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月曜日になっても熱は下がらず、仕方なく病院に行った。今年はインフルエンザの流行が早いらしく、検査をしたが陰性だった。
よく覚えていないが、俺はどうやらあきらの家から歩いて帰ったらしい。部屋着のスウェットに革靴を履いて。
そりゃ、熱も出すよな……。
喉が痛い。頭も。
俺は抗生剤を処方してもらって、家に帰った。
翌日も喉は痛かったが、熱は下がっていたから、出社した。
習慣とは恐ろしいもので、心ここにあらずでも何とかなる。
顧客の問い合わせに応対し、打ち合わせに参加し、発注書の入力をする。帰り際に思い出して、昨日の病欠に有給申請する。
お前がいなきゃ生きていけない、とか嘘だな。
なんて思ったりした。
失恋しても、腹は減るし、仕事は待ってくれないし、飲みにも行く。家に帰れば洗濯物は溜まってるし、埃も舞う。
それが、日常だ。
あきらはいないけど。
会いたくて苦しいけど。
寂しくて泣きたいけど。
それでも、スマホのアラームで目が覚めれば、身体は勝手に髭を剃って、コーヒーを飲んで、スーツに着替える。
いつか忘れられるのかな。
「この前は、すみませんでした」
三秒ほど考えて、思い出した。
坂上さんに告白されたんだった。
あの日から一週間。
俺は打ち合わせのために再びカフェ・リラックスを訪れていた。
「いえ。こちらこそキツイ言い方をしてしまって、すみませんでした」
俺はソファ席から立ち上がり、腰を九十度に曲げた。彼女が置いたテーブルの上のコーヒーの湯気が、鼻をくすぐる。
「そんな! 谷さんが言っていたことは……事実ですし……」
頭を上げると、彼女は目を潤ませていた。
失恋相手と平然と話せるようになるには、時間が足りないだろう。
「事実ですが、きれいごとを言った自覚はあります。俺だって、彼女が恋人と別れたら俺のものになってくれるんじゃないかって期待して待ってるんですから」
店内に客は数組いたが、わざわざ振り返って俺たちを見ている人はいない。いるのは、カウンターから同僚の様子を心配する店員二人だけ。
俺は彼女たちの視線から逃げるように、坂上さんに座るように促した。
「前に電器屋で会った時、一緒にいた女性ですか?」
「……はい。大学からの友人なんです。ずっと俺の片思いで。卒業してから連絡を取っていなかった時期には恋人がいたこともあったんですけど、彼女と再会したら、もう他の女性に興味を持てなくなってしまって。なので、たとえ坂上さんが待つと言ってくださっても、あなたの時間を無駄にするだけなので、ハッキリ断ろうと思ったら、必要以上にキツイ言い方になってしまいました。本当にすみません。お気持ちは、嬉しかったです」
ここまで言えば、後腐れなく忘れてくれるだろうと思って、言わなくていいことまで言った。
「本当に私のことなんて眼中にないんですね」と、坂上さんは痛々しい笑顔で言った。
「そんな、仕事の打ち合わせをするみたいに言われたら、女としてすら見られていないみたいで……。どう頑張っても無駄なんだなってわかります」
「すみません」
「大学の先輩後輩として、時々会ったり……もダメですか? 絶対、気持ちを押し付けたりしませんから!」
そう言うと、坂上さんはコーヒーを載せてきたグレーのトレイを胸の前でしっかりと抱え、俯いた。
涙を、堪えているのだと思う。
「好きな女に、誤解されるような女友達は作りたくないんです。それに、俺が坂上さんの立場なら、二人きりで会えば期待しないなんて無理なので、結局あなたの傷を広げるだけになると思います」
「そう……ですか。……そうですよね。すみません、しつこくして」
彼女は俯いたまま立ち上がり、ペコリと頭を下げて、カウンターの奥へと消えて行った。
「モテる男も大変だな」
背後からの声に、ハッとして振り返る。正確には、通路を挟んだ斜め後ろの席。
「千堂課長? 何してるんですか?」
ちょうど、入口に背を向けて、課長が座っていた。テーブルの上にはコーヒーらしきカップと、皿の上にはマフィンやスコーンが載っている。
「昼飯食い損ねたから、早めに来て食ってた」
「今日は無理そうだって言ってませんでした?」
「タイミングよく、時間が空いたんだよ。電話したけど、お前出ねーから、直接来た」
俺はジャケットの内ポケットからスマホを取りだそうとした。が、スマホは所定の場所にない。
そうだ。外出前まで机で充電していて、忘れそうになって慌てて鞄に放り込んで来たのだった。
今日は、一課の担当である千堂課長も打ち合わせに同席することになっていた。オープン記念のノベルティのマグカップにクッキーかスティックコーヒーを入れたいと言われたから。
俺が主任を務める営業二課は雑貨を扱っていて、千堂課長の一課は食品。もう一つの三課は美容品関係を扱っている。
「今食ったクッキー美味かったけど、賞味期限何日くらいかな」
千堂課長はカップと皿を持って、俺のテーブルに移動してくる。カウンターから坂上さんではない店員が出てきて、課長が座っていたテーブルを拭いた。
「谷」
「はい」
「打ち合わせ終わったら、飲みに行くぞ」
思いっきり酔いたい気分だった。
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