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最後に演奏するのは、怜と奏が一番好きなT–SQUAREの WHEN I THINK OF YOU。
作曲したのは、三十年前以上にこの楽曲が収録されているアルバム『NEW-S』が発売された当時、T–SQUAREのメンバーだったサックス奏者、『ハイパーサックスプレイヤー』の異名を持つ本田雅人。
今回のコンペティションも、奏は即興演奏で臨む。
親友の結婚披露宴では即興のピアノソロ、怜の勤務先の創業パーティでは、彼がアルトサックスを吹き、奏は急遽この曲を伴奏した。
二人にとって、思い出深い楽曲。
奏は、心を落ち着かせながら前奏部分を弾き始めた。
客席で奏の演奏を、怜は食い入るように見つめている。
まさか、こういうコンテストの舞台で、この楽曲を演奏するとは思いもしなかった怜は、会場入り口で出場者のセットリストを受け取り、奏の演奏する曲目を見て驚いた。
思い起こせば、二人を結びつけてくれた、怜と奏にとっては、宝物のような大切な楽曲。
彼女のピアノソロでの演奏も聴いたし、創業パーティでは伴奏もしてくれ、愛車のカーステで奏と一緒によく聴いた。
奏も演奏しながら、何か思う事があるのだろうか。
サビ直前の部分を弾いている時、怜はピアノの弦が張られている所から、様々な種類の音符が朧気に見えたような気がした。
奏がサビの部分、四回ほど同じようなフレーズがリピートされる所を演奏している。
怜に恋心を抱いている事を自覚し始めた頃、彼を想う時、奏は胸の奥が苦痛で堪らなかった。
過去の失恋の痛手に縛られ、感情を表に出さず、人を寄せ付けないように振る舞うものの、少しずつ怜への恋慕が膨らんでいき、苦しくて切なくて、何度涙を堪えきれずに零してきた事だろうか。
怜と恋人同士になっている今、奏の心には一点の曇りもない。
奏に寄り添いつつ真摯に向き合い、彼の揺るぎない愛情をひしひしと感じながら、守られているような安堵感がある。
(怜さん。今の私は、あなたを想う時…………あなたが大好きで……自然と笑みが零れてしまうんだ……)
溢れる愛を解き放ちながら指先に伝え、一つひとつの音を大切にしながら、心を込めて打鍵していく奏。
彼女は、このコンペティションに出場して初めて『一音入魂』で、自身の音楽と向き合っているような気がした。
ちょっとしたアドリブも交え、観客席のどこかにいるだろう恋人に向け、音で気持ちを伝える。
アルバムに収録されている原曲は六分以上になるが、このまま弾き続けたらタイムオーバーすると判断した奏は、弾きながら急遽ワンコーラスだけの演奏に決め、最後のアルペジオを囁くような音色で演奏を結んだ。
音の余韻を耳で感じながら、そっと鍵盤から手を離し、椅子から立ち上がる。
約二十分近くの演奏が終わり、刹那の静寂の後、奏は大きな拍手と達成感に包まれながら深々と一礼し、舞台袖へと向かっていった。