テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ふと目に入った腕時計の表示にはっとして、私は矢嶋に告げる。
「もう戻ります。時間を浪費してしまったようなので」
我ながら嫌味な言い方をしてしまったと後悔した。けれど矢嶋が気にした様子はなく、そのことにほっとする。
もう行こうとドアノブを回しかけた時、彼が問いかけてきた。
「俺のこと、少しは好きになった?」
返答に迷い、私は言葉を探して黙り込んだ。
「なあ、どうなの?」
矢嶋は私の傍に立ち、重ねて問いながら私の体に腕を回した。
誰かが入ってくるかもしれないと思うのに、私は彼の手を振り払うことができなかった。彼の声に絡め取られて、動けない。
「違うって即答しないってことは、期待してもいいのかな」
矢嶋の声と、それと共に漏れた息が首筋を撫でた。
ぞくぞくとして、声がこぼれそうになり、私は必死でそれを止めようとした。
「お願い、離れて……」
ところが、彼はますます私に体を密着させ、耳元に唇を寄せて囁く。
「夏貴、答えてくれないの?」
「あっ……」
彼の声に抗えず、抑えていた声が洩れた。
私が反応を見せたせいか、彼はますます熱い吐息をまとわせて深い声で囁く。
「ほら、答えは?」
「んっ……」
私は唇を噛んで声を押し殺した。
その時、彼の胸元から携帯電話の着信音が聞こえた。
「なんだよ。いいとこだったのに……」
矢嶋は私を胸に抱いたまま、スーツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。今の今まで私に甘く囁いていたとは思えないほどの、きりりとした声で電話に出る。
「矢嶋です。はい、えぇ、今戻るところです。はい、はい。分かりました、すみません」
彼の通話中、私は息をひそめて固くなっていた。けれど、彼が携帯電話をポケットにしまったのを見た途端、足から力が抜けた。
矢嶋が慌てて私を抱き止める。
「おっと!」
私は彼の腕にしがみついた。全身に力が入らないのは、彼から受けた甘い攻撃のせいだ。
「大丈夫か?」
「矢嶋さんのせいなんですからね」
私は恨みがましい目つきで彼を見上げた。
彼は私の顔をしげしげと見つめ、満足そうに笑う。
「そうか、俺のせいか。そういう顔、絶対に他の男には見せるなよ」
「顔?」
「あぁ、溶けそうな顔してる」
「えっ」
溶けそうかどうかは知らないが、矢嶋に言われて初めて、顔が火照っていることに気がついた。
「み、見ないで下さい!」
顔を伏せる私の頭上で、矢嶋はくすくすと笑う。髪にキスを落としてから、私を抱いていた腕を解く。
「このままこうしていたいけど、行かなきゃ。次こそは俺を好きだって言葉、聞かせてくれよ」
彼は私の答えを待たず、ドアを開けた。
自分の席に戻るまではこの火照りも消えているはず、と思いながら、私は彼の後に続いてマスタールームを出た。
階段を降りて、一階と二階へとに別れる踊り場に差し掛かったところで、矢嶋を呼ぶ女性の声が階下から聞こえた。その声は矢嶋を下の名前で呼んだ。
「彬君!」
私はもやもやした気持ちになりながら、その声の方へ目を向けた。
アナウンサーの水沢がいた。長い黒髪を揺らして階段を登って来る。
やっぱり綺麗な女性だと目を奪われた。一方で、この人と自分との間にある大きな差に、愕然とするような思いを抱く。
彼女は踊り場まであと二、三段という所で足を止めて、矢嶋を見上げる。
「もう戻ってきたのね」
「その言い方、いきなり何ですか」
矢嶋の苦笑を受けて、水沢は肩をすくめる。
「だって、スタジオまで呼びに行ってあげようと思って、わざわざ仕事の手を止めて来たから」
「それは、ご足労かけてしまい、申し訳ありませんでした。で、水沢さん直々に私を呼びに来るなんて、何かあったんですか?」
「別に何かってほどじゃないんだけど……。局長が、彬君はまだ戻ってこないのか、ってうるさいから、仕方なく迎えに来てあげただけよ」
「局長からも、さっき直接電話がかかってきましたよ。あの人の至急は、いつだってたいした内容じゃないんですけどね」
矢嶋の皮肉に、水沢はその外見に似合わない、大らかな笑い方をする。
「あははは!確かにそれは言えてるね。でもね、至急ではないけど、仕切り直しが必要になりそうな話が出たみたいなの。取材予定だったお店から、やっぱり紹介するのをやめてほしいっていう連絡が入ったらしいのよ。そこのお店、彬君が取材で行くはずだった所みたいよ」
「え、そうなんですか」
矢嶋の眉間にしわが寄った。何か面倒事が起きたようだ。
二人が話し始めてから、私はその場から立ち去るきっかけを失っていた。わざわざ割り込むようにして、声をかけて行くのもはばかられる。だから私は足音さえも忍ばせて、静かにその場から離れた。
ところが矢嶋に気づかれた。
振り返った彼は私を見た瞬間、目を大きく見開いた。続いて、嬉しそうに笑う。何が可笑しいのかと怪訝に思う私に向かって、彼は声には出さず唇を動かす。
――嫉妬か。
彼の唇がそう言っているように見えて、私は動揺した。おかげで表情を取り繕えなくなる。
彼は微笑む。
「お疲れ様でした。また来週」
「お、お疲れ様でした」
おどおどと返す私に今一度目を当ててから、矢嶋は水沢を促して階段を降りて行った。
しばらくの間、私はその場から二人の背中を見送っていたが、水沢が話しながら矢嶋の腕に手をかけたところが目に入った。二人の親しげな様子に苛立つ。他の男に簡単に触れさせるなと言ったのは、どこの誰だったか。自分だって触れさせてるくせにと、すねた気分になった。
次いで、その理由に改めて気づく。
例え、水沢に婚約者がいて結婚が決まっていようとも、矢嶋の気持ちが自分にあることを知っていようとも、私もまた、自分以外の女性には彼に触れてほしくないと思っているのだ。
これは嫉妬だと自覚し、彼に降参するのはもう時間の問題かもしれないと、私は自分自身に苦笑した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#独占欲