テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#一次創作
#薔薇
げすと
90
羽海汐遠
15,542
第2話『言葉のない注文書』リメイク版
春の風が、路地裏をやさしく吹き抜けていく。
猫又亭の軒先に吊るされた風鈴が、小さく鳴った。
ちりん――。
朝から降っていた雨はすっかり上がり、濡れた石畳が夕日に照らされてきらきらと光っている。
店の中では、たまがコーヒー豆を挽いていた。
ごり、ごり、と心地よい音が静かな店内に響く。
その香りを楽しむように、看板猫のクロは窓辺で丸くなっていた。
すると、不意にクロが耳をぴくりと動かした。
「たまさん」
「ん?」
「あの子、来ましたよ」
たまは窓の外へ目を向ける。
細い路地の向こうから、小さなランドセルが揺れていた。
慌てることなく、一歩ずつ。
毎週水曜日になると必ず歩いてくる、小さなお客さん。
「今日も来てくれたんだね」
たまは嬉しそうに微笑んだ。
その時。
カラン――。
扉の鈴が、やさしく鳴る。
入ってきたのは、小学校高学年くらいの少女だった。
名前は、栞(しおり)。
肩まで伸びた黒髪を丁寧に結び、少し大きめのランドセルを背負っている。
制服の胸元には、小さな青いバッジ。
特別支援学校の校章だった。
栞は言葉を話すことができない。
けれど、その瞳は誰よりも豊かに感情を映していた。
店へ入ると、小さくお辞儀をする。
たまも同じように頭を下げた。
「いらっしゃい、栞ちゃん」
栞は安心したように微笑み、いつものカウンター席へ腰掛ける。
ランドセルから一冊のノートを取り出した。
表紙には、たくさんの猫のシール。
大切に使われていることが一目で分かる。
そのノートを開き、小さな付箋を一枚めくる。
そして、たまへ差し出した。
そこには、丸く優しい文字で書かれていた。
《レモンミントソーダをください。今日も音のない日でした》
たまはその文字を何度も読み返し、ふわりと笑った。
「もちろん。」
「今日も一番おいしいのを作るね」
氷をグラスへ入れる。
透明な炭酸が心地よい音を立てる。
輪切りのレモンを浮かべ、
庭で育てたミントを一枚。
最後に、ほんの少しだけ猫又特製の砂糖
猫又亭だけの隠し味。
しゅわしゅわ、と泡が弾ける音を聞きながら、たまは思った。
(音がない日、か……。)
栞は学校ではほとんど声を出さない。
友達もいる。
先生も優しい。
それでも、話せないことで伝えられない気持ちはたくさんある。
悲しいことも。
嬉しいことも。
悔しいことも。
全部、このノートに閉じ込めてきた。
「お待たせ。」
レモンミントソーダが運ばれる。
栞は両手でグラスを包み込むように持ち、
一口だけ飲んだ。
その瞬間。
ふっと頬がゆるんだ。
その笑顔を見るたび、
たまは「今日も来てくれてよかった」と思う。
栞はカバンからシール帳を取り出した。
今日のページには、
青い空のシール。
雲。
雨粒。
音符。
猫。
そして、小さな風鈴。
一枚ずつ丁寧に貼っていく。
それは彼女だけの日記だった。
文字だけでは伝えきれない今日を、
色で、
形で、
思い出にしていく。
たまは静かに見守る。
何も急かさない。
ここでは誰も急がない。
「今日は学校で何かあった?」
栞は少し考えて、
また付箋を書いた。
《みんな楽しそうに笑っていました。 私も笑ったけど、 声が出ないから、 ちゃんと笑えているのか少し不安でした》
たまは胸が少しだけ締めつけられた。
けれど、悲しそうな顔はしない。
「栞ちゃん。」
「笑うってね、声だけじゃないんだ。」
たまは自分の目元を指差した。
「目が笑ってる。」
「頬も笑ってる。」
「心も笑ってる。」
「だから、私はちゃんと分かるよ。」
栞は驚いたように顔を上げた。
その時だった。
ちりん。
風鈴が揺れる。
窓は閉まっている。
なのに。
春風が店の中だけをそっと通り抜けた。
「今日は機嫌がいいみたいだね。」
たまは風鈴を見上げる。
「この風鈴ね。」
「言葉にならない気持ちを、
ほんの少しだけ音に変えてくれるんだ。」
栞も見上げる。
もう一度。
ちりん。
今度は優しく、
まるで「こんにちは」と言うような音だった。
その音を聞いた瞬間。
栞の目から涙が一粒こぼれた。
悲しい涙ではなかった。
安心した時に流れる涙だった。
たまは何も言わない。
ティッシュをそっと差し出すだけ。
栞は涙を拭き、
またノートを開いた。
少し時間をかけて、
一文字ずつ、
丁寧に書く。
そして、
付箋をたまへ渡した。
《今日は、いい音がしました。 私の心も、 少しだけ話せた気がします。 ありがとう。》
たまは嬉しそうに目を細めた。
「こちらこそ、ありがとう。」
帰る時間になった。
栞はランドセルを背負い、
小さく手を振る。
扉の前で立ち止まり、
振り返ると、
胸の前で両手を合わせた。
それは彼女なりの「また来ます」の合図。
たまも同じように手を合わせる。
「また来週ね、栞ちゃん。」
栞は大きくうなずき、
夕焼け色の路地へ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、
クロがぽつりと言う。
「言葉って、不思議ですね。」
たまは静かにカップを磨きながら微笑んだ。
「うん。でもね。」
「言葉がなくても、心はちゃんと届く。」
「この店は、そんな”心の注文”を受け取る場所だから。」
風鈴がもう一度、小さく鳴る。
ちりん――。
今日も猫又亭には、
言葉よりもあたたかい想いが、
そっと流れていた。
コメント
1件
美月ゆめかだよ〜🌸 読んだ読んだ!第3話もめっちゃ良かった…! 栞ちゃんが付箋で伝えてくれる「音のない日でした」って一文がもうね、胸ぎゅっとなった😭💕 それに対してたまさんが「笑うのは声だけじゃない」って言ってくれるのが優しすぎる…。風鈴が心の音になるって設定もロマンチックで泣けたよ🎐✨言葉がなくてもちゃんと想いが届くって、そういうお店って素敵すぎる…!! 次回も楽しみにしてるね、黒音さん!!⋆♡