バーを出てエレベーターに乗り込んだ私たちは、ただ黙ってロビーに着くのを待っていた。
先ほどまでの会話を思い出し、胸の高まりがおさまらなくなっていると、拓真がぼそっと言った。
「そう言えばさ」
「な、何?」
「ひとまず答えは保留だけど、碧ちゃんは太田さんと別れたら、俺と付き合ってくれるってことでいいんだよね?」
「う、うん。そうしたいと思ってるよ」
「でさ、その前に俺、碧ちゃんの気持ち、ちゃんと聞いていなかったなって思ったんだよね」
拓真はちらりと私を横目で見る。
「私の気持ち……?」
「そう。付き合う気持ちがあるってことは、そういうことなんだろうなって思うけど、でも」
拓真は私の頬にそっと触れた。
「ちゃんと聞きたい。言ってほしい」
「あ……」
拓真の目を見返して、彼がほしがっている言葉が何か気づいた。言われてみれば、今の気持ちを話してほしいと促されて話しはしたが、最も大切な言葉を明確に拓真に伝えていない。改めて口にしようとすると恥ずかしくなるが、でもこれは言わなければいけない言葉だ。私は声を振り絞るようにして言った。
「好きです、今も……」
言い終えた途端に顔が熱くなった。
「あぁ、もうっ……」
拓真が脱力したようにつぶやくのが聞こえた。
「拓真君……?」
「今はまだ、碧ちゃんが俺の彼女じゃないことが本当に悔しいよ」
「え?」
「彼女だったら今すぐにもキスしたいのに、ってことだよ」
拓真はそう言って熱っぽい目を私に向ける。
そうされたら嬉しいけれど、それはまだ――。
どきどきしながらそう思った時、エレベーターが到着を知らせる。
拓真は照れながら、私を促した。
「せめてアパートの前までタクシーで送らせて」
アパートに向かうタクシーの中、拓真は言った。
「今日はありがとう。明日からもまた、同僚らしく振舞わないとね」
拓真の気持ちを知り、また、自分の気持ちを伝えた今もまだ、こんなお願いをしなければならないことを心苦しく思う。
「拓真君、ごめんね」
「どうして謝るの?俺たちが知り合いだってことは、会社では知られたくないんだろ?碧ちゃんがそうしてほしいなら、いくらでも協力するよ。きっとそれは太田さんのことがあるからなんだよね。でも、電話くらいはかけてもいい?会社で話せない分、話したい」
「それは……」
私はためらった。電話くらいはと思わないではなかったが、万が一を考えた時、それはやめた方がいいと思った。
私の表情からそれを読み取ったのだろう。拓真は申し訳なさそうに言った。
「困らせてごめん。まだ俺は彼氏じゃないわけだから、良くないか」
それが理由ではなかった。もしも太田が気づいた時、嫉妬心をどんな形で私にぶつけてくるかが分からず、怖かったのだ。私はうつむいた。
「ごめんなさい。早く終わらせるから……」
「俺は大丈夫だから。あぁ、着いたみたいだね。……おやすみ。ゆっくり休んで」
「うん。拓真君も。おやすみなさい。またね」
名残惜しいと思っているのはきっと私だけじゃない。街灯の灯りに浮かんで見えた拓真のまなざしも切なげだった。けれど私たちは、その気持ちを吹っ切るように互いに笑顔で手を振り合った。
拓真の乗るタクシーを見送りながら、私は改めて決意を固める。明日になるのか、明後日になるのか分からないけれど、早く太田に別れ話を切り出そう。
重苦しい気分のままエレベーターに乗り、目的の階に出た。自分の部屋の前を見て、どきりとした。玄関前に太田がしゃがみこんでいたのだ。
―― 今日は来ないはずじゃ……。
驚き狼狽しながら私は歩を進めた。私が目の前にやってきたのを見て、太田が立ち上がる。その顔に浮かぶ笑顔を見て、背中がひやりとした。
「笹本、お帰り。遅かったじゃないか。何度かメッセ―ジと電話入れたんだけど、気づかなかったか?」
「え?」
私は慌ててバッグに手を突っ込み、携帯を取り出した。ロックを外して通知を見るとそこには太田の名前がずらりと並んでいた。どくどくと鼓動が鈍く跳ねて息苦しくなり、胸元を抑えた。しかし顔には笑みを乗せる。
「友達と盛り上がっちゃって……。だいぶ待ってました?ごめんなさい」
「へぇ、友達と会ってたのか」
太田が一歩近づいた。
「う、うん、そうなんです。急に誘われて。久しぶりに会う子だったから、それで」
太田の声に足が震えそうになるのをなだめつつ、私は鍵を取り出した。
「今日はちょっとはしゃぎすぎちゃった。疲れたから、もう寝ますね。太田さんは出張帰りですよね?申し訳ないですけど今夜は自分のお部屋に……。っ……!」
全て言い切ることができなかった。
太田は私の手から鍵を取り上げた。それを取り返そうと手を伸ばした私の体を捉えて、鍵を開ける。そのまま私を押し込むようにして玄関に入り、後手でドアを閉めて鍵をかけた。
「友達と会ってたなんて、嘘だろ。見え透いてるんだよ」
怒気をはらんだような太田の低い声に全身が震える。
「嘘なんて……」
恐ろしさに締まりそうになる喉から、私は声を絞り出した。しかし太田の一言に表情が固まる。
「北川と会ってたんじゃないのか」
「あ……」
それは単に鎌をかけられただけだったのかもしれない。それなのに私は反応してしまった。慌てて顔を背け、口を閉じた時には遅かった。その動揺は、それが事実だったことを太田に悟らせてしまった。
彼は片手で私の両の手首をつかんで壁際に押さえつけ、肩を押さえて噛みつくように口づけた。
「んっ……」
激しい口づけに呼吸すらままならなかった。さらには脚の間に膝を入れられて、私の動きは封じられた。
彼の唇が離れたすきに逃げようとしたが、太田は私の両手をつかんだまま、もう一方の手で私のスカートをまくりあげた。
「いやっ!」
私は必死に抵抗した。
太田はちっと舌打ちすると、私の体を乱暴に抱き上げて寝室に向かった。そのまま放るようにベッドに押し倒されて、私は声を上げた。
「お願い、話があるの。聞いてっ!」
「嫌だ。聞きたくない」
太田は即座にそう言うと、いつの間にか外していたネクタイで、私の両手首を頭上に縛りあげた。
「やめてっ!」
「やめないよ。笹本が何度言っても分かってくれないのが悪いんだ。お仕置きしないとね」
太田の目は狂暴な色を帯びていた。
手首のネクタイをなんとかして外そうとするが、動かす度に手首に食い込む。
「太田さん、お願い。話を聞いてください」
できるだけ冷静にと思うが、異常にも見える太田の様子に声の震えが止まらない。
別れ話を切り出さなければいけないのに――。
しかし太田の耳に、私の声は聞こえていないようだった。必死に抗ってはみたが、それは呆気なく力でねじ込まれた。私の意思に関係なく、彼は荒々しく、噛みつくように口づけして、私の体のあちこちに痛みと痕を残していった。それは初めて彼に抱かれた時以上に激しく、私の唇からはうめき声がもれた。愛撫とは程遠いやり方で無理矢理に太田を受け入れさせられて、体中に残ったひどく不快な感触に吐き気がする思いだった。
太田は満足げな様子で、彼に苛まれてぐったりと力なく横たわる私の体を愛おしむような手つきで、優しくなぞるように撫でている。
「笹本が悪いんだよ。俺以外の男と会ったりするから」
頬を伝う涙がシーツを濡らす。ひんやりとした感触に頭の芯が冷える。
「どうすれば、俺だけを見てくれるようになるんだろうな」
私の涙をぬぐいながら太田は囁く。
「そんなに泣かないでくれよ。ただ笹本には、俺だけを見ていてほしいだけなんだ。そうすれば大事にする。とりあえず今日は帰る。明日仕事が終わったらまた会いに来るから、きっと部屋にいてくれよ。じゃあな、おやすみ」
太田は私の体に毛布をかけて立ち上がった。
私はベッドに横たわったまま、太田の足音が遠ざかって行くのを聞いていた。
玄関のドアが開き、閉められた後に続いて、ドアポストに鍵が落とされたと思われる金属音が響いた。
本当に太田と別れることができるのだろうか――。
私は不安と恐怖にぞっとして、毛布の中で体を丸めた。
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