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『赤ずきん』
森に入る前、母は言った。
「決して、振り返ってはいけないよ」
赤ずきんは瞬きをする。
その言葉は、どこか場違いで、微かな違和感を残した。
いつもと違う。
いつもは、もっと普通の注意だったはずだ。
「どうして?」
そう聞こうとして、やめた。
母の手が、わずかに――だが確かに震えていたから。
「……行ってきます」
母は頷かなかった。
ただ一点を、じっと見つめていた。
赤ずきんではない。
その、少し後ろを。
森は、静かだった。
その静寂は、音がないのではなく――
音が“消されている”ような、不自然さを帯びていた。
一歩踏み出すたび、鳥が黙り、風が途切れる。
その中で、自分の呼吸だけがやけに鮮明に響く。
――ひとつでは、なかった。
赤ずきんは立ち止まる。
振り返りかけて、動きを止めた。
「決して、振り返ってはいけないよ」
理由は分からない。
それでもその言葉は、水底に沈む泥のように重く、心に絡みついて離れなかった。
赤ずきんは再び歩き出す。
不安を振り払うように。
不安に、気づかないために。
道の脇に、見たことのない花が咲いていた。
近づくと、わずかに揺れる。
風は、吹いていない。
しゃがみ込み、触れる。
その瞬間。
花は、内側に閉じた。
指先に残る、柔らかい感触。
――舌のような。
「寄り道か」
声がした。
すぐ、後ろから。
静寂が重く沈む中、赤ずきんの体がわずかに強張る。
「振り返らないのか」
吐息が触れそうな距離。
それなのに、存在は薄い。
赤ずきんは前を向いたまま答える。
「……おばあさんの家に行くの」
沈黙。
やがて、低い笑い声。
「そうか。じゃあ――」
言葉は、途中で途切れた。
まるで、何かに口を塞がれたように。
それきり、何も聞こえなかった。
足音も。
呼吸も。
――二つあったはずの呼吸も。
歩き続ける。
やがて、違和感に気づく。
同じ景色を、繰り返している。
折れ曲がった木。
裂けた幹。
踏み潰された白い花。
――さっき、触れたものだ。
足元を見る。
自分の足跡がある。
そのすぐ横に。
もう一つ、同じ形の足跡が、ぴたりと重なっていた。
祖母の家が見えた時、赤ずきんはようやく息をついた。
けれど、その安堵は――わずかに遅れて訪れた。
扉は、開いていた。
最初から、そうであったかのように。
「おばあちゃん」
声をかける。
返事は、すぐには来ない。
少し間を置いて。
「……よく、来たね」
近いはずの声が、どこか遠い。
部屋に入る。
床が柔らかい。
足が沈む。
まるで、土の上を歩いているようだった。
ベッドの上に、祖母がいる。
布団が、不自然に膨らんでいる。
呼吸は、見えない。
近づく。
「……どうして耳がそんなに大きいの?」
「お前の声を、聞き逃さないためだよ」
「どうして目がそんなに大きいの?」
「お前を、見失わないためだよ」
「どうして口がそんなに――」
言葉が、止まる。
祖母の口元が、わずかに開いていた。
その奥に。
赤い布が、覗いている。
見覚えがある。
――自分の、ずきんだ。
「気づいたか」
祖母の顔が、ゆっくりと歪む。
皮膚がずれ、肉が波打ち、下から別の形が浮かび上がる。
「あの時、振り返らなかっただろう」
その声は、背後からも聞こえた。
「だから、入れなかった」
理解が、遅れて訪れる。
森で出会った“それ”は。
前に来ることができない。
振り返った者の“中”にしか、入れない。
「だから、こうした」
祖母の口が、大きく裂ける。
「先に、別の中に入ってな」
その瞬間。
背後から、腕が伸びた。
首に、冷たいものが触れる。
「今度は、お前だ」
口が、開かれる。
声は、出ない。
喉に、何かが流れ込む。
冷たく、柔らかい。
――あの花と、同じ感触。
視界が歪む。
最後に見えたのは。
ベッドの上で。
“次の自分”が、静かに横たわっている姿だった。
数日後。
森の外れで、祖母の家が見つかった。
中には、二人いた。
一人は、眠る祖母。
もう一人は、赤ずきん。
「おばあちゃん、どうして耳がそんなに大きいの?」
そう言って、笑っていた。
喉の奥で。
赤い布を、ゆらゆらと揺らしながら。
今回もチャッピーに誤字などを修整してもらってます
過去作も読んでいただけると嬉しいです
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