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『Spiral Woven of Light and Shadow』――光と影の螺旋 個展最終日。
閉場後の深夜。会場はすでに照明が落とされ、スタッフも帰宅した後。
私は一人、展示ケースの前で最後の片付けをしていた。ブラックダイヤモンドと黒曜石のネックレスが、残されたスポットライトの下で静かに息づいている。『Eternal Silence』――壊れた誓いを、永遠の沈黙に変えた一連のコレクション。私の影は世界へと広がった。新しい光を求めて。私はケースのガラスに指を滑らせ、微かな冷たさを感じた。
――これで、本当にすべてが終わったはずだった。外のガラス扉越しに、街灯の淡い光が差し込んでいる。その光の中に、ぼんやりとした人影が立っていた。コートはくたびれ、襟元が乱れ、肩は落ちている。一度は見慣れたシルエット。でも、今は違う。かつての自信に満ちた姿勢はどこにもなく、ただの疲弊した影。
拓也だった。
私は手を止めず、ゆっくりと視線を上げた。ガラス越しに目が合う。拓也の目は虚ろで、頬はこけ、髭が伸び放題。消息不明になってからどれだけの月日が経っただろう。彼の唇が動く。声は聞こえないが、形だけが読み取れる。
「瑞穂……」
私は一瞬も表情を変えず、ただ静かに首を振った。――見ていない。再びケースに向き直り、ブラックダイヤのネックレスを丁寧に布で拭き始めた。布が宝石に触れるたび、微かな光が反射する。その光が、ガラス扉の向こうの影を一瞬だけ照らした。
拓也の顔が、はっきりと浮かび上がる。目尻に深い皺が刻まれ、かつての鋭い眼光は失せ、ただ怯えたような色だけが残っている。拓也がガラスに手を当てた。掌が白く広がり、指が震える。再び唇が動く。
「お願いだ……一度だけでいい。話させてくれ」
私は、拭く指を止めない。
「俺は……全部、間違ってた。麻里奈も、他の女も……全部、俺のせいだ。会社は潰れ、親父にも見放され、金も何も残ってない。でも、お前だけは……お前だけは、まだ……」
言葉は途切れ途切れで、ガラス越しに掠れた息が白く曇る。私は拭く手を止めず、ただ淡々と作業を続ける。ネックレスの留め具を確かめ、次のケースへ移る。
サファイアのピアス。
屈折する青い光が、私の頬を優しく撫でる。拓也の声が、少し大きくなった。でも、まだ外からは聞こえない距離。彼は拳を握り、ガラスを叩く。
コツ、コツ。
小さな音が、静かな会場に響く。
「瑞穂!俺を……見捨てないでくれ。お前がいなきゃ、俺は……」
私はようやく顔を上げた。視線は拓也ではなく、ピアスの青い輝きに向けられている。ゆっくりと息を吐き、静かに呟いた。声は自分だけに届く。
「あなたは、もう私の永遠の一部じゃない。沈黙が、あなたの居場所よ」
言葉は穏やかで、感情の波がない。まるで、展示品の説明をするように。拓也の拳が止まった。彼の目から、何かが一筋滑り落ちる。涙か、汗か。ガラスに当たり、小さな音を立てて弾けた。
私はケースの照明を1つずつ消し始めた。
最初にブラックダイヤのネックレスが闇に沈む。
次にサファイアのピアス。
最後に、リングの列。
『Broken Vows』の続きとして作った『Eternal Silence』のリングが、最後に残る。私はそれを指にはめ、ゆっくりと回した。螺旋を描く光が、彼女の瞳に映る。
外の拓也は、ガラスに額を押し当てていた。肩が小刻みに震え、息が荒い。でも、私はもう見ていない。最後の照明スイッチに手を伸ばした。クリック。会場が完全に暗くなる。
街灯の光だけが、ガラス扉越しに残る。拓也の影が、ぼんやりと浮かぶ。彼はまだそこに立っていた。動けない。ただ、震えるだけ。私はコートを羽織り、バックヤードへ向かう。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。――影は、まだそこにいる。私は静かに微笑んだ。それは、復讐の余韻でも、憐れみでもない。ただ、確信。
「永遠の沈黙よ。おやすみなさい」
#モテテク
#大人の恋愛
バックヤードの扉が閉まる。カチリと鍵がかかる音が、静かに響いた。外の拓也は、ゆっくりと膝を折った。ガラスに額を押し当てたまま、動かなくなる。街灯の光が、彼の背中を長く伸ばす。影は、徐々に薄れていく。風が吹き、街の喧騒が遠くから聞こえてくる。
私はエレベーターに乗り、地下駐車場へ降りる。扉が開くと、冷えたコンクリートの匂いと、遠くで微かに響く換気扇の音だけが迎えてくれた。足音が小さく反響する。
「お待たせ」
「お疲れ様」
そこには倉橋が凪のような微笑みを浮かべながら、黒いセダンの運転席で待っていた。エンジンはすでに掛かっていて、低い唸りが静かに車体を震わせている。
ダッシュボードに置かれた小さなケース。私の試作品――小さなルビーのペンダント。
石言葉は『勝利』。
私はケースを開け、細いチェーンごと指先で摘み上げる。ルビーは照明の薄い光の下でも、まるで内側から燃えているように赤く沈んだ輝きを放っていた。首の後ろで留め金を閉めると、金属が肌に冷たく触れ、一瞬だけ鳥肌が立った。
私はそれを首にかけ、ミラーで確認した。深い血の光が、静かに輝く。鎖骨のくぼみに落ちた赤は、まるで小さな傷口のようだった。もう痛みはない。ただ、そこにあるだけ。
――これで、本当に終わった。
倉橋は無言でアクセルを踏み込む。車がゆっくりと動き出す。ランプの橙色の光がフロントガラスを滑り、コンクリートの壁をなぞって消えていく。バックミラーに映る会場は、もう見えない。エントランスのガラス扉も、拍手の残響も、誰かの視線も、何もかもが遠ざかっていく。
私の瞳には、何も映っていない。ただ、前方だけ。
トンネルの暗がりを抜けると、夜明け前の薄い青が広がっていた。まだ街灯が点いている時間帯。雨上がりのアスファルトが、濡れた鏡のように空を映している。
倉橋が初めて口を開いた。
「……似合ってるよ」
私は答えず、ただ窓の外を見続けた。ルビーが首元で小さく揺れるたび、光の欠片が頬を撫でるように動く。新しい朝が、待っている。
それはきっと、昨日までの私を知らない朝だ。何も背負わず、何も期待されず、ただそこにあるだけの、静かな朝。私は目を閉じた。ルビーの温もりが、ゆっくりと肌に馴染んでいくのを感じながら。
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