に家へ戻ると、おばあさんが縁側で何かを干していた。
声をかけると、干しているのは薬草だという。
「山は湿気るからね。こうして干しておかないと」
そう言いながらも、彼女の目は庭の井戸のほうへと時折動く。
「井戸の水、きれいそうですね」
僕がそう言うと、おばあさんは首を横に振った。
「きれいでも、飲むな。……あれは飲む水じゃない」
言葉の端に、ほんの一瞬、ためらいが混じった気がした。
何かを言いかけて、飲み込んだような。
そのとき、井戸からふっと冷たい風が流れてきた。
真昼の太陽の下なのに、その風は秋の夜みたいに澄んでいて、足首から背筋まで一気に冷たさが駆け上がった。
僕は思わず鳥肌を立てたが、おばあさんは平然としている。
いや……平然に見せているだけかもしれなかった。
午後は部屋にこもって原稿に向かった。
でも、なぜか集中できない。
静かすぎるせいか、パソコンのキーを叩く音がやけに大きく響く。
そして時折、風の流れが変わると、あの井戸からの冷気がふわりと入り込んでくる。
冷たさそのものは心地いい。
でも、心地よすぎる涼しさは、かえって落ち着かない。
まるでこちらを呼んでいるような……そんな錯覚を覚える。
自分でも笑ってしまう。
たかが井戸だ。何百年も昔から、そこにあるだけの井戸だ。
そう思いながらも、頭の片隅に「夜の井戸はどうなっているんだろう」という考えが、小さく芽を出していた。
——おばあさんの言葉を守るつもりはある。
けれど、「守るつもり」のうちにどれだけの誘惑を振り払えるかは、自信がなかった。
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