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翌日の土曜日。
今日は、斗希と二人結婚指輪を買いに行く約束をしていたけど。
「―――ごめん。
今日、仕事になって」
その言葉が嘘なのだと分かったけど、
私は、そう、と頷いた。
「ベーグルサンド作っておいたから、
今でも、昼でも好きな時に食べて」
朝、起きてリビングに行くと、斗希はそう言って、身支度を始めた。
これ以上、私と話したくないと言うように。
それは、斗希が私に対して怒っているからではないとは思う。
いや、私が川邊専務の奥さんの梢さんに、あの音声を送り付けた疑いは晴れてないから、疑心感はあるだろうけど。
なんとなく、昨日の今日で、
二人で楽しく指輪を選びに行く気分に、私も斗希もなれなくて。
仕事が嘘だとしても、そうやって言ってくれて、このマンションから出て行ってくれて、ホッとしている。
斗希は、一刻も早く外に出たいのか、身支度を整えたら、すぐに出て行った。
それが、朝の8時前で。
私は何もせず、リビングのソファーに座り、テレビを付けた。
一時間程呆然とテレビを眺めた後、本でも読もうか、と立ち上がる。
昔からそうだけど、辛い時は本の世界に入り込み現実逃避をする。
自分は、加害者だと分かっている。
だから、その辛さを受け入れないといけないと思う。
けど…。
夕べ、あの後ずっと梢さんの苦しそうな顔が頭から離れなかった。
今も、その事に追い詰められて苦しくなる。
私は、斗希の部屋の扉を開けた。
その瞬間、息を飲む。
部屋の中は、滅茶苦茶に荒れていて。
散乱した本や物で、足の踏み場もなくて。
それは、斗希の心の中を現しているようだった。
私も斗希も今苦しいのは、何も罪もない人達を傷付けて。
その事に、私達が苦しいなんて思う事は、筋違いなのも分かっている。
だけど、苦しくて――…。
リビングに、機械的な音が響いた。
それは、一般的なチャイムの音とは違うけど、来客を知らせるもの。
私は、リビングにあるインターホンのモニターに近付き、確認する。
そこには、女性が写っていて。
歳は30歳くらい?
第一印象は、派手だな、という印象。
「はい」
私は迷いながらも、応答した。
『斗希さんの奥さん?
斗希さんは?』
斗希の知り合いなのだろうか?
「斗希は仕事ですけど」
本当に仕事かどうか分からないけど。
それも伝えた方が、いいだろうか?
そもそも、知り合いなら、携帯の番号くらい知っているだろうし、
斗希に連絡してないのだろうか?
『そう。
ねぇ、斗希さんの事で奥さんに話があるんだけど。
部屋に入れて』
そう笑う顔は、斗希が仕事で居ない事を知っていたのではないだろうか?
この人の用があるのは、私?
「―――分かりました」
私は、エントランスのオートロックを解除した。
その女性は部屋に入ると、
へえ、と見回している。
「斗希さん弁護士になって、けっこういい所住んでるんだ」
そう言う感じ、斗希の知り合いではないのだろうか?
知り合いは知り合いなのかもしれないけど、さほど親しくない間柄なのか。
「斗希の浮気相手…ではないのですか?」
その言葉に、その女性は、え、と驚いていた。
てっきり、この人が此処に私に会いに来たのは、斗希と離婚しろとか、その類いの事かと思っていた。
それについて私はどう答えようか考えていたが、特にその必要はなかったみたい。
「ねぇ、その首の痣みたいなの気になってたんだけど、
あなた斗希さんに暴力でも振るわれているの?」
その手が伸びて来て、私の首に触れると、少し痛みを感じた。
それに気付いたのか、その女性は、ごめんなさい、とその手を引っ込めた。
「この部屋に入る前に、二人の人間に電話したの。
今すぐに、二人一緒に此処に来いって。
一人は、あなたの旦那の斗希さん。
今すぐに戻るって言ってたけど、本当に今日仕事だったの?
スーツで出掛けたみたいだけど」
そうクスクスと笑っている。
その言葉を聞く感じ、このマンションから斗希が出て行ったのを、見ていたのだろうか?
そして、その笑い方は、まるで斗希が仕事だと嘘付いて愛人にでも会いに行っているのでは?と言いたげで。
けど、もしかしたら、そうなのかもしれない。
今の斗希は、慰めや癒しが欲しくて、誰か女性に会いに行っていたのかもしれない。
色々知りすぎている私よりも、何も知らない女性と、何もかも忘れたように時間を過ごしたいのかもしれない。
「あの、二人って言いましたよね?
斗希以外にも、誰か呼んだのですか?」
それもそうだけど、そもそも、何の用事でこの女性は此処に来たのだろうか?
斗希の浮気相手では、ないみたいだし。
「もう一人は、北浦篤」
一瞬、それは誰かと考えたが、
川邊専務の事かと思い当たる。
そして、斗希とそうやって一緒に呼ばれた人間は、やはり川邊専務なのだと思った。
「私ね、あの二人と地元ってか、中学が一緒なんだ。
学年は違うんだけど。
だから、二人の噂は、大人になってからもちらほら耳に入って来んの。
あいつら地元では有名人だったから。
あの篤さんが実は父親が金持ちで…、とか。
斗希さんは、弁護士になっているとか。
最近も、篤さんの秘書と斗希さんが結婚したって。
あ、それは興信所が教えてくれたんだけど」
そう言って私を見ながら笑っている目に、
背筋がゾクリとして。
逃げないと、と頭の中で警笛が鳴る。
その女性は、持っていた鞄の中から包丁を取り出し、私に向けた。
鞄が床に落ちる音がするけど、私の視線は、包丁の刃に向く。
「斗希さんと篤さんに、来ないとあんたを殺すって言ったの。
早く来ないと、本当に殺すからって」
「なんで、斗希や川邊専務に…。
あなたは誰なんですか?」
包丁の刃の光が目映くて、恐怖で声が震える。
「結衣さんだっけ?
私は、寧々(ねね)」
「寧々…さん…」
「私ね、昔、AVに出たの。
あ、その作品は問題があって、結局は発売されなかったんだけど」
その、AVに出た事と、斗希や川邊専務は関係あるのだろうか?
ふと、前に斗希が言っていた川邊専務の過去の話を思い出した。
“ーーAV関係のモデル事務所とか怪しげな会社で働きだしてーー”
「あの二人のせいで、私の人生は滅茶苦茶。
滝沢斗希と北浦篤、この二人を私は許さない!」
目の前の寧々さんの目には、蒼い炎のような怒りが滲んでいて。
その恨みの深さを感じる。
「ねぇ、聞かせてあげる。
あなたの旦那の滝沢斗希が、どれ程最低な男なのか」
そう言って、寧々さんは昔の事を話し出した。
◇
《寧々side》
私が斗希さんに会ったのは、中学に入ってから。
私が一年で、斗希さん達が三年生で。
斗希さんは前期の生徒会長をしていたのもそうだけど、
その恵まれた容姿と学年一の秀才で、校内で彼の事を知らない人が居ないくらいに、目立っていた。
そして、その斗希さんの横には、いつも北浦篤という、校内一の不良が居た。
それは、夏休み。
夏休みに入る少し前から、私の二つ年上の姉、奈々(なな)が、
斗希さんの親友の北浦篤と付き合い出した。
それで、一度だけ、
私は斗希さんと話す機会を持った。
その場は、有名なファストフード店。
四人掛けの席、姉と篤さんが並んで座り。
その向かい、私と斗希さんが並んで座る。
私は、学園の王子様のような斗希さんとこうやって同じ場にいる事に、
終始ドキドキとしていて、その時の事は、あまり覚えていない。
「お前ら、本当そっくりだよな?」
今日、何度目かのその台詞。
篤さんは、私と、横の自分の彼女である姉の顔を、何度も見比べている。
「知らなかったら、双子かと思う。
よく見たら、身長とかは微妙に違うけど」
真横から斗希さんの声が聞こえるけど、
恥ずかしくて、そちらを見れなくて、
俯いてしまう。
「この子、照れ屋だから」
姉は、ケラケラと笑っていて。
「今日、無理に誘ってたら、ごめんね」
そう言った斗希さんに、慌てて、いえいえ、と首を横に振る。
今、私がこの四人でハンバーガーを食べているのは。
うちは昔両親が離婚していて、母親が一人で私達を育ててくれていて。
母親は、今日も朝から仕事。
私と姉に、今日のお昼は勝手に何かを買って食べていてと、朝、お金を置いて出て行った。
そして、姉は、お昼は彼氏の篤さんと食べに行くと言って、私も誘われ。
で、姉と二人待ち合わせのファストフード店へと来たら、篤さんだけじゃなく斗希さんも居たって感じ。
密かに斗希さんに憧れていた私は、
なんてラッキーなんだと、思った。
「けど、お前ら姉妹本当そっくりだよな。
こんだけ似てたら、妹の方とヤッても、俺、お前じゃねぇって気づかないかも」
そう、篤さんは相変わらず姉と私を見比べていて。
「は?あんたバカじゃないの?」
姉も、怒りながらもどこか楽しそうで。
その言葉で、この二人はそういう事しているんだ、と思った。
ってか、姉は篤さんの前に付き合っていた年上の彼氏が、初体験で、
そんな話を、姉本人から聞いた。
姉は、そうやって不良の篤さんと付き合うように、
姉自身もちょと不良で。
私とは、違う。
私は勉強は出来ないから優等生ってわけでもなくて。
目の前の、言動が派手で目立つこの人達とは違うし、
隣の斗希さんのように、何もしなくても目立つこの人とも違う。
私が、斗希さんや篤さんと、そうやって一緒に時間を過ごしたのは、その一度だけ。
そして、夏休みが明けると、姉は篤さんとは別れていた。
学校内で、その後も斗希さんや篤さんを見掛ける事はあったけど、
声を掛ける勇気もなく。
そもそも、声を掛ける理由もなくて。
それっきりで、二人は中学を卒業して行った。
もう二度と、斗希さんと篤さんに会う事はないと、思っていたけど。
私が高校一年の終わり頃に、二人と再会する事となる。
『ごめん。奈々ちゃんから、寧々ちゃんの電話番号聞いて。
あ、滝沢です。
俺の事覚えてないか。
昔、君のお姉さんの奈々ちゃんと篤が付き合っていて』
「あ、あの、分かります!
斗希さんですよね?」
それは、ある日突然かかって来た、電話。
それは、3月の上旬。
私のスマホが、知らない番号を表示して震えて。
『会って、少し話したいんだけど。
無理かな?』
「大丈夫です!」
その突然の電話に、私は迷う事なく、そう返事していた。
電話を切った後、思わず胸を手で押さえてしまう程、心臓がバクバクとしていた。
「寧々ちゃん、久しぶり」
私の家の近くの公園で、斗希さんと会った。
約三年ぶりに見る斗希さんは、また一段と素敵になっていて。
こうやって会ったり見るのは久しぶりだけど、
彼の噂はちらほらと聞いていた。
それは姉を通してなのだけど、
姉も別れてはいるけど篤さんとは少しまだ交流が続いているのもそうだし、
共通の悪い友達が沢山いるみたい。
「斗希さん、東大に受かったんですか?」
そう、聞いた。
「そうそう。まぐれ」
そう笑っているけど、この人の行っていたと聞いた私立の男子校も、かなり偏差値が高い所。
「立ち話もあれだし、そこ座ろう」
斗希さんは、近くのベンチに座った。
横に座ってもいいのか迷いながらも、横に座る。
先程の電話を切った後みたいに心臓がまたドキドキとしていて、
まるで、好きな芸能人とデートでもしているような気分。
実際、この人は本当に私なんかが手が届かない人。
「あの、斗希さん。
一体私に何の話があったんですか?」
そう切り出すと、斗希さんはちょっと困ったように、視線を私に向けた。
「実は、篤の母親が癌になって」
「えっ?」
それには驚いたけど、何故、そんな話を私に?
「それで、けっこうお金が掛かるみたいなんだけど」
「え、私、そんなお金持ってないです!
バイトしてるから、少しくらいならなんとかなりますけど」
銀行にある、その金額を思い出すが、
3万円程。
「いや、そうじゃないんだ。
えっとね、篤にある事をすれば、500万円くれるって人が居て。
向こうは、篤のそんな状況を分かっていて、近付いて来たんだろうな」
「えっと…」
一体、何の話か分からな過ぎて、混乱する。
話の内容がどうとかより、私に何故そんな話をするのか?
「篤が、今AV関係のプロダクションで働いているの、知ってる?」
「あ、はい。
お姉ちゃんから聞きました。
冗談で、お金に困ったら篤さんに仕事紹介して貰おうかなぁ、って言ってました」
そんな姉は、高校も二年の途中で辞めて、
最近、キャバクラで働いている。
「奈々ちゃんではなくて、
寧々ちゃんは、その仕事に興味ない?」
そう優しい声で言われるけど、体中がスーと冷たくなるような感覚がした。
「ごめん。あるわけないよね。
本当に、ごめん。忘れて」
そう視線を逸らされ、思わず、斗希さんの腕を掴んでいた。
「あ、ごめんなさい。
あの、なんで私に?」
掴んだ腕を離すと、そう尋ねていた。
「実は、篤に、ある条件の子を、そのAVプロダクションの事務所に紹介して、その条件の元、1本撮影してくれたら、500万くれるって人が居て。
その人は、篤の会社の社長の、腹違いのお兄さんみたいで」
「えっと、そのある条件って?」
それもそうだけど、篤さんの会社の社長と、その腹違いのお兄さん?
「簡単に言うと、そのお兄さんは、弟であるそのAV事務所の社長を、罠に嵌めて欲しいらしい」
「え、なんで?」
「それは、なんでかは知らない。
けど、篤に500万あげるってくらいだから、よっぽど、その弟が嫌いなんだろう」
私は、その社長もそのお兄さんも知らないから、いまいち話がピンと来ない。
腹違いとか聞いたし、仲悪いんだろうけど。
「ある条件ってのは、18歳未満の子。
俺も詳しいわけじゃないけど、AVって、18歳以上の子じゃないと出たらいけないみたいで」
「なら、私、出られないんじゃ…」
そう言った私に、一瞬、斗希さんは頭悪いな、と言いたげな視線を向けたけど。
次の瞬間には、また困ったような表情を浮かべていた。
「寧々ちゃんには、18歳以上のふりして、出て欲しい」
「そんなの、すぐにバレますよ」
そう言うけど、どうすぐバレるのかは、分からないけど。
現在、私は16歳。
早生まれで2月生まれの私は、まだ16歳になったばかり。
「奈々ちゃんのふりして欲しい」
「お姉ちゃんの、ふり…」
幼い頃から、嫌になる程迄に言われた、
私と姉が瓜二つだと。
けど、最近は、姉は素顔が分からない程の、コテコテの濃いギャルメイクをしていて、あまり似ていないけど。
「奈々ちゃんの写真付きの身分証と、篤からの紹介があれば、その社長も絶対に疑わないと思う。
18歳以上だと安心して、AVに出す」
そう言われ、姉は原付の免許を持っていた事を思い出した。
車も、近いうちに取るとか言っていたけど。
「でも、そうだとしても、私はAVなんか」
そもそも、一番の問題はそこ。
斗希さんの話を聞いていて、何故、私にそれをお願いするのかは、理解出来た。
私が姉のふりで18歳以上だと嘘をついてAVに出演し、
その事を後々、問題にして、その社長を困らせよう、という事なのだろう。
その作戦には、現在18歳の姉とそっくりで、16歳の私は、適任だと思う。
だからって、AVなんて。
「俺も、篤にいくらかお金を用意するって言ったんだけど、それはいらないって、突っぱねられて。
って、言っても、俺もまだ学生だし、今までバイトもした事ないから、大して用意出来ないんだけど。
篤、このままじゃあ、何か犯罪に手を染めるかもしれない…。
ヤバい所から、金借りたり」
「え…」
私は、さほど篤さんの事を知っているわけじゃないけど。
斗希さんのその心配が伝染したのか、
それはダメだと、思ってしまう。
「それに、その篤の働いている事務所の社長、けっこうな悪人みたいで。
ヤクザとも繋がっているみたいでさ。
篤はそいつの事慕ってるけど、騙されてる。
いつか、篤もとんでもない目に合うんじゃないかって。
俺、そうなったらどうしていいか…」
追い詰められたように、両手で顔を抑えて俯く斗希さんに、
「―――分かりました」
気付いたら、勝手にそう口にしていた。
そう言った後、やっぱり無理、と言おうとしたけど。
「ありがとう」
そう、抱きしめられていて、言えなかった。
この時は気付かなかったけど、この人は、
顔を覆った手の下で、笑っていただろう。
その後は、その流れで、斗希さんにキスをされていた。
「上手く行ったら、寧々ちゃんのお願いなんでも聞いてあげる」
唇を離して、耳元でそう言われて。
「じゃあ、私、斗希さんと付き合いたい」
そう言った後、凄く緊張した。
どんな返事が、返って来るのかと。
「分かった。
全てが、上手く行ったら」
その後は、近くのラブホテルでそのまま斗希さんに抱かれた。
半年前迄、一年程付き合った同い年の彼氏がいた私は、もう処女ではなかった。
だけど、初めてのように緊張していた。
「寧々…」
斗希さんは、私の中にそれを挿れ、腰を動かしながら、私の名を優しく呼ぶ。
私は緊張と快楽で頭の中が一杯で意識朦朧とし、
必死に、斗希さんにしがみついていた。
ただ、この人が欲しい。
自分だけのものにしたいと、強く思った。
その数日後。
私は斗希さんに連れられ、篤さんが現在一人暮らししているワンルームマンションへと、訪れていた。
そして、私が協力する事を、斗希さんが篤さんに話した。
「お前、まじ、いいのか?
AVだぞ?」
そう訊く篤さんは、あまり乗り気ではないように感じた。
「はい。
私、お金欲しいんです!
うち母子家庭で、このままじゃあ大学行けないかもしれないし。
ううん。もっと、可愛い服とかも一杯欲しい。
キャバクラで働いているお姉ちゃん見てたら、羨ましくて」
斗希さんには、そう話すように言われていた。
私が、お金の為にAVに出たいのだと。
本当の経緯を話せば、篤さんは辞めておけ、と言うだろうからと。
実際、最近の金回りの良いお姉ちゃんが羨ましいのは、本音だったり。
事の発端は、篤さんがそういう取引をある人物から持ち掛けられている事を、斗希さんに溢した事がきっかけだったらしい。
だけど、篤さんはそれに適した女の子も思い当たらないし、
それになにより、慕っている事務所の社長を罠に嵌める事に、抵抗があるみたいだと。
それなのに、その場でその話を断らず、
斗希さんに相談したのは、お母さんの病気の事で、本当にお金に困っているからなんだと。
だから、斗希さんは、そんな篤さんの為になんとかしてあげたいのだと。
「18歳未満の女を事務所に引き入れたら、その時点で300万先に貰える事になってんだ。
だから、とりあえず寧々がうちに入って。
その後撮影が決まって、
やっぱ俺が成瀬(なるせ)さんの事騙せねぇって思ったら、バッくれて貰っていいか?
その成瀬さんの兄貴には、成瀬さんに寧々の年齢がバレたとか適当に言うから」
その篤さんが言う、成瀬さんって人が、件の社長だろうか?
そして、その篤さんの提案は、とりあえずの300万はその取引相手からは貰うけど、
肝心の撮影はしないって事?
え、と斗希さんの方を見る。
「え、いや。
篤、寧々ちゃんはお金が欲しくて、AVに出たいって言ってるのに。
出たらそれなりにギャラ貰えるんでしょ?」
そう言う斗希さんも、篤さんのその提案は予想外だったのか、その設定のズレで焦っているよう。
「あー、じゃあ、そうなったら、
寧々にそれなりに、謝礼はする。
AVの出演料より安い金額にはなると思うけど」
「はい!」
そう返事した声が、自分でも明るいと思ったのは、このままAVなんか出なくていいのかと、安心したから。
それでも、約束通り斗希さんが私と付き合ってくれるのかは、分からないけど。
「けど、篤、いざとなったら、気が変わるんじゃない?
だって、成功報酬は200万もあるし。
正直、前金の300万だけじゃ、足りないんじゃない?」
「―――どうだろうな」
そう言った篤さんは、その可能性もあるのか、否定はしない。
私は姉の奈々のふりをして、
篤さんが勤めている《成瀬企画》へと、面接の為に訪れた。
それは、まだ春休み中の出来事。
姉の免許証を身分証として提出する予定なので、
その写真に写る姉のように、濃いギャルメイクをし、姉の派手な服を借りた。
斗希さんや篤さんに言われ、姉の奈々にはこの事は全て内緒。
寝ている姉の財布から、こっそりと免許証も拝借して来た。
「成瀬さん、こいつどうっすか?
この仕事にスゲェ興味とやる気があるみたいで」
篤さんに連れられ、成瀬企画のオフィス内にある個室のテーブルで、面接を受ける。
並んで座る私と篤さんの前に、
ターゲットである、成瀬社長が座っている。
「それより、この子何歳?」
成瀬社長のその言葉に、心臓が早鐘を打ち始める。
「お、俺と同い年、です。
あ、これ、こいつの身分証っす」
そう答える篤さんは、私以上に動揺していて。
大丈夫ですか?と思わず言いたくなってしまう。
「ふーん。
7月15日生まれで、奈々ちゃんか…」
姉の免許証と、私を見比べている。
「で、篤と奈々ちゃんはどんな関係?」
「あたしとあっちゃんは、セフレなんです」
そう言ったのは、私で。
事前に、篤さんとそう打ち合わせていた。
絶対に、どういう関係かを訊かれるだろうと。
現に、本当に訊かれて。
自分の彼女をAVに紹介とかは常識的にあり得ないから、と、篤さんには言われ。
だから、セフレだろう、と、続けて言われた。
私は篤さんの事をよく知らないけど、
この人にとって知り合いの女性は、彼女かセフレしかないのだと知った。
「そう。
篤の紹介だけあって、凄い可愛い子だよな。
なら、この子は単体で使おう。
宣材とか整ったら、またメーカーに営業回りしとくから」
成瀬社長は、そう私に笑い掛けてくれる。
その笑顔が素敵なのもそうだけど、
けっこうカッコいい人だな、と思った。
この人が、本当に斗希さんの言うように悪人なのだろうか?
本当に、篤さんはこの人に騙されているのだろうか?
「…奈々を、単体っすか?」
そう言った篤さんは、何か引っ掛かっているようで。
先程からの、単体ってなんなのか、私にはよく分からないのだけど。
「あっちゃん、単体って何?」
ニコニコと、笑ってそう訊く。
いつもの自分とは違う、そのキャラを演じる。
そのキャラは、名を語った姉とも、また違うのだけど。
私の思う、AVに興味があって、お金が欲しい子は、こんな感じなんじゃないかと。
「単体って、AV女優にもランクがあって、一番上って事。
きっと、すぐに奈々ちゃんを単体で撮りたいってメーカーが見つかるから」
「はぁ…」
成瀬社長の言葉に、今も篤さんは不審そうで。
「あっちゃん、ナナ頑張るからね」
そう言って、篤さんに腕を絡ませた。
それは、セフレだという演技。
「お、おいっ、離せよ」
そう言って、立ち上がった篤さんは本気で困ったように照れていて。
少し、その反応が面白いと思ってしまった。
今まで、この人の事を、怖いと思っていたけど、そんな事ないのかな?
ふと、成瀬社長に目を向けると、
先程迄の笑みが消えていて。
その顔が、少し引っ掛かった。
その面接から、私が実際にAVに出演する事になるのは、一年以上後になるのだけど…。
その面接から2ヶ月半後の6月。
成瀬企画の飲み会があって、
その誘いの電話を成瀬社長から受ける迄、すっかりと一連の事は忘れていた。
いや、斗希さんの事は常に頭にあり、
毎日、斗希さんに会いたいな、とモヤモヤとしていた。
あの、篤さんのマンションへと斗希さんと行った日が最後で、斗希さんに会っていない。
一度、会いたいと思いきって電話をした事はあったけど、
慣れない大学の生活で、色々忙しくて、無理だと言われた。
また、こちらから連絡するから、と。
それ以降も、斗希さんには全然会えなくて、しつこくして嫌われたくないからこちらから連絡も出来なくて。
さらに、会いたいと気持ちが募る。
そして、半月に一度程、離れそうになる私の心をしっかりと繋ぎ止めるかのように、斗希さんから電話がある。
後から思うと、そうやって私は斗希さんの術中にはまっていたのだろう。
私が、斗希さんを追いたくなるように。
本人には口にしてないけど、私は斗希さんが好きで、
斗希さんも、それを分かっている。
分かっていて、斗希さんの態度は私の気持ちに応えるわけでも、突き放すわけでもなく曖昧で、私に期待を持たせて、惹き付ける。
だからか、私はさらに斗希さんにハマる。
私がAVに出たら斗希さんは私と付き合ってくれる…。
呪いのように、その思いが私を動かす。
そう思ったからか、私はその飲み会以降も、
月に一度程は成瀬企画へと顔を出した。
成瀬社長が、私の事を売り込む事を忘れてないか、と。
「奈々、なかなか仕事取って来れなくてごめんな。
もう少し、待ってろ」
その都度、成瀬社長の返事はそんな感じだった。
次に斗希さんに会ったのは、夏の終わり頃で。
「時間がなかなか取れなくて、ごめん」
そう言われ、あの時と同じように、
ラブホテルで斗希さんに抱かれた。
「そういえば、まだ仕事決まらないの?」
セックスの後、腕枕をされながら訊かれた。
「うん…」
なんだか、なかなか出演の決まらない私を、斗希さんは失望しているのではないか、と不安になる。
「全てが上手く言ったら、ちゃんと俺達付き合おう」
そう優しく言われて、うん、と頷いていた。
その後、すぐにホテルを出て、また暫く会えなくて、連絡も時々なのに。
この時の私の中心は、全て斗希さんだった。
そんな風に時が過ぎ、私は高校三年生になった。
その年の、8月上旬。
そういえば、いつか斗希さん達とハンバーガーを食べたのも、これくらいの時期で夏休みだったな、と思う。
この頃には、大学にも進学しないと決めていて、夏休みは最低限の課題をこなすだけで、
毎日、友達と遊んでいた。
そんな時だった。
成瀬社長から、連絡があった。
『奈々、お前の仕事が決まった。
近いうちに、その監督面接がある。
予定は、また連絡する。
とりあえず、向こう一週間くらい予定空けてて欲しい』
その連絡を受け、私はスマホを持つ手に力を込めた。
その電話を切った後、斗希さんではなくて、先に篤さんに電話をしていた。
「あの実は…」
と、先程の成瀬社長からの電話の話をした。
『そっか。
じゃあ、よろしく頼むわ』
篤さんは、淡々とそう言った。
もしかしたら、辞めてくれと言われると思っていた。
そう言われたくて、私は篤さんに電話したのかもしれない。
だって、篤さんは成瀬社長を騙したくないはず。
成瀬社長が本当に悪人なのかどうかは分からないけど、
篤さんは本当に成瀬社長を慕っているように見えたから。
『つーか、用はそれだけか?
別に、寧々、お前がやりたくないなら、辞めてもそれは構わねぇから』
「うん…」
『俺、今、人と一緒だから、切るわ』
そう言って、電話は切れた。
ちょうど1ヶ月前に、斗希さんと会った時。
篤さんが、成瀬企画を辞めたと聞いている。
もしかして、篤さんは成瀬社長と何かあって、
あの会社を辞めたのだろうか?
その後、斗希さんにも電話をして、篤さんと同じような事を伝えた。
『分かった。
頑張って』
そう言われて、私はそれに、はい、と言いながらも、何処かで斗希さんに不信感を持っていた。
だけど、後、もう少しで、斗希さんが私のものになる。
そう思うと、その気持ちを必死で揉み消した。