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馴染みの女のもとへ忍んだ成明《なりあきら》は、そこで見た光景に打ちのめされていた。
まさか、自分の女が、他の男の腕に抱かれていようとは──。
屈辱と怒りを抱え、彼は牛車に揺られながら都大路を戻っていた。乗り心地はひどく悪い。心のざわめきが牛車の軋みと重なり、なおさら落ち着かない。
己にも非がなかったとは言えない。三月《みつき》もの間、便りの一つ、歌の一つさえ送らずにいたのだから。
面目が立たぬと嘆きつつも、成明は御簾の隙間から差し込む月明かりを、鬱陶しく思った。
その仄かな光に、風流など見いだせるはずもない。かえって胸の内をかき乱すばかりだった。
ふと、笛の音が聞こえる。
低く、哀しげに、どこからともなく響いてくる──夜の霧のように、静かに忍び寄るその音色は、耳の奥にひっそりと染み入る。
成明は思わず、御簾をそっと押し上げた。
月に照らされた都大路は静まり返り、ただその笛の音だけが空気を震わせていた。
「これは……」
都では近頃、夜な夜な笛の音とともに人が消えるという噂が広まっていた。鬼の仕業だと──。
笑い飛ばしていた話が、現実のものとして目の前に迫っているかもしれない今、背筋に冷たいものが走った。
声を上げようとするも、喉が詰まって声が出ない。
音は、まるで自分の周囲を取り囲むように響き始めた。車輪の軋む音も、その旋律にかき消されてゆく。
突然、牛が低く唸り、足を止めた。従者が鞭を振るうが、牛は一歩も動かない。
成明は堪らず御簾を跳ね上げた。
目に飛び込んできたのは、月光に浮かぶ細い影。
人のようで、人でない。どこか歪んだ輪郭をした影は、じっと彼を見つめているようだった。
笛の音が、一層高く、鋭く──耳をつんざく。
成明は叫んだ。
「牛を動かせ! 早く!」
しかし従者は答えない。目を白く剥き、腰を抜かし、魂を抜かれたように牛車の傍に崩れ落ちていた。
影は一歩、こちらへ滑る。
宙を漂うようなその動きに、成明は恐怖のあまり、牛車から飛び降りた。
逃げなければ──。
だがそのとき、いっそう笛が鳴り響いた。
よく見ると、影は、女だった。
良家の子女らしく、薄布を垂らした市女笠《いちめがさ》を被るその姿。顔は見えずとも、白く細い指が、笛を奏でているのがわかる。
「……何者だ……?」
成明の問いにも、女は黙したまま、笛の音を紡ぎ続ける。
その刹那、風が吹き荒れた。切り裂くような風が頬を叩きつける。
思わず目を閉じ、顔を庇う。風が止んだ時、成明が再び目を開けると──
そこにはもう、女も、牛車も、従者の姿もなかった。
彼は、見知らぬ広間に一人、置き去りにされていた。
(これは……何だ……)
腰が抜け、成明はその場に崩れ落ちた。
闇の中、ふと、白く仄かに光るものが視界に入る。
桜だった。
夜の闇に浮かぶように、白く、淡く輝いている。
それはまるで、月明かりのように、この空間を照らしていた。
花明かり──。
その光の下、再び笛の音が響く。
そして、女の声が囁く。
──妾《わらわ》を、見にこなんだからじゃ……妾を見るのじゃ……妾を……
声は嵐となり、桜の枝を揺らす。
突如として舞い上がる花吹雪が、成明を包み、目と耳と息を奪った。
「やめぃ──!」
叫んだ瞬間、風が止んだ。
気づけば、彼は牛車の中にいた。都大路を軋みながら進んでいる。従者は、何事もなかったかのように鞭を振っている。
「夢……だったのか」
成明は額の汗を拭い、ふと袖を見る。
そこには、一枚の桜の花びらが貼りついていた。
あの女は──桜の精か、はたまた己の不実が見せた幻か。
御簾越しの月が、静かに彼を嘲笑っていた。
(了)