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「じゃあ、母さん行ってくるよ」
そう言って抱きしめると、母の身体は少し震えていた。
「無事に…… 無事にね、どうかお願い…… 帰ってきて」
両の肩を揺らされて懇願される。大粒の涙をぬぐう手が弱々しく、か細く小さく見える。
「あぁ、大丈夫だから、大丈夫だから母さん」
母の心はまだ癒えてない。俺と言う存在が、残された彼女のたった一つの生きる理由だという事も分っている。
「おばさん、母さんをお願いします」
「大丈夫、私がしっかり見ておくから…… それと」
「うん、わかってるよ、レオは必ず連れ帰る」
「ごめんね…… 」
そう言ってうつむき涙をにじませると、二人は肩を寄せ合い俺を見送った。
宿営地での襲撃事件の後、父の葬儀は厳《おごそ》かに執り行われ、レオは参列する事は無かった。遺体の損傷が酷く、切断された部分はあらかじめ丁寧に縫合され、傷口周辺は沢山の美しい花で隠され埋葬された。
愛した人の変わり果てた帰郷に母は、頭を地面に擦り付け嗚咽《おえつ》を漏らしながら三日三晩泣き明かした。
レオは怪我も半ば良くなると、何も言わずにこの村を出て行った。父の敵討ちと、そして彼自身が強くなるために旅立ったのだと俺は理解していた。
あの日、意識を取り戻した俺達は、雇われた護衛達が話す噂話を耳にした。それは、この襲撃はただの野党達の仕業では無いという事と、国同士の覇権争いが絡んでいる事、そしてあの商隊の中に西側諸国の要人が乗る馬車が1台紛れていたとのことだった。
ひそひそと二人の護衛が続ける。
「何かおかしいと思ったんだよな、1台だけ3頭引きだからな」
「あぁ、俺もそう思ったけど、余程重い物でも積んでるんだとしか考えなかったな」
「中は覗いたか?」
「いや、周りの護衛達が多くてな、近づけもしなかったよ、でもあいつらは騎士だな」
「騎士ってお前…… まさか⁉ あいつらが聖騎士だって言うのか? 」
「いや断定は出来んが、あながち間違っちゃいねーと思うぞ、あの統率のとれた連携と対応の速さ、身に着けてる防具は俺達と変わらん安物だったが偽装だな、あれは要人警護をきちんと高い技術で学んでる奴らの動きだった、そして決定付けたのは…… 」
「あぁ…… 帝国の英雄様のご登場って訳か」
【西側諸国連合 それらを全て統べる神聖カルマ帝国】
カルマ神教を国教と唱《とな》え、それ以外の信仰や宗教を異端者と定め弾圧、従わぬ者は一族全員木に吊るしさらし者にした。そうして手に入れた膨大な土地を統治し、7つの領地を定め国力を高めてきた西側最大の大帝国である。
「あの竜殺しの英雄様は、例の馬車を守る為に追って来たらしいからな 余程の人物が乗ってたんじゃねーかな」
「成程ね…… じゃあ襲ってきた奴らは」
「あぁ間違いなく東方正教側の暗部だな」
すると別の人物の声が近づいてくる。
「おい⁉ お前達何を話している? 」
「いえ、自分達は何も…… 」
「そうか、余り無駄話はするんじゃないぞ? 中の者達は変わりないか? 」
「はっ!! 異常ありません」
カツンッ!っと踵を鳴らす音が聞こえた。
「お前ら二人は交代だ、ゆっくり休め」
「はっ!」
その後、二人の会話は聞こえなくなった…… 横に寝ているレオと目が合いお互いゆっくりと頷く。
(あぁ…… 良かった)
―――レオの目はまだ光を失ってはいなかった……
レオを追い村を出てから8日目、俺は小さな街道を西の国境を目指し歩いていた。大きな平原は、やがて広大なライ麦畑へと景観を変え、そよそよと穂を撫でる冷たい風が夜の訪れを知らせてくれた。
(今日はここまでにしよう)
周辺にある乾いた木々の枝と藁を集め、麻布で編んだ鞄から松の実を粉末にした粉をかけ火打ちする。焚きつけた火が消えてしまわぬように今度は少し大きめな枝をくべる。
俺は世界を知らない…… 村の近くに有った町よりも外へは行った事がなかった。もちろん地図と呼ばれる物の存在は認識していたが、庶民には到底、手の届く代物ではなく、一部の貴族や大商人達以外必要とする者は居なかった。
故に、単に西側諸国と言われても、どんな国が存在し、そしてそこにどんな文明や文化、人々が生きているのかさえも知らなかった。
(いや…… 違うな)
世界を知らないのではなく、世界を知ろうとはしなかった。毎日、あの穏やかな日常が続けばいいとそれだけで満足していた。レオと笑い合い、喧嘩をし、小さな果物を互いに分け合ったあの生活が、俺にとっての全てだった。
そのたった一つの俺の小さな幸せを、簡単に奪って行った奴らが居る。
―――必ず見つけ出してやる……
干した鹿肉を頬張り、周囲を警戒しながらしばしの仮眠をとる。
(レオは間違いなく西に向かったはず…… 明日はもっと急がねば)
夜の静寂に呼吸を合わせ、俺は知らぬ間に深い眠りに落ちていた。
街道を進んでいると、後ろから1台の荷馬車が近づいてきた。
俺を追い越し際に御者が声を掛ける。
「随分とお若い旅の方じゃのう、干し肉は間に合ってるかい? 」
御者の隣からひょこっと顔を出し小さな女の子が真似をする。
「あにあってるかい? 」
花で編んだ花輪を頭に乗せたおさげ髪の幼女が、満面の笑みで御者の膝に乗りかかる。良く見ると御者の頭にもしっかりと花輪が乗っている。
「ぷっ! あぁすまない助かるよ、それじゃあ少し見せて貰おうかな」
「すまんね、この子は儂の孫娘で、もう立派な商人気取りで…… 」
「ははは、それじゃあ可愛い商人さん、宜しくお願いしますよ」
小さな街道沿いでは未だ宿営地が整備されていない所が多く、町まで無補給で歩む事となる。その為旅人は、すれ違う商人の馬車などから必要な物資を買うという文化が独自に発展した。
「飲み水と、そうだな…… 乾燥させた果実と寝藁を少し貰おうかな」
「へい、ありがてぇ、じぁあ、うちの自家製ワインと果物も少し持ってってくれ」
「え⁉ いいのか? 」
「うちの孫娘を可愛いって褒めてくれなさったからな、そら嬉しいじゃろー、遠慮は要らねぇ持ってってくんな」
「有難う、じゃあ遠慮なく頂くよ、ところで西の国境まで行きたいんだが後どれ位かかるかわかるかい? 」
「そうさなぁ…… 国境までは歩いて10日前後ってとこじゃな」
「10日か…… また補給しないとダメだな…… 」
「いんや、この先にヒーシの森ってのがあるんじゃが、それを越えて4日位でポートローって言う街に出れるはずじゃ、そこで追加の補給をすればいいじゃろ、ポートローは国境に一番近い街じゃから何でも揃う。宿屋も有るからもう寝藁で寝なくても済むぞい。飯屋も色々あるからのう、もう干し肉は嫌じゃろ? 」
「そりゃあ助かる」
「但し歩いて森を抜けるには今日は遅すぎるからのう、森の手前で野営するのが良いじゃろう」
顎に蓄えた長い髭を撫でながら御者は忠告を促す。
「危険なのか? 」
孫娘を抱え愛おしく頭を優しく撫でながら、その表情は不安げに語った。
「うむ、良くない噂が多い森なんじゃよ、言葉にして話す事も皆怖がっておる、災いが訪れるそうじゃ」
「あんた達はどうするんだ? まさか幼い子を連れてそんな森を今から進むのか? 」
「あぁ儂らなら大丈夫じゃ、何度も往復しておるし、ほれっ! 」
っと荷馬車の奥に目を送るように顎を突き出す。さっきまで気が付かなかったが、長剣を肩にもたれ掛けさせ、膝を立て腰掛ける剣技士が居た。その眼光は鋭く、頬に大きな傷跡が残る。
「護衛が居たのか」
「あぁ儂らは夕刻時も急ぐからのぅ、護衛無しではこの森は危険すぎるのじゃ」
祖父の腕から滑り降り、幼女が俺に花輪を差し出した。
「あのねこれ、あげゆの、おれー」
「ん? お礼? これ、くれるのか? 俺に? 」
「うんーおなじー、なかよしー」
「有難う、お兄ちゃんすごく嬉しいぞ」
幼女のほっぺを両手でさすり、腰を降ろして抱きしめた。
幼女は花の香りのいい匂いがした……。
荷馬車と別れ、暫くすると森の入り口に差し掛かった。森の中へと続く街道は、今よりももっと幅を狭める如く、生い茂った木々達が街道に覆いかぶさり、まるで獲物を飲み込む巨大な大蛇のようにぽっかりと口を開けていた。
―――もうすぐ夕刻だ……
ふいに御者の言葉が頭をよぎる。
≪良くない噂…… 災いが訪れる…… ≫
大きく空を見上げる。風が無い…… 静か過ぎる…… 胸騒ぎがする…… 何かがおかしい。狩人としての感が、そして経験が、俺を森の中へと衝動的に走らせていた―――
(俺の事は後で考えればいい!森ならば狩人である俺の領域だ)
―――今は荷馬車の安全を確認する事が先決だ……
荷馬車との距離はまだそんなに離れていないはず、しかもこの悪路だ、速度を落とし進むしかない。
走り出して暫くすると雨が降り出してきた。獣は極端に身体が濡れるのを嫌がる習性を持つものが多い。だが一概にそうとは言い切れない、この雨が吉と出る事を願う。どうか、この俺の一連の行動が無駄で在ったと思いたい。
―――どうか……。
辺りが間もなく薄闇に包まれそうになった頃、前方に火の手が見えた。
荷馬車が横倒しになりランタンが燃えている。悲しくも胸騒ぎが的中してしまった。
―――もう恐れない……
(あの時とは違う、何があっても前に進め‼ )
自分の出来る事をしろ―――
―――ランタンの炎がパチパチと雨を弾いている……
荷馬車の横に転がる御者を見つけ抱きかかえる。まだ息がある。
「おい‼ しっかりしろ‼ 何があった? 」
「狼…… 群れが…… 孫を咥えて森に…… ごふっ」
腕と脚を引きちぎられ、腹からも大量に出血している。
「頼む、孫を、アリアを、小さなあの子を…… 頼む‼ 」
残された力で必死に俺に思いを託す、それが彼の最後の願い。
「大丈夫、任せてくれ、アリアは俺が必ず助ける‼ 約束だ‼ 」
御者は安心した表情で俺の懐で息絶えた……。
「くそっ‼ 」
麻の鞄から長い布を出し右の手首に巻き固定する。剣技士もアリアを追って森に入って居るのであれば、未だ間に合う可能性がある。
―――――急げ!!
地面から浮き出た木の根をいくつも飛び越えながら、獣道らしき痕跡を辿り、眼前に迫る木々の小枝をナイフではたきながら全速力で森を駆ける。
少し開けた場所に4~5匹の狼が何かに群がっていた。
「はぁはぁはぁ……」
息を整え薄闇の向こうへと目を凝らす‼ その横には無残にも花で編んだ花輪が冷たい雨にさらされていた……。
一気に憎悪が爆発する―――――
最大の力で弓を引き矢を放つ‼ 一頭の横腹に突き刺さり、悲痛な叫びをあげる。その叫びにより他の狼達が振り返ると、その口元は赤黒く鮮血を帯びていた。
「お前ら…… 苦しませてやる‼ 」
振り返った顔を狙い矢を連続で速射する。狼の目や頭を慈悲なく矢が捉えた‼
「ギャンッ」
狙いを搔い潜った1頭が赤黒く光った牙をむき出しに俺に向かい突進してくる…… 背負っていた矢筒を肩から降ろし両手で構える。今まさに俺を押し倒し食い殺そうとのしかかった瞬間に、狼の牙の中に矢筒はめ込み噛ませる。
「ガァルガガガ…… バキィン」
矢筒がかみ砕かれ音を上げるとほぼ同時に、ナイフを抜き狼の腹を掻《か》っ捌《さば》く‼ 辺り一面に鮮血が飛び散り臓物が飛び出す。倒れた狼に馬乗りになり、両手で何度もナイフを頭部に突き刺した。
(アリアの幼い笑顔が頭から離れない)
「おらあぁぁぁぁ――― 」
返り血を大量に浴び、身体から蒸気を立ちのぼらせながらゆらりと立ち上がり、残った狼達を威嚇する。狼達は毒矢で体力を少しづつ奪われているせいか、怯えた様子で後ずさりをする。俺は警戒しながら、壊れた矢筒と弓を回収すると、その中の1頭が大きく遠吠えをした。
「クオ―――――ン‼ 」
静まり返った森の更に奥から、バキバキと木々をなぎ倒しながら何かがこちらに向かってくる。それもかなりの大きさだ。俺は身の危険を感じ、咄嗟に腰に下げた縄を太い木の樹冠《じゅかん》へと投げ渡すと、上部へと避難し闇夜に紛れ様子を伺った。
そして目の前に現れたそれは、俺の想像を絶するモノだった……。