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エドガーをテントの奥へ寝かせると、野営地は急に“戦闘が終わった場所”の顔をした。
血の匂い。焦げた石。折れた矢。ランタンの灯りだけが、やけに現実的に揺れている。
ミラは立ち尽くしたまま、ゆっくり振り返った。
布の上に仰向けのオットー。添木代わりの弓が脚に括りつけられていて、ありえない角度を“無理やり正しそうとしている”のが痛々しい。
「……オットーの怪我、どうしよう。私の加護で治そうか?」
その言葉に、ダリウスがすぐに反応した。
振り向いた目がミラの石化した頬に止まり――ほんの一瞬だけ表情が曇る。悲しみを押し込めるみたいに、口角が固くなる。
「ダメだ」
きっぱりとした声。
でもその強さは、拒絶じゃなくて、守るための強さだった。
ダリウスはまっすぐミラを見つめ、言い直すように続ける。
「ミラの力は――“今”使うべきじゃない」
ミラは反射的に唇を噛んだ。
“今”じゃない。
じゃあ、いつならいいの。
そう言いかけて、喉の奥で引っかかった。
オットーが、唯一まともに動く左手をひらひらさせた。やけに軽い仕草なのに、脂汗で濡れた顔が全部を暴露している。
「もんだいねぇよ……ポーション飲んで、そうだな……この怪我だったら、二、三日でとりあえず歩けるようになる」
冗談みたいな口ぶり。
でも声の端が、痛みで少しだけ震えていた。
ダリウスは顎に手を乗せ、短く考える。戦闘中の指揮官の顔に戻っていた。
「この先、セーフエリアも近い。歩けるようになったら、そこで治癒師に見てもらおう」
決定。
それ以上の議論は要らない、という感じでもあった。
ミラは頷いた。
頷いたのに、胸の奥がざらつく。
助けたい。今すぐ。
ミラは石の頬をそっと指で触れた。冷たい。硬い。
その感触が、決意を削るみたいで怖かった。
*
三日後――五十一階層。
石段を上り切った瞬間、空気が変わった。
湿った洞窟の匂いでも、血と鉄の混ざった戦場の匂いでもない。焦げた粉塵の代わりに、焼き立てのパンと油の香りが鼻をくすぐる。
レンガ造りの街並みが、視界いっぱいに広がっていた。
背の高い建物は五階ほどまで積み上がり、窓からは洗濯物がはためく。大通りには露店が並び、ホブゴブリンが肩に木材を担いで行き交い、リザードマンの店先ではゴブリンが真剣な顔で食材を選んでいた。
そして――スライムが、どこにでもいる。ぷるぷると身体を揺らしながら、まるで当然の“街の仕事”みたいに地面を磨いている。
活気。
人の声。
生きている場所。
ダリウスは、思わず呆けたように町を見回した。
「……試練の間じゃない……」
その言葉を、オットーが長い息で受け止めた。吐き出す息に、痛みの残滓と安堵が混ざっている。
「ついに来たか」
エドガーは細めた目で、遠くの看板や路地の奥まで観察してから、ぽつりと落とす。
「……長かったような、短かったような」
言い終えると、三人は言葉を要らないものとして置いた。
拳を軽く合わせ、肩が触れる距離に寄る。
ここまでの“全部”が、その一瞬に詰まっていた。
「えっ、なに? どういうこと!?」
ミラだけが、置いていかれたみたいに目を瞬かせる。
右頬の石化が、光を鈍く弾いた。
ダリウスはミラを見て、少しだけ笑う。疲れの底に残った、隊長の顔。
「ダンジョンのセーフエリアが変わるってことはだな――」
オットーがわざとらしく力瘤を作る。治りかけの身体でやる動作じゃないのに、あえてやる。
「最後のボス部屋の前ってことだ」
エドガーは微笑んで、いつもの調子を取り戻したふりをした。
「最後に休憩させてあげようという、ダンジョンのありがたい優しさですよ」
ミラは「優しさ?」と口の中で反芻した。
*
まず彼らが向かったのは、宿でも店でもなかった。
SOMAMON7A
19
#仲間
虹雲 彩花
106
#恋愛
ばたっちゅ
4,526
23
埋葬だった。
街外れ、土が柔らかい場所を選び、ダリウスがシャベルを握る。レンガの街を背に、土を掘る音だけが続く。
淡々としているのに、土の一掬い一掬いが重い。
「……このくらいだな」
穴が整うと、エドガーとオットーが布包みを慎重に抱え上げる。
乱暴に扱えば、何かが壊れてしまう気がした。壊れるものなんて、もう残っていないのに。
静かに、奥へ。
ダリウスがミラへ視線を送る。
「ミラ、祈りを頼む」
ミラは短く息を吸った。
いつもの彼女なら、もっと勢いで返事をしただろう。だが今は、声が落ち着いている。落ち着かせている。
「……わかった」
まだ動く左腕で、女神のネックレスを握りしめる。
石化した頬が、祈りの言葉を邪魔するみたいに冷たかった。けれど彼女は目を逸らさない。
「女神よ、命をめぐらせる大いなる輪の中へ、この魂を還し給え。
風となり、土となり、星の光となって――この世界を静かに見守る存在となりますように。
別れは終わりではなく、ただ形を変えるだけ」
言葉は澄んでいて、よく通った。
泣き声の代わりに、祈りがそこに立った。
ミラが、静かに言う。
「……終わったわ」
エドガーは一歩下がって、深く礼をした。
「ありがとうございます」
沈黙が落ちる。
風がひとつ、土の匂いを運ぶ。
その沈黙を割ったのは、オットーだった。
やけにぶっきらぼうで、やけに優しい声。
「……飯にでもするかぁ」
ダリウスは、その意図を分かっている顔で頷く。
「……そうだな」
泣く代わりに、食う。
祈る代わりに、腹を満たす。
それが彼らの、前へ進むやり方だった。
レンガの街の喧騒が、少しだけ近づいた。
*
リザードマンの料理屋は、街の角にくっつくように建っていた。
煉瓦造りの壁は年季が入っていて、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、素の赤が覗いている。なのに薄暗さはなく、店内は熱と匂いと声でぱんぱんだった。
鉄鍋が鳴る。
皿がぶつかる。
笑い声に言い争いの声まで混ざって――それが全部「生きてる音」だった。
「お、ここ当たりだな」
オットーがそう言った瞬間、ちょうど運ばれてきた。
ペンネ。
湯気の向こうで、ソースがつやつやと光っている。粗挽きのひき肉がごろりと残り、刻んだパセリが緑の針みたいに散っていた。香りだけで、胃が勝手に口を開ける。
ミラは目を丸くして、思わず大きく口を開けた。
「わぁ……!」
そして慌てて、右手に装具をつける。まだ慣れない動きでも、食べるための準備だけは誰より速い。
オットーはジョッキにワインを注ぎながら、にやりとする。
「なかなか美味そうだな」
全員がフォークを突っ込み、口に放り込んだ瞬間――
最初に走ったのは、パセリの青い香りだった。舌の上を軽く駆けて、次にひき肉の旨みがどっと押し寄せる。脂は重くない。煮詰めた甘みと塩気がちょうどよく、噛むほどに「肉を食べてる」手応えが増していく。
ペンネの茹で加減がまた絶妙だった。
歯を入れると、外はつるりと弾むのに芯がふっと残る。そこでソースが絡みつき、あとから――深い、渋い甘さが顔を出す。
赤ワインだ。
それも、隠し味というより“裏でずっと支えてる”やつ。香りがほんのり鼻へ抜けて、味の底を太くしていた。
ミラは立ち上がりそうな勢いで、地団駄を踏む。
「んーーーーー! これはおかわり確定だよ!」
その明るさに、エドガーの胸が、なぜかチクリと痛んだ。
理由はわからない。わからないのに、痛みだけが確かにそこに残る。彼は笑うふりをして、フォークを持つ手に力を込めた。
ダリウスはナプキンで口を拭きながら、いつもの調子で釘を刺す。
「あまり食べすぎるなよ?」
ミラは口いっぱいに頬張ったまま、勢いよく頷いた。
――説得力は、ゼロだった。
*
食後。
皿が下げられ、店の喧騒が少しだけ遠のいたころ――オットーが、席を立ちかけるウェイターのリザードマンに声をかけた。
「すまねぇ。グラスを三つ……いや、四つくれ」
真剣な目だった。冗談の入り込む余地がない声だった。
リザードマンが無言で頷き、すぐに厚手のグラスを運んでくる。
オットーはそれを受け取ると、迷いなく四つ並べ、ボトルを傾けた。赤い液体が、ゆっくりと底を満たしていく。
エドガーがため息まじりに肩をすくめる。
「オットー。お酒は一日二杯までですよ」
「そうだぞ」
ダリウスも少しだけ眉をひそめた。苛立ちというより、疲れと気遣いが混ざった顔だ。
「ミラは神学校の生徒だろ」
だがオットーは、注ぐ手を止めなかった。
低い声で、きっぱり言う。
「わかってる」
そして、息を吐く。
「でもな。けじめをつけなきゃいけねぇ」
その言葉が落ちた瞬間、卓の空気が変わった。
誰も、続きを急かせなかった。外の喧騒がまた遠くなる。ここだけ、別の時間が流れ始めたみたいに。
オットーはミラの方へ視線を向け、頭を下げるほどの勢いで頼んだ。
「ミラ。少し口をつけるだけでいい。……付き合ってくれ」
ミラは意味が全部わかったわけじゃない。
でも、オットーの声が“遊び”じゃないことだけは、痛いほど伝わった。
「……うん」
短く返して、グラスに手を添える。
オットーはグラスを掲げた。
その手は、もう震えていなかった。戦いのあと特有の、妙に静かな強さだけが残っていた。
「――ジェリーに」
名前が出た瞬間、空気が薄くなる。
そこにいた三人が、同じ“顔”を思い出す。胸の奥が熱くなる。
ダリウスも、ゆっくりとグラスを上げた。
「……タッカーに」
その声には、勝ち誇りはなかった。
ただ、“生き残った”という安堵と、“やっと返せた”という静かな嬉しさが沈んでいた。
エドガーは二人を見て、それから、少しだけためらって口を開く。
「……エリーも……いいですか?」
オットーが、まっすぐに見返す。
迷いのない目で、うなずいた。
「当たり前だ」
エドガーは、ほんの少しだけ微笑んで――グラスを上げる。
「……エリーに」
「乾杯」
四つのグラスが、軽く触れ合う。
高い音じゃない。小さくて、優しい音だった。
エドガー、ダリウス、オットーは、一息で飲み干した。
ミラは小さく口をつけるだけで、そっと戻した。義務じゃなく、“参加”の仕方を選んだ。
しばし、沈黙が流れる。
その沈黙は、重くなかった。
戦いのあとにしか来ない、やり切った人間の静けさだった。
血と叫びと痛みが、ようやく体の外に出ていくまでの、短い休憩。
オットーは空になったグラスを見つめて、ぽつりと言った。
「こんなに美味い酒は……もうないぜ……」
嬉しいからじゃない。悲しいからでもない。
両方が混ざって、どっちとも言えないからこそ、そう言うしかなかった。
ダリウスはグラスの縁を指でなぞりながら、静かに頷く。
「……そうだな」
エドガーも無言で頷いた。
胸の奥が痛い理由は、まだ言葉にならない。けれど今は、痛みを“痛み”のまま置いておけた。
オットーはグラスから目を離さず、低く確かめるように言った。
「俺たち……やったんだよな。魔神を」
それは勝利宣言じゃなかった。
“あいつがいない世界が、今ここにある”という確認だった。
タッカーとジェリーの背中に、ようやく追いつけた気がした。
エドガーが、優しく笑う。
「えぇ。帰ったら英雄譚でも作りましょう」
その言い方が、妙に真面目で、妙におかしかった。
ダリウスが小さく笑う。
「なんだよそれ」
――そこで。
沈黙の横で、別の戦争が起きていた。
ミラが床を叩き、水に手を伸ばし、ガブガブと飲んで口を洗い流す。
舌に残る苦味。喉が熱い。目が涙でうるむ。
「ゔぇえええ……! オットー、これ毎日飲んでるの? 苦行だよ!」
オットーは、ようやく“いつもの顔”に戻って、にっこりする。
「ミラには少し早かったか。大人の嗜みだぜ?」
ミラは四つん這いのまま、睨むように言い返した。
「信じられない! こんな苦行の上に痛風になるんでしょ!?」
ダリウスが笑って、ミラに手を差し出す。
「ミラもそのうちわかるさ。もう少し大きくなって、卒業したら――また乾杯しよう」
ミラはその手を取って立ち上がりながら、まだ顔をしかめている。
でも、その目だけは少しだけ柔らかかった。
――仇は討った。
だから、笑える。
だから、静かに泣ける。
グラスの底に残った赤い光が、卓の上で揺れていた。
*
料理の皿が下げられ、一息遅れてコーヒーが運ばれてきた。
深煎りの香りが、店の喧騒に薄い膜を張る。四人は黙って口をつけた。熱と苦みが、ようやく現実を身体に戻してくれる。
ダリウスが意を決したようにカップを置く。
「エドガー。……あの“記憶を戻す薬”。使わないか?」
エドガーも同じようにカップを置いた。指先が、ほんの少しだけ震えている。
「残しましょう。最後のボスがいます。……“もしも”のために、取っておくべきです」
「今がその“もしも”じゃねぇのか?」
オットーは椅子に深くもたれて、頭の後ろで手を組んだまま言う。いつもの軽口に聞こえるのに、目だけは真面目だった。
ミラはスプーンをいじりながら、言葉を探すように視線を泳がせる。うまく言えないのが悔しい、という顔で。
「……そうだよ。きっとエドガーにとって、すごく大切な人なんだと思う。思い出したら……もっと苦しくなるかもだけど」
エドガーは返事をしなかった。できなかった。
ただ、コーヒーの表面に映る自分の顔が、他人みたいに見えた。
ダリウスはふっと笑って、テーブルの上の小さな瓶――琥珀色の液体を、指で押してエドガーの前へ寄せた。
「お前に任せるよ。……だから、薬だけは持っておいてくれ」
押しつけじゃない。逃げ道もある言い方だった。
それが余計に、胸に刺さる。
エドガーはしばらく瓶を見つめてから、そっと手に取った。
「……わかりました」
短い返事。けれど、受け取った重みはずしりとした。
ダリウスが、場を切り替えるみたいに手をパン、と叩く。
「よし。となれば、あとは宿だな。オットーの怪我の回復もあるし、しばらくここに滞在しよう」
「賛成。俺は治癒師のとこで泣いてくる」
オットーが言って、ミラが一瞬だけ笑う。
笑った直後、なぜか少しだけ目を伏せた。
会計を済ませて店を出ると、レンガの街の空気は夕方の匂いがしていた。
ダリウスはオットーを連れて治癒師のもとへ向かい、エドガーとミラは早めに宿へ戻る。
別れ際、エドガーはポケットの中で瓶を握った。
ガラス越しに、琥珀色の液体が揺れる。
――まだ飲まない。
でも、もう手放せない。
そんな顔を、ミラは横目で見ていた。何も言わず、歩幅だけ少し合わせて。