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男は一旦高橋から離れると、よろけながら数歩だけ後退りした。

持っている果物ナイフが鮮血で汚れているというのに、街灯の明かりを受けてきらりと光ったように目に映ったのは、痛みをやり過ごすのに、顔を歪ませていたせいかもしれない。


「キャーッ!」


高橋たちの惨劇を目の当たりにした通行人の誰かが叫んだのを合図にしたのか、男がふたたび突進してくる。どこを刺されてもいいように下半身に重心を置きながら、突っ立ったまま衝撃を受け止めた。

勢いよく突進されたせいで、ぐらりと躰がふらつき、無様にその場へ倒れ込む。

人形のように力なく倒れた高橋の上に男は急いで跨り、果物ナイフを両手で持って振り上げた。怒りに血走った瞳が、自分をじっと見下ろす。

それには目を合わせずに、このあと振り下ろされるであろう果物ナイフだけを見つめた。

牧野にこき使われる毎日を、綺麗に断ち切ってくれるものとして。そして青年への想いをなくしてくれる神聖な道具という気持ちを持って、微笑みながらそれを凝視した。


「おまえなんか、死んでしまえばいいんだ!」


笑ったままでいる高橋の躰に、果物ナイフが下ろされる。何度も振り下ろされた状態でいたのにずっと笑うことができたのは、元恋人が提供した高いアルコール度数の美味かった酒の効能だった。


(最後の最期まで、アイツに頼りっぱなしになってしまったな――)


刺される感覚がなくなった高橋の上から、通行人の手によって男が引き離される。入れ違いに誰かが顔を覗き込んできた。


「大丈夫ですか? しっかりしてくださいっ」


自分の頬を軽く叩きながら、意識を確認した相手に顔を向けた。

夜目でもわかる、美麗な顔立ちの若い青年――茶色い髪の下にある目元に、色っぽい泣きぼくろがあって、心配そうな面持ちで高橋を眺める。


「周防は患者の介抱をしてくれ。俺は救急車に状況を連絡する!」

「わかりました、お願いします」


傍にいた中年の男性が指示をすると、高橋の脇に控えていた周防と呼ばれた男性が出血している部分を確認すべく、スーツの上着を脱がしにかかった。


「君は――」


男性の手を迷うことなく握りしめ、その動きを止めながら、息も絶えだえといった感じで、高橋は質問を投げかけた。


「安心してください、俺は医者です」


美麗な医者は柔らかく微笑んで、安堵感を与えつつ、高橋が掴んだ手を外そうとした。


「それなら、ちょうど、よか……た」

「そうですね。救急車が来るまでの間に、できる限りの応急処置をさせていただきます」


若い医者の笑顔につられて笑いかけながら、外されそうになった手に、ぎゅっと力を込めた。


「このまま、何もせずに見逃してく、れ」

「はい?」

「好き、なヤツがいるここで、逝きた、ぃんだ。頼む……」


唖然とした若い医者の顔から、頭上にある下弦の月に視線を向けた。か細い光加減が、最後に青年が高橋に注いだ優しさと比例しているように感じた。


「同じ、月を見ているだろ、うか」

「好きな人がいるなら、尚更生きなくちゃ駄目ですよ」

「ハハッ……残念なが、ら片想い、なんだ。永遠に叶うこと、のないもの……さ」

「永遠に叶うことのない片想い――」


高橋の言葉を聞いて、若い医者の顔が先ほどまで浮かべていた温和なものから、暗く憂鬱なものに変わった。


「見目麗し、い君でも、片想いをするもの、なのか」


応急処置の動きを止め、高橋に手を握られたままでいる当惑した若い医者に、優しく語りかけた。すると何かを言いかけて口をつぐんだ後に、か細い声で言葉を紡ぐ。


「誰だって、片想いのひとつやふたつくらい、普通にするものではないでしょうか」


苦しげに吐き出されるセリフで、若い医者は高橋の気持ちを共有してくれることを確証した。


「だったら俺の気持ち、がわかるだ、ろ? 最期の望みを聞いては……くれ、ないか。少しでも彼の存在を感じなが、ら死にたぃんだっ」


肩で息をしながら、喘ぐように告げられた言の葉に、若い医者は悲痛な面持ちをありありと浮かべて、躰を一瞬だけ震わせる。


「それは……」

「周防、何をしてるんだ。一刻を争う事態なんだぞ。どけっ!」


中年の男性が高橋と若い医者を繋いでいる手を無理やりに引き離し、間に割り込んできた。

歪んだ関係~夢で逢えたら~

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