テラーノベル
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ゆっくりと ゆっくりと
見えない速さで 大人になってゆく
東京という、宝石箱のような、ゴミ箱のような、どちらにせよ雑多なもので溢れた街を離れ、俺、大森元貴は想い出の優しい場所…いや、今の俺を受け入れてくれそうな最後の場所へと、実に十年ぶりに逃げ込みに行っている。
新幹線で運ばれ、在来線を乗り継ぎ、更に路線バスに揺られ、人よりもヤギの方が多いんじゃないか、とさえ思うその場所に辿り着いた。
白い入道雲の手前には青い山々、その合間に広大な田んぼ、ポツリポツリとオモチャのように置かれているのは、数少ない民家。そこかしこに山羊が放たれ、この炎天下の中でもお構いなしに草を喰む。
カランカランとヤギの首輪の鈴が鳴れば、頭上からは蝉が競い合うように鳴き喚き、農業用水の流れる音や微かな風鈴の音。
果たして、都会と騒音レベルはそう変わらないのではないか、と思う程の音の洪水だが、なぜか嫌な気はしない。容赦なく降り注ぐ陽射しでさえ、都会にはない良い成分が含まれているような気さえする。 決定的に違うのは、鼻をくすぐる風の匂い。サラサラと揺れる稲の青い香り、水に濡れる土の匂い、そのどれもが、俺をここに戻していく。
いや、正直に言うと、こんなに郷愁に浸るほど、実はここに胸焦がれていた訳ではなかった。田舎すぎて、嫌ってさえいた。十年前、上京する為ここを離れる時など、寂しさのかけらもなく、小躍りするように旅立った程だ。
民家が寄り集まった場所へ入ると、古い商店が目に入った。チラ、と店先に目を遣ると、いくつかの雑誌が置かれているが、俺が載っているものは、一つもない。漫画雑誌か、年寄り向けの趣味雑誌ばかり。
俺は、週刊誌が一つもないその光景に、ホッと胸を撫で下ろす。その後に、そんな自分へ苛立ちを覚えた。
何故俺が、気にしなければならないんだ。あんな三文記事の"おかげで"、ここまで逃げ込む羽目になったというのに。
俺は、大森元貴という名前は伏せ、『鈴木朗瑪』という芸名で、俳優をしている。徹底的に本名や出自を伏せ、自分で言うのも恥ずかしいが、ミステリアスな雰囲気で売り出すというのが事務所の方針だった。
大人気、という程では無いが、まあそこそこに仕事はもらえていた。少しゆっくりめの若手俳優として人気が頭角を現したか、という時に、あの週刊誌の三文記事だ。
『鈴木朗瑪 驚きの素顔』
『パワハラ三昧の日常』
『元マネージャーが大暴露』
とまあ、こんな具合だ。格好の餌を与えられた、自分の生活に不満だらけの馬鹿共が、正義感を振り翳して騒ぎ立てた。
パワハラ?冗談じゃない。あのマネージャーを追い払ったのは、俺ではなく統括マネージャーだ。理由は簡単、スケジュール管理もまともに出来ない無能だったからだ。これまでに何人も辞めていったって?そんなの、勝手に多忙に耐えられないと辞めていっただけ。連絡さえ寄越さずに飛んだヤツだっている。どいつもこいつも根性のない馬鹿ばっかりだった。
アイツらは目先の金に釣られて、パワハラ記事をでっち上げるために、ありもしない辛い経験を証言したんだろう、本当にご苦労な事だ。
事務所は当然否定をし、抗議文もホームページに掲載するなどしたが、一度燃えた火はなかなか消えない。公式文章を穿った見方をしてはまたそこを突いて燃やし、まるでキャンプファイヤーを囲んで楽しく盛り上がるように、馬鹿共は騒ぎ続けた。
俺は、そんな状況に嫌気をさして、しばらく身を隠す事にした。有難いことに、仕事のスケジュールは綺麗に漂白されたもんでね。
俳優をしている時は、基本的に派手な髪色に髪型、メイクをしていたので、髪色を黒に戻して襟足をスッキリと切り、ノーメイクで白いTシャツにパリッとした綿の白シャツを羽織り、黒い短パンを履いてサンダルで歩けば、誰一人として俺を『鈴木朗瑪』と認識する者はいなかった。まあ、ここには、認識してくれる"人"が、そもそも殆ど歩いていないのだが。
俺は、左腕につけた唯一の高級品、ブランドの腕時計を光らせながら時間を確認する。もうすぐお昼時か。これは、俳優として確かに成功したのだという、俺のなけなしのプライドだ。誰に対しての見栄か、誇張か。まだそんな物にしがみついている自分が居る。腕を振ると、チャラ、と情けなく音が鳴った。
頭の中でそんな思考を苦々しく巡らせている間に、俺は目的の場所に着いた。立派な木造家屋で、日本人ならば誰もが「懐かしい」と言ってしまうような、縁側を備えた古民家だ。
インターホンなんてものは無い。もはや鍵すらも飾りのように、窓も扉も開け放してある。
俺も、当然のように庭の方へ向かい、縁側から中を覗く。玄関から入る、なんて常識は、ここには無い。
「ごめんくださーい。」
灯りもつけず、縁側からの陽射しだけで充分というように、薄暗い室内に俺の声が溶けていく。カラカラと回る扇風機に、ちゃぶ台の上に二つのコップ。汗をかいたそのコップの中には、氷と麦茶が半分ほど残っている。
「はーい。」
奥から、優しい声がする。俺は、柄にもなく、緊張した。火照った身体に合わせるように、心も高鳴り熱くなる。
キッチンの方から、スタスタと足音を鳴らして人影が現れる。
「あ、元貴だ。久しぶり。」
彼が姿を現した途端、心にじわっと暖かいものが生まれた。掘り起こされた、の方が正しいかもしれない。
人懐っこい、目尻に少しの皺を湛えて笑う彼は、藤澤涼架。俺の、幼馴染の一人だ。三つ年上の涼ちゃんは、確か今年で三十二歳。しかし、目の前には、ボブまで伸ばしたピンクの髪の毛先だけを赤く染め、ハーフアップに纏めた若すぎる姿があった。ベージュの襟シャツに白Tシャツ、ライトブラウンの短パンに、この暑いのに白いスニーカーソックスを履いている。派手な髪に対し、服装はアースカラーで落ち着いているという、なんともチグハグな様相だ。
「…久しぶり。若井は?」
「もう着いてるよ、今トイレ。」
「そ。お邪魔します。」
縁側の前にサンダルを脱いで、そのまま室内へ上る。玄関から入りなよ、と笑いながらキッチンへと戻る涼ちゃんに着いて、俺もそちらへ向かう。
「麦茶でいい?」
「うんもちろん。氷も欲しい。」
「はいはい。」
涼ちゃんは、慣れた手つきでコップに氷と麦茶を入れていく。
「…涼ちゃんって、ずっとここ?」
「うん、出る必要ないしね。」
「ふーん。…涼ちゃん、今何してんの?」
コップを受け取り、立ったまま飲んで話を続ける。
「今はね、ウェブデザイナーとか、ウェブライター、かな。リモートで仕事やらせてもらってるの。良いよ、在宅。楽で。」
「へぇー、だからその髪の毛か。」
「はは、うん、良いでしょこれ。街の方に行ってピンクにしてもらって、ちょっと物足りなかったから、自分で赤入れちゃった。」
「ピンクで物足りないとか、普通ないから。」
「あはは、そう?」
涼ちゃんは笑いながら、居間の方へ俺を誘う。ちゃぶ台の傍に胡座をかいて座る涼ちゃんに倣い、俺も向かい側へ座ってコップを置く。
「元貴は、東京で頑張ってるね。この前のドラマ、観てたよ。それで言うと、これまでの作品、全部ちゃーんと観てるからね。」
ニコニコと、心から嬉しそうにそう語る。
まあ、まずはそこにいくよね。予想通りの話の展開に、少し顔が強張る。
「…ありがと。ま、今は贅沢な休暇中ですけどね。」
俺が両手でお茶を囲み、伏し目がちに渇いた笑いを零すと、涼ちゃんが困ったように笑った。
「…大変だったね。」
「…まあね。おかげで、せっかく俺に当て書きしてくれたっていう映画も、頓挫するかもだし。」
「うそ、凄いじゃん!」
「…聞いてた?立ち消えそうなの。仕事が。ぜーんぶ。」
「…そっか、それは…辛いね。ごめん。」
「ううん。まあ、なんか売れっ子が書いてくれてたらしいからさ、それはちょっと惜しいけどね。」
少し強がって笑顔を崩さずに下を向いて黙った俺を、涼ちゃんが見つめている。俺は沈黙に耐えられず、ポツリと、言い訳を零した。
「…俺、なんもやってないからね。」
「うん、分かってるよ。ちゃんと。」
顔を上げると、全てを包んでくれるんじゃないかと思うほどの、柔らかい笑顔をこちらに向けてくれた。
俺は、表情は変えなかったが、泣きそうな程に嬉しかった。無条件に、自分を信じてくれる人がいる事に、気付かぬ内に弱り切っていた心が熱く反応してしまった。
捏造記事が出るまでは、俺の周りにもある程度は人が居た。恋人と呼んでいた人だって。しかし、その誰もが、三文記事が出た途端、潮が引いたように去っていった。別にどうということはない、打算的に付き合っていた人間ばかりじゃないか。そう見下すことで、自分の心を保っていた。
でも、今目の前にいる人は、違う。
「大丈夫、元貴なら、いつでも輝けるよ。」
真っ直ぐに見つめて、臆面もなく言い切ってくれる。俺は唇を噛んで、内に溢れる感情を押し隠す。
「なに言ってんの。こんなん…無理でしょ。もう。」
「大丈夫。だって、元貴は、僕の光だからね。」
そう言って笑う彼の顔が、幼い頃と何も変わらない事に、俺の心が騒ぎ始めた。
あの頃と、同じ笑顔だ。
いつも、こうして俺の目の前にあったのに。
いつから俺は、この笑顔を忘れていた?
俺たちがまだ小学生の頃、近所には俺と、若井滉斗と、藤澤涼架くらいしか、子どもがいなかった。学校はいくつか合併し、スクールバスに乗って、あちらこちらの子ども達が集められ、同じ学舎で過ごしていた。
俺たちより三つ年上の涼ちゃんだが、いつも一緒に遊んでくれた。
昔から面倒見が良く優しい涼ちゃんに、俺も若井もよく懐き、よく甘えていた。
俺が俳優を目指すきっかけになったのも、実は涼ちゃんだったりする。
同じ子ども会に所属していた俺たちは、小学六年の夏休みに、公民館のホールで地域の人に向けてお芝居をやる事になった。
涼ちゃんが中三で、子ども会最後の年だ。一番の年長者という事で、涼ちゃんが脚本を任され、俺と若井は主役を張る事になった。とは言っても、そんなに子どもの数もなく、上から数えて俺たち三人以外は、ちびっ子が数人、というメンバーだった為、少し話を変えた『白雪姫』を、涼ちゃんが書いた。
「白雪姫ったって、女の子いないぜ?」
「うーん、元貴、やってくれない?」
「何を?まさか白雪姫?絶対やだ。」
「だよねえ…。滉斗は…。」
「俺もやだ。」
「でしょうね。じゃあ…違う話にするか…桃太郎とか…。」
「なんで、涼ちゃんがやればいいじゃん。」
俺が、そう提案すると、涼ちゃんはキョトンとした。
「…え?僕も出るの?お話書くだけじゃないの?」
「当たり前だろ、人がいないんだから。」
「いーじゃん、涼ちゃんが白雪姫!似合うって!」
「え〜…確かにちょっと髪伸びてきてるけどさあ…。」
「そのまま伸ばしちゃえ。カツラ被ってもいいし。無いか、そんなの。」
若井も、話にノリだした。俺たち二人に押される形で、渋々涼ちゃんは白雪姫役を受け入れてくれた。
「じゃあ、王子様役は」
「はい俺やります。」
若井が手を挙げた。俺は、やっぱりな、とその光景を見つめていたが、涼ちゃんからは意外な言葉が発せられた。
「滉斗、ごめん。王子様役は、元貴にやってもらおうと思ってるんだ。」
「えー!マジで?!」
「…え、なんで?」
「元貴、本当は目立ちたいと思ってるでしょ?滉斗は、普段から目立つタイプだけど、元貴には、ここで目立つ役に挑戦してもらいたいんだ。」
涼ちゃんが俺を見据えて語りかける。俺は、心の中を見透かされたようで、少し恥ずかしかったが、涼ちゃんに分かってもらえていることが何よりも嬉しかった。
「まあ…涼ちゃんが言うなら…。」
「ありがとう!じゃあ、滉斗は優しい女王役、お願いね。」
「へ?優しい?」
「うん、僕のお話はちょっとストーリー変えてあるから。」
「まあ良いけど…てか結局女役じゃねーか!」
昔々あるところに、白雪姫という美しい姫がいました。娘を溺愛する女王は、いつか誰かがこの姫を貰い受けに来るのが耐えられず、森の奥深くへと隠しました。
七人の小人がお世話をする中、隣国の王子がたまたま通りがかり、二人は恋に落ちました。
それに怒り心頭の女王が、あの手この手で二人の恋路を邪魔します。
ある時、机に置かれた毒リンゴを食べた白雪姫は深い眠りにつき、その呪いを解くために王子は懸命に女王と戦い、滅ぼす事に成功したのです。
王子様の愛のキスで、無事に目覚めた白雪姫は、王子と幸せに暮らしました。
…というのは表の話で、実は全ての嫌がらせは、王子が自分でしていたのです。女王と白雪姫を対立させ、白雪姫を溺愛する邪魔な女王を失脚させたのち、愛する白雪姫とその国を全て自分のものにするために。
何も知らない白雪姫は、果たして本当に幸せなのでしょうか…。
涼ちゃんの書いた白雪姫は、ざっとこんな感じだった。
「…なんか、涼ちゃん、病んでる?」
俺が心配そうに言うと、涼ちゃんが困ったように笑った。
「ちょっとやめてよ、病んでないよ!だって普通に知ってる話じゃつまんないと思って。」
「いいじゃん、面白そう!俺、戦うところで元貴と殺陣やりたい!」
「武器とか使うと小道具の準備大変だから、二人で空手の型で戦ってよ。」
「何それカオス。」
俺たちは、なんだかんだと楽しみながら準備や練習に励んだ。
そして迎えた、本番当日。
涼ちゃんは親に借りた青っぽいワンピースを着ただけ、俺は普通の服に風呂敷をマントに見立てて首に巻いて、若井も親の黒いワンピース、そしてそれぞれの頭には段ボールで作った冠というなんとも子ども会らしい簡素な衣装で舞台に立つ。
「さあ、白雪姫。私の愛のキスで、どうか目覚めてくれ。」
自分で毒リンゴ食わせておいて、よく言うよ。と呆れながらも、見せ場のシーンに緊張もしていた。長机の上に寝転んだだけの涼ちゃんに、顔を近づける。程よい距離感を保ち、キスをした体で顔を離そうとした瞬間、涼ちゃんの身体がビクッと動き、肘が机に置いてある俺の手に当たった。俺の身体を支えていた一方の手がズルッと滑る。
「っわ…!」
必死で片方の手に力を込めて踏ん張るが、唇が涼ちゃんの口に当たった。キス、というよりは、ぶつかった感じで、割と痛みもある。
「っごめ…!」
「…王子様、助けてくれて、ありがとう。」
痛みかそれともショックからか、涙目になりながらも、涼ちゃんが目を覚ました演技をしてセリフを続ける。俺は、おそらく顔を真っ赤にしながら、涼ちゃんに続いてセリフを言った。
「…白雪姫。これからはこの国で、二人一緒に幸せになりましょう。悪は去りました。」
その後、若井のナレーションで王子の悪巧みが暴露され、白雪姫の幸せとは、を投げかける形で劇は幕を閉じた。
子どもたちはポカンとし、大人たちはなかなか面白いと盛大な拍手を送ってくれた。
「涼ちゃん、ごめん、大丈夫だった?」
終演後、蝉の声が響く昼間の帰り道で、俺は涼ちゃんに謝った。
「うん、大丈夫。元貴は?痛かったんじゃない?ごめんね、僕、緊張で身体がビクッと動いちゃったみたいで…。」
「…ううん。」
「涼ちゃん寝てたんじゃないの?」
「さすがに寝てないよ!でも、ホントにごめんね?」
滉斗に反論しながら、涼ちゃんが一部赤く腫れた唇ではにかみ、今更頬を染めて謝ってきた。
俺は、………ちょっと嬉しかった、だなんて言えないな。さっきの唇の感覚を思い出して、胸がドキドキした。蝉の声が、耳に響く。こんな五月蝿さじゃ、とてもじゃないけど俺の言葉なんかきっと涼ちゃんにちゃんと届かないだろう。
そう、俺が涼ちゃんに気持ちを伝えられないのは、この、邪魔するような蝉のせいだ。きっと、その所為だ。
あの時、大人たちから浴びた拍手喝采が快感となって俺にインプットされ、もっと、もっと芝居で人の前に立ちたい、そんな欲求が俺の中に生まれた。自分の内にある混沌を、演技として表現できる楽しさにも目覚めてしまっていた。
高校の三年間で、必死に勉強とバイトを両立させ、卒業と共に親に有無を言わさず上京した。
涼ちゃんはというと、大学生になった時から地元を離れていて、親の話によると東京の大学に行っているらしかった。
そもそも、俺たちが中学と高校になった頃には、もうあんまり交流自体が無くなっていて、お互いに顔を合わせる事などほとんど無かった。全く意識していなかったといえば嘘になるが、よくある実らない初恋、そう思って、心の奥にそっと仕舞い込んでいた。
もしかして、東京で就職とかしてたら、逢えるかも、と淡い期待はしていたが、上京する際に久しぶりに連絡をしてみたところ、今は就活と卒論で忙しく、大学卒業後は地元に帰る、という話が返ってきただけだった。
初恋なんてものは、そうして都合のいい時にだけ気まぐれに取り出しては、少し想いを馳せる、みんなそんなものだろう。
俺は、そこからは我武者羅だった。芸能事務所に所属し、俳優一本で芸に磨きをかけていく。最初は端役から。それでも、さまざまなオーディションを受け続け、若手の登竜門と言われる特撮にも、主役ではないにしろ出られた。
地元に帰省するなんて考えが浮かばない程に、芝居に没頭していた。
正直、涼ちゃんの事なんて、その頃には全く頭に浮かんでいなかった。仕事の成功と共に自由が奪われる代わりに、富も名声も手に入る。その感覚に、俺は溺れていたのかもしれない。
しかし、今回の騒動に巻き込まれた時、何かの糸がプツリと切れた。
それまでは気にもしていなかった雑多な街での孤独に、押し潰されそうになったのだ。
誰も信用できない。誰にも心を開けない。
俺は気付けば、縋るように、祈るように、涼ちゃんへ連絡を取っていた。これまで思い出しもしなかったくせに、十年も連絡すら取っていなかったのに、俺の中にある唯一の暖かな記憶に逢いたくて必死だった。
『今度、地元に帰ろうと思うんだけど、涼ちゃんはまだそこにいる?』
『うん、いるよ』
初めは、なんでもない風を装って、軽く確認を送った。会いたい、なんて送っても良いものだろうか。十年ぶりの幼馴染って、どんな距離感なんだろう。台本がなければ、俺は怖くて一歩も動けない。
『せっかくだし、久しぶりに若井にも声掛けて、集まる?』
俺は、若井を巻き込んで、自分の気まずさの濃度を薄める事にした。
『いいね、じゃあ僕んちで集まる?』
『いいの?ありがとう』
『今、親は旅行中だから、こっち泊まってもいいよ』
涼ちゃんにとっては何気ない言葉だろうが、俺はドキッとした。まるで、高校生が恋人を誘う時のような文句だ。
胸が高鳴ったところで、どれだけウブな反応なんだ、と、自分で自分が恥ずかしくなった。涼ちゃんとやり取りをしていると、否応なく青くさい自分が出てくる。
『ありがとう、助かる』
俺の実家は、既に地元を離れて東京郊外に引っ越しているので、俺にはそもそも地元に帰る場所がない。涼ちゃんが、俺の帰る場所になってくれているように感じて、心がじんわりと暖かくなる。
あそこに帰れば、涼ちゃんがいる。それだけで、こんなにも俺の精神は安定するのか、と驚く。我ながら単純すぎる初恋に必死に縋り付く自分の姿が、恐ろしく滑稽だった。
「あー、鈴木朗瑪だあ。あは、本物だあ。」
後ろから、揶揄うような、子供染みたふざけた声が飛んで来た。ジロ、と睨み振り向くと、トイレからやっと出てきた若井滉斗がニコニコと歩み寄ってくる。
赤茶の短髪に、俺と似たような麻素材の白シャツに白Tシャツを着込み、ダークカーキの短パンといった出立ちで、持ち前の明るさが滲み出た悪戯っぽい笑顔だ。
「…いつもありがとう。」
俺は、口の片端を上げて笑い、若井のノリに付き合う。わざと高級時計を付けた片手を差し出す。若井は、はあぁっ、と感嘆を漏らして両手で俺の手と握手をした。
「あぁ〜、嬉しい、もう手洗わないっ。」
「洗え。ていうか洗った?」
「洗ってないっ。」
「きったね!」
俺が慌てて手を離すと、若井がケタケタと笑いながら、俺と涼ちゃんの間に腰を据えた。そのやり取りを見て、涼ちゃんもあはは、と笑う。
「…久しぶり。」
もう一人の幼馴染、若井と会うのも、十年ぶり。こちらは、なんの気兼ねも緊張もなく、あの頃の空気にスッと戻された。
「ホント久しぶり〜。」
「若井はよく来るの?」
「ううん、十年ぶりくらい、かな。元貴、実は俺も今東京いるんだぜ、知ってた?」
「え、うそ。言ってよ。」
「言えるか。げーのーじんに。」
「やめろ。え、若井は何やってんの?」
「俺はね」
立ち上がって、部屋の隅に置いてある若井のであろう鞄を漁る。立派なレンズが付いた一眼レフカメラを取り出し、俺に掲げて見せた。
「これ。」
「え、カメラ?」
「うん、一応、写真家。だけど、まあまだギリギリ生きていけるだけの仕事貰えてるって感じ。」
「へえー…全然知らなかった。」
俺の言葉に、若井が眉を下げて困ったように笑った。
「元貴が上京してからだもんね、カメラの道に決めたの。」
ちゃぶ台の向かいで、若井を笑顔で見ながら涼ちゃんが言った。そうか、涼ちゃんは、知ってたんだ。こんな些細な事でも、少し心が燻る。
「そ。元貴が俳優目指すならさ、俺もカメラ興味あったし、いつか元貴の事撮れるかもって。」
「え、俺?」
「まあね〜、カメラをやる上での一つの目標、的な?」
「…そっか。」
「若井ね、やっぱりすごく上手だよ。僕も沢山撮ってもらっちゃった。すっごく綺麗に。ね。」
涼ちゃんが嬉しそうに話しかける。若井も優しい笑みを湛えた視線を、涼ちゃんに向ける。俺は立ち上がり、二人の繋がるような視線の間を通って、若井の横に移動した。
「へえ、どれ?」
「ほら、このへん。」
「え…ちょっと、恥ずかしいよ。」
カメラの小さな液晶に、若井の眼で捉えた涼ちゃんがいくつも映された。目線を外していたり、全身を映していたり、近づいてのバストアップだったり、さまざまな涼ちゃんがいて、そのどれもが優しい美しさを纏っている。これが、若井から見た、涼ちゃん。横目で若井を盗み見ると、愛おしそうに液晶を見つめている。
もしかして若井は…。
そう考えると、じわっと心にさっきまでとは違う嫌なものが滲み出た。
視線を液晶に戻すと、画面の中の涼ちゃんもまた、カメラ越しの若井を見つめるその眼には、愛しさが含まれている気がする。
じわっ…。
「…ねぇ、俺らも撮ってよ。」
俺が、若井にそう言うと、少し驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
「いいよ、もちろん。」
俺は、涼ちゃんの傍にしゃがみ込んで、肩に手を乗せる。涼ちゃんも、俺の方に頭を傾け、片手でピースを作った。
「はい、チーズ…。うん、良い感じ。」
ほら、とまた画面をこちらに傾ける。小さな四角の中で、俺と涼ちゃんが寄り添って仲良く笑っている。後でこの写真もらおう。俺は心の中でそう呟いた。
お昼は、涼ちゃんが用意してくれていた素麺を食べて、三人で居間に寝そべる。
「…どうする?夜は飲むとして、それまでどっか散歩でも行くか。」
若井が、寝ながら俺たちに投げかける。
「ん…そーするか。俺、東京じゃあんま外出ないから。ここでくらい、陽射し浴びとこうかな。」
俺がその話に乗ると、涼ちゃんが身体を起こす。
「二人はこっち、久しぶりだもんね。多分、全部が懐かしいんじゃない?」
クスッと笑う、そんな涼ちゃんが、俺の懐かしさの最たるものだなんて、思いもしないんだろうな。俺は身体を起こして、涼ちゃんを見つめる。
「…ん?」
「…ううん。」
俺は、火照った心を誤魔化すように、赤い金魚の描かれた団扇をパタパタと仰いだ。その様子を、眼を細めて見る涼ちゃんに、団扇を向けて仰いでみる。風が顔に当たると、嬉しそうに口端を上げて顔を少し上に向け、眼を閉じた。その横顔の綺麗さに、俺は仰ぐ手を止められない。
「涼しい…。」
眼を閉じたまま、涼ちゃんが呟いた。
「涼しい?」
俺と同じく、涼ちゃんの横顔に見惚れていたであろう若井が、聞き返した。うん、と眼を閉じたまま返す涼ちゃんを、若井が尚も見つめ続ける。俺は、若井の視線を逸らそうと、若井にもパタパタと仰いでやった。若井も眼を閉じて、うーん、と声を漏らす。
「じゃあ、かき氷食べたら、出発する?」
「いいね、そうしよう。」
「はい!おれ、いちご味!」
三人でかき氷を平らげた後、夏の陽射しが痛いほど降り注ぐ世界へと、俺たちは乗り出した。
夕方になり、割と遠くまで歩いてきた俺たちは、ちょうど時間が合うという事で、数少ない路線バスに乗って帰る事にした。
「元貴と滉斗に会えるのが楽しみすぎて、昨日全然眠れなかったんだ〜。」
歩きながらそう零していた涼ちゃんが、バスの最後部座席の端に座って、眼を閉じた。その内に、うつらうつらと頭を揺らし始め、口を開けて上を仰ぎ、寝始めた。
不意に、若井がスマホカメラで涼ちゃんの寝顔を撮り始める。
「…後で送ろうか?」
若井が、ニヤリと笑って、俺に問う。俺は、ふん、と笑って、どちらとも無い返事を返しておいた。
家に着いて、外の井戸水で冷やしておいたスイカを食べる。
俺たちが用意した夕飯は、鶏肉を塩コショウで焼いたものと、白飯と、これまた外で冷やしておいた野菜を焼いたり、生で食べられるきゅうりやトマトはそのまま皿に置いた。
まさに、男の料理、食えりゃいいと言わんばかりの品揃えだった。
俺たちは、素材の味の良さに感動しながら食べ進めたが、涼ちゃんは控えめな量しか食べなかった。
「ん、美味しく無い?」
「そんなわけないでしょ。なんか、二人に会えて、胸がいっぱいでさあ。あと、単純にさっきのスイカ食べすぎた。」
「それはアホすぎんだろ。」
「子どもやん。」
あはは、と笑って、俺たちが食べる姿を嬉しそうに眺める。
「…おかえり。」
両肘をちゃぶ台に着いて両の拳を顎の下に添え、顔を傾けながら、眼を細めて涼ちゃんが小さく言った。
ああ、涼ちゃんだ。
いつも優しく、困った笑顔で俺を、俺たちを見てくれていた、そのままの涼ちゃん。
本当に、ここへ帰ってきたんだ。
あんなにもドロドロとした感情が身体の中に蔓延っていたのに、この田舎の風景が、素朴な食事が、涼ちゃんの笑顔が、それらを浄化してくれて、自分が綺麗になっていく感覚さえする。
涼ちゃんに恋をしていたあの夏に、俺の気持ちが、戻っていく。戻されて、いく。
その夜、客間のエアコンが故障中らしく、二階の涼ちゃんの自室に追加で二組布団を敷いて、三人で雑魚寝させてもらう事になった。
結局、夜の飲みは無く、涼ちゃんがあまりに睡眠不足で眠たそうだと、先に上にあがってもらった。
俺と若井は、縁側に並んで座り、お酒の代わりに健全な麦茶で乾杯する。一番お酒が好きな涼ちゃんがいないし、若井は酒が苦手らしかった。
「…はあ。」
俺は、何の為でもない、ただ胸のつかえを取りたいようなため息を吐いた。
「なに。」
若井が、外を見ながら、訊いてくる。確かに、今のは気を引くようなため息だったな、と俺は少し後悔した。
「いや…別に。」
「なんだよ。」
「なんもないって。」
少しの間があって、若井が口を開く。
「………涼ちゃん…。」
「…ん?」
「涼ちゃん、綺麗になってたな。」
「…いや、女の子に言うセリフだろそれ。」
「いーじゃん、そう思ったんだから。」
「まあ…確かに、な。」
「………………………俺さ。」
しばしの沈黙の後、若井が改まって何かを切り出そうとする。俺は、予感がして、胸が騒ついた。じっとりと、嫌な汗が纏わりつく。
やめろ、俺から最後の居場所まで、奪わないでくれ。
庭からは虫の声が響き、俺たちの間で、コップの氷がカラリと音を立てて形を崩した。
コメント
21件
うわあああ!!!!長すぎる!!!頑張って読みました!!最高ですマジで愛してます
新連載!! Behindの💛ちゃんの寝顔の写真を撮ってる💙さんが入ってて心の中で叫びました笑 あの撮った後の💙さんの愛おしそうな目、、りょつぱ最高です😆 💛ちゃんの「おかえり」のシーン、想像したら流石に美人すぎてニヤニヤしちゃいました笑 続きが気になりすぎます!🫶
新連載ありがとうございます✨もう書き上げたなんて本当にスゴい👏✨ ❤️さんの仕事が俳優なのはおぉーってなりました!お仕事のいざこざについてはちょっと苦しくなりますが、夏を感じました✨前回とはまた違う夏。Behindもいっぱいあって、団扇なんて愛されの最たるところ🤭お写真も💙さんが撮ってる💛ちゃん、めちゃくちゃ美しいですもんね。💙さんも愛おしそうな顔で撮ってますもんね✨