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現在、夜の9時を少し回ったところだ。俺がアルバイトとして雇ってもらっている『焼き鳥かのえ。』は今日も忙しい。開店してからお客は絶えず老若男女のサラリーマンや学生や、稀に家族連れが来る。昼の12時から焼き鳥用の丸鶏を捌き、重さを測って一口大に切る。その後に串を打ち、人気商品の仕込みからサイドメニューの下拵えなどを済ませたら、焼き台の炭を起こして、夕方五時から営業が始まる。開店するとすぐに満席だ。
「は〜い♪いらっしゃいませぇ〜。お二人様ですね?どーぞこちらへ♪」
「レオさ〜ん?生三つですぅ♪。あとおまかせも三つでよろしゅう♡」
「はい!よろこんでー!。お先に生ビールみっつと……お付きでーす!」
とにかく忙しい。そして既に9時間ほど働いている。それでも俺の日当は八千円。包丁の使い方や出汁の取り方など、和食の基礎を教えてもらえているからには貰い過ぎな気もする。そしてこの店のオーナーである七月かのえ《ナナツキ・カノエ》さん22歳は、桃華姉ちゃんの高校の先輩だ。いつも和装で上品で、長い髪を結い上げたうなじに大人の色香を感じる。
「獅子く〜ん?こっちもおまかせ焼きふたつで〜す♪。あと枝豆を〜♪」
「はいっ!おまかせ二つ追加と枝豆ー!。ありがとうございまーす!」
「レオさ〜ん、出汁巻きふたつで〜す♪」
「出汁巻き二つ追加でー!。ありがとうございまーす!」
「獅子く〜ん。揚げ鶏をひとつでよろしゅう。あとポテサラを二つで♪」
「はーい!揚げ鶏ひとつとポテサラ2で!。ありがとうございまーす!」
そしてもう一人。オーナーの妹さんも、このお店を手伝っている。訳あって高校を中退したらしいのだが、とても明るくて活発で少々オマセな女の子だ。名前は七月うずめ《ナナツキ・ウズメ》ちゃん。16歳。俺の顔を見る度に抱き着いてくるので少々苦手だ。しかしその成長は目を見張るものがある。華奢で美少女で明茶色な長い髪をお団子にしていて。可愛い。
「レオさん?そろそろ上がってもろうてええよ?。落ち着いて来たし。」
「あー。…まだ10時を過ぎたとこですし…11時までは居ますよ。」
「…獅子くん。昨日…何かあったでしょ?。…ひどい顔してるわよぉ?。あ、10時だ。おねぇちゃん?うずめは時間だから聞いといてねぇ?」
「うん。お疲れさん。そう、ウチもそれが気になっててん。仕込みの時からずっと蒼い顔しててぇ。…もしかして…桃華ちゃん?。何かあったん?」
「……何でもありませんよ。…洗い物しますね?。(…そんなにゲッソリしてるのかなぁ?今日のオレって。…結局、ねぇちゃんから一度も連絡なかった。明日は日曜日だから、まだ男と一緒なんだろう。…そりゃ連絡なんてできないさ。その男から見れば…俺の方が浮気相手になるんだしな…)」
厨房の横にある階段を、うずめちゃんが俺に小さく手を振ってから登ってゆく。ようやく空き始めた店内。そもそもボックス席が四つと8人がけのカウンターしかない小さな店だ。すぐ満席になるし、お客が引き始めれば席の片付けも早い。図星を突かれた俺は苛立ちを隠しながら、カウンターに座って心配しているカノエさんに背を向けた。相談できる理由がない。
「こんばんは〜。こんな時間に一人だけど、いいかしら?」
「あらあらムラサキさぁん。お仕事ご苦労さまどす。さ。どうぞぉ♪」
「ありがとおママちゃん♪。…あ、獅子神くん、こんばんは♡」
そろそろ厨房の片付けに入ろうかと思っていたところに馴染みな女性客がふらりと現れた。いつもの濃紺なビジネススーツにキャメルカラーなカシミア風のロングコート。全体的にスラリとしていて七頭身。青黒く長い髪をいつもポニーに纏めている。鼻筋の通った凛とした顔立ちの美女なのだが、どこからどう見ても刑事には見えない。年齢は20〜25くらいか?
「あ。むらさき警…。こほん。紫さん。お疲れ様です…」
「え!?。ど!どうしたの獅子神くん。…目の下が真っ黒じゃない!?」
「………へ?。オレの…目の下が?。…ちょっとトイレで…見てきま…」
「ほら!これ見て!。…なぁにぃ?もしかしてぜんぜん寝てないのぉ?」
俺の顔を見るなり酷く驚いたムラサキ警部は、茶色いショルダーバッグから丸い手鏡を取り出して俺の真ん前に突きつける。そこには見慣れない男が映り込んでいた。べコリと窪んだ眼球周りとカサカサに乾いた唇。両の頬もひどく痩せこけている。顔色も青褪めていて…もはや亡霊のようだ。
「あ。いや…寝たはずなんですけど…ね。(精神的にヤバいのかな?俺…)」
「獅子くんねぇ?今スゴい心配事を抱えてるみたいなんですよねぇ。」
「ほらほらウズメ?降りてきたらあきまへんやろ?。レオさん?紫さんに聞いてもろぉたらどないどす?。ウチらには話しにくい事なんやろぉ?。ほらぁ、うずめはこのお菓子を持って上がりなはれ。お風呂入りよし?」
俺の異常さに既に気づいているカノエさんとうずめちゃんは、突然に窶れた理由を察しているみたいだ。しかし閉店間際になっても話そうとしない俺を見かねたのだろう。隠し事を聞き出すことに関してプロである女性警部に任せようと席を立った。かのえさんは厨房の奥に入り妹さんは二階へと渋々上がってゆく。俺は酷く重苦しい空気を撒き散らしていたらしい…
「え?。あ。……で…でも。……仕事で疲れてますよね?ムラサキさん。」
「今のキミと比べたら、アタシの方が元気ハツラツよ?。ママちゃん、生をひとつ頂戴?。それと…おまかせ焼きを〜って。焼ける?獅子神くん。」
「あ、レオさんはお隣に座って。あとはウチ一人で充分やから。ね?」
この店に係る三人の女性が、俺のことをこんなにも心配してくれている。俺が姉に、姉の浮気に振り回されているばかりに、とんでもなく迷惑をかけている様だ。いつもステキな微笑みを浮かべているカノエさんでさえ、その微笑みを忘れてしまっていた。そしてオレ自身も気分が沈んでいる…
「……はい。…それじゃ、お言葉に甘えます。……え〜と。何から話せば…」
「あ、ちょっと待って。…ありがとう〜ママちゃん♪。…ぐっ。ぐっ。ぐっ。ぐっ。ぐっ。……ぷはぁあああっ!くぅーーーっ!沁みちゃうーっ!」
「は…ははは。…本当に旨そうに呑みますよね。ノンアルコールなのに…」
彼女は手渡された霜降りな大ジョッキを、待ってましたとばかりに豪快に煽ってみせた。ジョッキの半分くらいを一気に喉に流し込むと、堪らんとばかりに破顔する。しかし刑事とゆう職業に対する向き合い方からか、頼むのはいつもノンアルコールだ。…ムラサキ警部の生真面目さが覗える。
「…ん〜?。ふふふっ。雨に打たれた子犬みたいな顔をして〜♡。…憶測だけどぉ〜。キミが一番信頼してた人にでも裏切られたのかなぁ?。もっと言うなら大失恋した男の顔になってるわねぇ。ありがとママちゃん♡。ぱく。…もぐもぐもぐ。んー美味しー♪ここの焼き鳥は癖になるわぁ♪」
「う。(また図星だ。ってゆうか核心をモロに突かれてるし。…俺ってそんなに分かりやすいのかなぁ?。…ってゆうか流石は刑事さん…かな…)」
今日はずっと心の一番深い所を見透かされているようで気持ちが悪い。そう言えば姉ちゃんにも似た感覚を覚えたことがある。俺が高1の時に2年の女子に告白された時だ。その先輩は真剣に…想いを打ち明けてくれた。
しかし告白されたその三日後に、突然ねぇちゃんに問いただされる。その女子と付き合うのか?本気で好きになれるのか?と。誰にも言わなかったし言えなかった初めての密会と告白された事実を、彼女はなぜだか全て知っていた。まるで俺の惑いを見透かしたかの様に気持ちを確かめられた。
「よし。悩める子犬ちゃん?場所を替えようか。…ママちゃんお勘定♪」
「え?。でも俺まだお店の片付けが。…え?。あ。か…かのえ…さん?」
「紫さん。レオさんの事、よろしゅうお頼み申します。レオさんも、この際なんやから悩みをぜんぶ吐き出すんよ?。また月曜日に…お疲れ様♡」
俺は場の雰囲気に圧される様に更衣室に向かう。また現実が訪れるのだ。とにかく焼き鳥を焼いてさえいれば、姉ちゃんの事を考えずに済んでいたのに、オーナーであるかのえさんに『お疲れ様』と言われてしまっては帰るしかない。忙しさに逃避していた現実に戻るしかなくなってしまった。
う。こんな泣き言を考えだしているとゆうことは…俺の心身は相当に弱っているのかも知れない。もう大人な姉とは姉弟に戻ったのだ。ましてや彼女は子供じゃない。しかしこの時間になっても連絡が取れない不安や焦りからか片頭痛が起きてきた。やはり俺はまだ…諦め切れていないらしい。
「はい。獅子神くん。乗って乗って♪。…あの二人には聞かせたくない話しなんでしょ?。明日はアタシも非番だし〜じっくり聞いてあげるわ♡」
「は…はぁ。(刑事さんなのにフェラーリなんて。…大金持ちなのか?…)」
「ちゃんと自己紹介しておくわね。あたしは紫華凛《ムラサキ・カリン》11月11日生まれのピチピチな23歳よ?。さそり座だけど案外とサバサバしてるから安心して?。え〜と。県警本部の捜査一課所属、第三捜査班の班長なの。まぁザックリとこんな感じ♡。階級は知ってるわよね?」
にこやかに自己紹介したムラサキ・カリンさんが、突然にアクセルを踏み込んだ。跳ねるようにして車が走り出すっ!。さすがはイタリアが誇るスーパーカーだ!俺の上半身は一気にシートに圧しつけられた!。そうしている間にもグングンと加速してゆく!。一気に狭くなる視界に恐怖さえ覚えた。カーブを曲がるたびにタイヤの悲鳴が聞こえる。これは流石にっ!
「に、23歳で警部だなんて…凄いんじゃないんですか?。(…誕生日が俺と同じ?。まぁ、偶然だよな。…それにしても運転が!かなり荒いぞ?)」
「あー。あたし怠け者の方の天才なのよ♪。14歳で高校出てるし、警察大学も2年で卒業したわ。まぁ世界にはもっと凄い天才がいるけどね♡」
「は?。そ、そうなんですね。(うおお!?。まだ加速するのかっ!?)」
その車高がやたらと低いガルウイングなツーシーターの高級車は、まるで路面に吸い付くようにして複雑に入り組んだ街道をスイスイ抜けてゆく。三点締めなシートベルトのお陰で横揺れはしないのだが、クビがヤバい!
右側の助手席に座る俺は、その加速感とキレよく曲がる時の遠心力に翻弄されながらも、なんとか耐えていた。視線の高いローライダーに慣れているせいか、フロントガラス越しに見える路面が迫るようで酷く恐ろしい。
「ふぅん。お姉さんってあたしと同じ誕生日なのねぇ。…そしてその金曜日の深夜から彼女と連絡が取れなくなった…ってことかぁ。…それで?」
招かれた彼女の部屋は俺の想像以上に広がった。真っ白い壁に映り込む背の高いスタンドの淡く柔らかい光。天井に埋め込まれた直接的な灯りは点けずに、ゆったりとムーディーな雰囲気に満ちている。大きめな背凭れのついたソファーに深く腰掛けているムラサキ警部は、甘い大人の女性の色香を溢れさせていた。向かい合って座っている俺はつい緊張してしまう。
「ええ。電話をかけたら…タイミングが悪かったみたいで切られました。その後は電源が落とされたままで…今も連絡が取れません。…これは俺の邪推ですけど…今も誰かと一緒にいるんだと思います。…たぶん男と…」
街の中心地に近い歓楽街にある焼き鳥かのえから、加速と急ハンドルを繰り返した真紅のフェラーリが約十分で辿り着いた高台の高級マンション。ここから街までは20キロ近くあるのになんて速さだ。しかもその街の輝きを絵画のように眺められる壁一面の窓。やはりこの女刑事さんは大金持ちらしい。フェラーリを停めた駐車場にも他国籍な高級車が並んでいた。
「つまり…普段は清楚なお姉さんが彼氏とお泊りデートしているのが許せなくて、ひとりで勝手にモヤモヤしてた訳ねぇ。ん〜。…ね?お姉さんの電話番号を教えて。…最後にどこで電源が落とされたのか調べてあげる。」
「え!?…姉の電話番号はコレですけど。そんな事ができるんですか?」
「あのね?獅子神くん。お姉さんが催涙スプレーや公認スタンガンでいくら武装していても、彼女はか弱い女の子なの。…最悪のケースも考えておくのが常識なのよ?。…………。あ、アタシ。今から送る電話番号の最終地点を探して。……電源が切られたのが12日の午前1時30分くらい。……そう。……どれくらいかかりそう?。………うん。…それじゃあヨロシク…」
部屋は…言うまでもなくバカ広い。テレビ番組で見る『お金持ちさんのお屋敷訪問』そのものだ。俺と姉が暮らす二階建ての戸建てがとてもショボく思えてしまった。玄関やリビングなんて俺んちの軽く倍はあるだろう。
真っ白なオープンキッチンに、見たことも無い大きさのダブルドアな冷蔵庫。表面には液晶画面まで付いている。床は全て黒や白の大理石で埋め尽くされ、仕切る壁などまったく見当たらない。こうゆうのを億ションとでも呼ぶのだろうか。もはやリゾートホテルばりの超高級感に溢れていた。
「……警部の権限って…凄いんですね。(刑事って本当は儲かるのかな?)」
「そうでもないのよ?。いま電話した相手は〜アタシのカラダ目当てなゲス野郎。このマンションに引っ越す前に散々口説いてきたわ。だから利用してやってるの♪。その気もない相手に付き纏うのはストーカーだし♡」
「…付き纏われたことを逆手に取ったんですね?。…流石です。ははは…」
帰宅するなり着替えたムラサキ警部の服装は、もはやギリシャ神話に出てくる女神のようだった。天の羽衣のように透けたシルクの長い帯を、妖艶な裸体に巻いているだけにしか見えない。しかし隠すべき所はちゃんと隠れているので何とか見ていられる。色っぽさよりも…美麗さが際立った。
「そうそう。獅子神くんは笑っている方が素敵よ?。さて、けっこう時間がかかるそうだからぁ〜お風呂にでも入りましょう♪とうぜん一緒に♡」
「……………え?。一緒にって?。………男ですよ?………オレ。」
「んー?知ってるわよぉ?。だから入るんじゃない♡。…これはギブ・アンド・テイク。国家権力を操れるアタシが獅子神くんのお姉さんを探してあげる代わりに、獅子神くんはアタシを癒やしてくれればいいのよ♡」
「ぎぶ・あんど・ていく。…ですか。…少し考えさせて下さい。(確かに俺だけじゃ姉ちゃんを探せない。それに…紫さんが言うように何かしらの事件に巻き込まれていたとしたら。…やっぱり俺だけじゃ何もできない…)」
「そう。それじゃバスタブにお湯が溜まるまでに決めてね?。ふんふんふ〜ん♪。そうだバスタオル。取って置きのを下ろしちゃおうっと♡」
ゆったりと大きい薄茶色のソファーから徐ろに立ち上がったムラサキ警部が、モンロー・ウォークよろしく、ガラス張りな部屋の入口へと向かってゆく。解かれた青艶な髪は背中を覆うほどに長く、その錯覚からか括れからお尻への曲線が酷く艶めかしく見えた。後ろ姿も極めて美しい女性だ。
しかし俺は絶望的に苦悩する。DMに既読が付かないだけで怯え、電話を切られたことに強烈な衝撃を受けた。そしてスマホの電源を切られた時、俺は憤慨し嫉妬した。俺が愛する義姉は、今も側にいる男との時間を大切にしている。男と深く繋がり、快感に身悶えている最中にかかってきた野暮な電話など拒否して当然、快楽の余韻に浸るために電源も切るだろう。
そう邪推した時の俺の胸は強烈に掻き毟られ、深く抉られ、酷く無惨に…斬り刻まれた。そこには強い嫌悪さえあったと思う。しかし今の俺は、消えた獅子神桃華を見つける為に、自分の想いさえ裏切ろうとしている。そこに愛情など無くとも、姉ちゃん以外の女性の素肌に触れるのは裏切り以外の何物でもないはずだ。しかし今の俺では桃華の現在地さえ掴めない。