◇◇◇
聖都ニュンフェハイムでは邪神の軍勢が現れたという報を受け、その対応へと動き出していた。
まともな作戦会議をする暇はなかったが、こういった状況に備えて防衛戦における戦力の配置については事前に練られている。
「敵の配置は?」
前の襲撃と同じく、現場の指揮は第一聖教騎士団の団長であるヨハネスが執っていた。
そんな彼の問い掛けに、補佐を務める騎士が落ち着いて返答する。
「前回と同様、ニュンフェハイムを包囲するように各方面へと展開しているようです」
「やはり、転移魔法か」
その報告を聞いたヨハネスが唸る。
世界樹の魔素によって守られているため、そのすぐ近くには転移させられないとはいえ、やはり転移魔法というのは脅威であった。
現状、防ぐ手立てがないその奇襲に対しては防衛線を築いて対応するという手段しか取ることができないのだ。
黙り込んでいるヨハネスに対し、報告を寄越した騎士とは別の騎士が声を上げる。
「やはり他国への襲撃は陽動だったのでは? 少しでも戦力を割くべきじゃなかったんだ……!」
「そう言うな、カイ。聖教団としても援助しないわけにはいかなかったんだ。それにまさか転移魔法を連続で使ってくるなど予想もできなかった」
カイと呼ばれた騎士が言うように、このニュンフェハイムに配備されている戦力は前回の襲撃時よりも少なかった。
前回の首脳会談で各国は協力体制を築くことに同意したものの、国の間で自由に兵士を派遣し合う制度は整備されておらず、他国からの救援も未だ難しい状況である。
また、このニュンフェハイムから襲撃を受けている両国へと向かわせた戦力の中には竜騎士団の一部が含まれていた。
足が速いからと派遣されたわけだが、彼らは貴重な航空戦力だ。
前回と同様に敵は航空戦力を出してくるだろう。空を飛び回ることができる敵に対応するには、やはりこちらも飛べることが望ましかった。
「団長の言う通りだ。今は起こったことにどう対処するのかを考えるべきだ」
「しかし、前回よりも戦力比が違い過ぎる。救世主殿も精霊様もいないのでは、邪族が出てきたときにどう対処すればいいんです」
「カイ」
団長の補佐を務めている騎士がまだ若い騎士を諫める。しかし、彼は悔しそうに拳を握るだけだった。
そこにヨハネスが割って入る。
「いや、彼女たちはこの場所に向かってきてくれているんだ。遠い国にいた可能性を考えると、むしろ僥倖であるといえる。それにな、カイ。俺は戦う前から諦めることをお前に教えたつもりはないぞ」
「団長……」
「何も戦う前から自ら士気を下げる必要はない。お前は若いが、俺と打ち合えるだけの実力がある。援軍が到着するまで、地上の敵を食い止めるのがお前の役目だ。その相手がたとえ邪族であってもな。期待しているぞ、カイ」
「――ッ! ハッ!」
敬礼をして、退出する若い騎士をヨハネスは見送る。
「まだ若い彼女たちを頼りにするなど騎士として不甲斐ないが、そうも言っていられない状況だな」
「仕方が、ないことなのでしょうね。あの方々の御力は偉大です。私たちとは大きく違う」
「だからと言って手をこまねいているわけにはいかない。我々は愛すべきものすべてに誓いを立てた騎士だ。全力でやれることをやるぞ」
そう言って決意を固める彼らのいる部屋のドアが勢いよく開いて、長身の男が入室してくる。
「兄貴、ギルドにいる冒険者には協力を取り付けてきたわ! 教団の指示下で戦ってくれるそうよ!」
「よくやったミハエル!」
ミーシャことミハエルは兄であるヨハネスに大量の紙を手渡す。
「それでこっちが冒険者のリスト。こき使ってあげてちょうだい」
「すまない、助かる。今は少しでも戦力が欲しい。お前も可能ならば戦線に加わってくれ」
「ええ、そのつもりよ」
凄まじい速度でリストに目を通しつつ別の紙に何かを記入しながら、ヨハネスは弟と会話を続ける。
「お前は遊撃に回ってくれ。下手に命令で縛り付けるよりも戦えるだろう?」
「そうね、そっちの方がありがたいわ。……ねえ、兄貴」
「ん?」
「敵は傀儡を投入してくるかしら?」
傀儡。四邪帝の1人である傀儡帝ヴィヴェカが魔物の死体を使って造り出す半自立型のアンデッドだ。
それは前回の襲撃においても投入され、遥か昔の大戦においても猛威を振るった邪神側が誇る脅威である。
弟からの問いにヨハネスは視線を落としたまま首肯した。
「まず間違いないだろう。投入しない理由がないからな」
「そうよね。転移魔法に傀儡……傀儡帝さえいなければと考えたくなるわ」
額を抑えてアンニュイな表情を浮かべるミーシャ。
その時、騎士から報告が上げられる。
「団長、敵先鋒との接触予想時刻までおよそ20分となりました」
「市民の避難状況は?」
「5割を超えたところです」
「……急造とはいえ、避難マニュアルが役に立ったな。よし、各部隊に伝達。敵が射程圏内に入った瞬間、各自攻撃を開始しろとな。敵に先手を取らせるなよ」
敬礼をして去っていく騎士を見送ると、ヨハネスはミーシャから渡されたリストとは別の紙を彼に手渡した。
「簡単にではあるが、冒険者たちの配置を割り振ってある」
「さすがね、兄貴。仕事が早いわ」
それにさっと目を通したミーシャがにんまりと笑う。
「よし、行ってくれ。頼んだぞ」
「了解よ!」
――そして十数分後、戦場の火蓋は魔法と魔法の衝突という形で切られたのだった。
◇◇◇
離陸し、ニュンフェハイム上空から地上を見下ろしていた竜騎士カーティス・レイベルクは唖然とする。
「なんて数だ……団長!」
「我々の標的はあくまで飛行型だ。奴らはここで釘付けにする! 1匹たりとも地上に向かわせるんじゃないぞ!」
聖教竜騎士団の団長を務める男はカーティスの呼び声に対して、団員全体に檄を飛ばすことで応えた。
団長の声に団員たちは短いながらも力強い返答をする。そのことからも竜騎士団の士気が高いことが窺えた。
防衛範囲はニュンフェハイム全域。
地理的な影響を無視して進行できる飛行型の相手に対しては非常に厳しい戦いになると予想された。
それでもだ。彼らは皆、戦う前から諦めるような戦士ではなかった。
「ヴォルケ……無茶をするぞ。昔のようにな」
そう言って男は相棒の背中に拳を打ち付けた。そして愛竜もまた唸り声を上げることで彼に応える。
それに甲冑の奥で笑みを浮かべた男は飛竜に加速を指示する。
「ゆく!」
急加速しながら突出する男が向かう先には、ある程度まとまりながら飛行する傀儡となったワイバーンの姿があった。
彼らは自分たちの方へまっすぐ向かってくる存在に気付くと、それを撃墜するために動き出す。
1体の飛竜に対して複数で包囲するように動く傀儡たち。それを見て男は真上へ上昇するように飛竜へと指示を出した。
減速なしの急上昇によって、当然その老体には負担が重く圧し掛かるが、重力に負けないように彼らはぐんぐん加速していく。
傀儡たちもそれに1体として遅れずに追従してブレスによる攻撃を敢行する。
その攻撃が時折、男たちの体を掠めていくが彼らが怯むことはない。
今度は男たちが反撃する番だった。彼の乗った飛竜が急制動をかけて反転すると今度は地上に向けてまっすぐ急降下し始めたのだ。
地上に向かう途中、彼らを追いかけていた傀儡たちともすれ違う。
自律的かつ統制的な行動をとれるように調整された傀儡たちには生物的な反応がほとんど残っていない。
そのため想定外の場面に遭遇した場合、反射的な行動すらとれずに次の行動へ移る際に大きな遅延が生じるのだ。
反応できていない傀儡たちに対して、男は【インベントリ】の機能を要するポーチ型の魔導具から取り出した2本の槍を1本ずつ手に持つと、それを逆手に握り替えた。
「ヤァーッ!」
そして最高速度に達した状態で傀儡たちの脇を通り過ぎる際に、それらを勢いのまま敵の胴体へと突き刺したのだ。
飛ぶ力を失い、落下していく傀儡たちの姿を離れた場所から見ていた騎士たちは口から感嘆の声を漏らす。
その中でも真っ先に正気を取り戻したカーティスは自分の飛竜に指示を出すとともに仲間たちに声を掛ける。
「我々も続くッ!」
傀儡たちがいる方向へと向かっていくカーティスを見て、竜騎士たちも各々動き始める。
そこからは一進一退の攻防が続いた。
竜騎士たちの犠牲も決して少なくはなかったが、一人一人が奮闘を続けることで傀儡の飛行部隊を空の上で釘付けにすることには成功していた。
しかし、戦況は切迫している。キッカケひとつでどちらに転んでもおかしくはないほどに。
――そして、この戦場には意思なき者たちを率いる存在の姿もあった。
「……あの程度で処理が追い付かなくなるなんて調整不足だったかなぁ。全然完璧じゃないじゃん。これじゃプーちゃんに怒られちゃうって…………もう、仕方ないなぁ」
ニュンフェハイム上空での戦いを遠く離れた丘の上から眺めていた少女がつまらなそうに口を尖らせ、手に持った大鎌の柄を地面へと突き立てる。
すると少女の背後の空間が歪み始め、その歪みの中から10メートルほどの大きさを持つドラゴンが現れた。
「おばさんたちも動くみたいだし、さっさと行って」
大鎌に備え付けられた刺突用の突起部分で戦場を指すと、ドラゴンはすぐさま飛び立っていく。
「プーちゃんにあげようと思っていた貴重なお人形を使ってあげるんだから、せめていっぱい死んでヴィヴェカちゃんのことを楽しませてね。キャハハハハハ」
それを見送る少女は口元を大きく歪ませた。
「ハァ……ハァ……チィッ、こうも体にガタが来ているとは…………む?」
その異変にいち早く気付いたのは傀儡と激しいイタチごっこを繰り返しながらも戦況を見極めていた竜騎士団団長であった。
彼は彼方より近づいてくる新たな脅威が上空から地上を目掛けて降下していく姿を見つける。
「いかん!」
だが気付いたとしてもそれを止める手立てはない。
その強大な存在から放たれた黒い炎の奔流は地上で戦う部隊の一角を飲み込んだ。
「馬鹿な……龍種だと!?」
傀儡のワイバーンを相手取るだけでもギリギリであるのにここで増援、それも強力な龍種が現れたという事実は彼らにとって絶望的である。
だが、己が絶望することを彼は良しとしなかった。それは他の騎士たちも同様だ。
「一個小隊、俺に付いてこい! 龍種と言えど成体には至っていない個体だ、ワイバーンを50体相手にするよりかは楽な戦いだろう!」
不敵な笑みを浮かべながら力強い言葉を紡ぐ男だが、その額には冷や汗が流れていた。そんな単純な戦いではないということを彼はハッキリと感じ取っている。
そして団長からの命令に従おうとする騎士たちもまた、そんな予感を心のどこかに抱いていたが、だからといってやらないという選択肢は騎士である彼らの中にはなかった。
――しかし、いくら覚悟したとて堅牢な鱗を前にその刃は届かない。
絶え間ない攻撃に晒され続けた龍の全身には小さな傷が無数に刻まれていたが、どれも致命傷には至らないものだ。
だが龍の攻撃は違う。これまでにまた数名の騎士と飛竜が命を落としているのだ。
騎士たちは一度、息を整えるために龍との距離を取る。
その時、カーティスと団長を乗せた飛竜が隣に並んだ。
「カーティス……この戦い、残りはお前が指揮を執れ」
「ハァ……ハァ……団長? 何をっ!」
有無を言わせぬまま、団長と彼の相棒ヴォルケは再び龍に向かって加速する。
その圧倒的な加速力に誰もが呆気にとられた。
「ヴォルケ……俺たちは風だ。今度こそ風になるんだ」
男の呟きに飛竜もまた小さく啼いた。
後方へと強く引っ張られる感覚を覚えながら、男はポーチの中からこれまで見せたどの槍とも違う長大な1本を取り出した。
「魔槍よ、俺とヴォルケの魔力を吸い尽くせ!」
彼の言葉と共にその槍の内部が唸り始めた。槍が男の体内から魔力を吸収しているのだ。
それだけではなく、彼と接触している彼の相棒からも魔力を吸い出そうとする。そしてヴォルケもまた、その感覚に全てを委ねた。
魔力不足により、朦朧とし始める意識の中で彼らはしっかりと標的だけは捉え続けている。
速度だけは維持しているものの緩慢な動きで接近してくる彼らに龍の暴威が迫る。
その攻撃はヴォルケの半身を吹き飛ばした。だが命の灯が失われつつある中でも彼は残った牙で龍の翼膜へと噛みつく。
そして龍の背中には長大な槍を振りかざす小さな人影があった。
「我らの命は――ッ!」
先端に風が渦巻いているその魔槍を龍の鱗へと突き立てた瞬間、空中で暴れまわる龍が彼らを振り払い、彼らの体を鋭利な爪で引き裂く。
――だがその直後、龍の肉体が内側から爆ぜた。
「団長ーッ!」
その光景を一部始終見ていたカーティスの叫び声がニュンフェハイムの空に木霊した。
◇◇◇
時間は少し遡り、龍種が戦闘空域に侵入してきた頃のことだ。
龍が現れた方向とは別方向に展開していた部隊の前に、ドレス姿で妖艶な雰囲気を纏わせた女性が翼を生やした顔色の悪い男たちを引き連れて現れる。
「人間、なのか?」
「そんなわけねぇだろ! 奴らが邪族だ!」
部隊を率いていた騎士が叱責する。その言葉で彼らは慌てて武器を構え直した。
――だが次の瞬間、冷気が駆け抜けて彼らの足先から順番にその体へと氷が纏わりついていく。
「な、なんだ!?」
「動けん!」
慌てふためく彼らに対して、件の女性が肩を震わせて笑う。
「アーハッハッハッハ! そう、これよぉ! その声、この感覚……昔を思い出してゾクゾクするわぁ」
悦に浸った表情を浮かべる女に対して、その後ろに控えていた男の1人が呼びかける。
「エゾルダ、サマ。コイツラ、血ヲ頂イテ、イイノカ?」
「…………」
先程までの表情が全て無に還り、冷たい目をした女が指を軽く曲げる。
「グッ……ナゼ……」
彼女へと呼びかけた男の胸には大きな氷柱が突き刺さっていた。
そうして倒れ落ちる男を女は蔑んだ表情で見下ろす。
「イゾルダ様、よ。アンタたちもコイツのようになりたくなかったら、大人しくしてなさい」
冷たい目線を向けられた背後の男たちは情けない声を上げた。
そんな彼らの反応に女の視線がより一層冷たいものへと変わる。同時に周囲の温度もグッと下がったかのような錯覚を騎士たちは覚えた。
「チッ……台無しよ、台無し。これだから進化させたばかりの獣臭さが残っているヤツらはイヤね」
「待て……イゾルダだと? まさか氷血帝イゾルダか!?」
人間側の部隊を率いていた騎士が上げる声に無表情であった女――イゾルダの顔に笑みが咲いた。
「あぁら、ちゃんと知っていてくれていたのね。そうよ、強くて美しいイゾルダ様とはこのアタシのこと」
彼女が認めたことで問い掛けた騎士が苦い顔を浮かべる。身動きが取れない彼らはまさにまな板の鯉だった。
さらにそこへ彼らが先ほどまで戦っていた邪魔や傀儡たちが接近してきたことがその絶望へと拍車を掛ける。
――だが、それらは彼らに近付く前に氷で覆われてしまった。
「獣たちはもっての外だけど、あの娘のお人形も邪魔ね」
「仲間じゃねえのか……!?」
味方であるはずの邪魔や傀儡たちでさえも容赦なく氷漬けにするその邪族に騎士たちは困惑していた。
しかし、傀儡がいなくなったからといって脅威が去ったわけではない。
「さてと、ふぅん……」
イゾルダが手足を動かせない彼らに対して始めたのは、彼らの顔の鑑賞だった。
恐ろしい存在にジロジロと見つめられる彼らは心臓をつままれるような思いで彼女が過ぎ去るのを待つ。
「運命を感じさせてくれるようなヒトはいないわね。でも悪くないのもちらほら……いくつか観賞用に持ち帰ろうかしら」
恐ろしいことを宣うイゾルダに視線を向けられた者たちが震えあがる。
「やらせねぇ!」
そこに彼らを率いていた騎士が剣を手に駆け出した。彼はイゾルダが鑑賞に夢中になっていた隙を突いて、己の火魔法で氷を溶かしていたのだ。
背後から迫る騎士に対して、イゾルダはいくつもの氷柱を地上から生やして迎撃するが、彼はそれを軽やかなステップと火魔法を使うことで躱しつつ肉薄する。
「はぁ……アタシ、アンタみたいなタイプは特に嫌いなのよねぇ――」
イゾルダが手のひらを開くと、騎士を囲うように無数の氷柱が現れる。
騎士は先ほどと同様に火魔法で氷を溶かそうとするが――今度の氷柱は溶け出す素振りを見せなかった。
彼が目を見開いている間にイゾルダが開いていた手を握り込む。
「――暑苦しくて」
鮮血が舞い、騎士は断末魔を上げる暇もないまま一瞬にして息絶えた。
飛び散る血潮から自身を守るように氷壁を作り出していたイゾルダがその壁を崩壊させるとともにドレスを叩く。
「やぁねぇ……臭いがドレスについちゃったらどうしてくれるのよ。ただでさえ臭味の強そうな血なのにぃ」
そう言いつつもイゾルダは騎士の無惨な死体へと近づいていくと、足元のそれを自分が連れてきた邪族たちの方へ蹴り飛ばした。
飛んできた死体を全員で貪り始めた彼らを見て、彼女は顔を顰める。
「進化させたところで、元の知能が低いとやっぱり醜いわねぇ」
「……あ、悪魔め……」
「ん?」
震える声で紡がれた言葉をイゾルダの鼓膜を震わせる。
彼女が声のする方向へと顔を向けると、女騎士が怒りの形相で責め立てた。
「お前は悪魔だ! よくも隊長をッ!」
「アレの部下? 顔は悪くないのにすっかりむさ苦しさが移っちゃってるじゃない……」
冷めた目で指を突き付けられた女騎士が一瞬喉を鳴らすが、それでも彼女は負けじと口を動かす。
「絶対に許すものか! お前だけは絶対に地獄へ落としてやるッ!」
「ハイハイ。もう味見する気も失せたわ……死になさい」
鋭く尖った氷柱を指先に作り出したイゾルダ。
――だが今にも女騎士の眉間に向かって放たれんという瀬戸際で、彼女は不意に目を見開くとその場から飛び退いた。
直後、イゾルダの鼻先を火炎が掠めていく。
「あっつ!?」
指先の氷柱はとうに融けてしまっていた。
イゾルダが恨めしげに見つめる先には走り去っていく1頭のスレイプニルの他に2人の少女の姿があった。
「これ以上好き勝手はさせないわよ、邪族」
「精霊……!」
ヒバナとシズクが並び立ち、イゾルダへと杖を向けた。
「すごい存在感……前に戦ったのとは違う……」
忌々しげに見つめられている2人のうち、シズクが表情を引き締める。
それに対してヒバナはイゾルダを睨みつけたまま何の反応を示さなかったが、シズクがそれを気にした様子はない。
――その時だった。
イゾルダの周囲にいた人間の一部が体に纏わりつく氷を打ち砕き、数人の騎士がイゾルダへと斬りかかったのだ。
そしてそれ以外の者たちもまた、イゾルダへ魔法を浴びせかけようとしていた。
先程のヒバナの魔法により、周囲の温度が上昇したことで彼らの動きを阻んでいた氷が解け始めていたのだ。
「チッ、面倒ね……」
悪態をついたイゾルダは地面を強く蹴り、黒い蝙蝠のような翼を広げるとその場から離脱する。
「アンタたち、お人形と一緒に雑魚の相手をしていなさい。アタシはその精霊たちと遊んでいるわ」
彼女の命令により、後ろに控えていた邪族たちが嬉々として人間たちに向かって駆け出す。それと同時にイゾルダは指を鳴らし、氷漬けにしていた傀儡たちを解放した。
その様子をシズクたちも指を咥えたまま見ていたわけではなかった。
ヒバナは火魔法の熱を利用し、人間たちを解放していく。一方シズクは自分たちの近くに降り立とうとするイゾルダに向けて、鋭くうねる数本の水流を放った。
自分の足元から迫る水流に対して、イゾルダは不敵な笑みを浮かべるだけで避けようとはしない。
そして彼女は手のひらを水流へと向けた。
「凍りなさい」
その声が引き金となったかのようにシズクの水魔法たちはイゾルダに近い先端から急速に凍り付いていき、やがて完全にただの氷柱へと成り果てた。
だがそれだけではない。
「行きなさい」
イゾルダが腕を振るうとその氷柱となった水魔法たちは一斉に反転し、先端をシズクとヒバナに向けて勢いよく飛んでいく。
「魔法の制御を奪われた!?」
「任せてっ!」
シズクの代わりに一歩前へと躍り出たヒバナの杖先から炎が迸る。彼女がそれを薙ぎ払うように振るうと、彼女たちに向かっていた氷柱は全て掻き消されていった。
2人の前にイゾルダが降り立つ。
「氷使いに水魔法は悪手よぉ? 氷は水の上位属性……凍らせれば制御はアタシの物になるんだから。もしかして、知らなかったのかしらぁ?」
くすくす、と手で口を押えて笑うイゾルダに対してシズクが顔を思いきり赤くして反論する。
「知識では知ってた! 見たことなかっただけっ!」
「ムキになっちゃってまぁ……かわいいわねぇ」
そんなシズクに余裕を持った表情で対応するイゾルダ。
顔を赤くしたままのシズクにヒバナが小さな声で呼びかける。
「シズ、落ち着きなさい。アイツの言葉に呑まれちゃダメよ」
「ひーちゃん……うん、そうだよね」
「積極的に攻撃を仕掛けてくるわけじゃないみたいだし、なめられているみたいで癪ではあるけど少し様子を見るわ。いいわね?」
ヒバナの問い掛けに対して、シズクは無言でうなずく。
その様子を微笑みを浮かべながら観察していたイゾルダはピクッと眉を上げた。
「あぁら? よく見ると本当に可愛らしい顔。結構好みかも」
「……は?」
間の抜けた声がヒバナとシズク、その両方の口から飛び出す。
そんな彼女たちを気にすることなく、イゾルダは語り始める。
「アタシ、実は女もイケる口なのよねぇ。血を飲むなら男よりも断然乙女。でも残念だわ、精霊の血って飲めたものじゃないんだもの。なら観賞用に氷漬けかしら」
そんな彼女に対する2人の反応は唯々冷めたものだった。
「……何よコイツ、変なことをぺちゃくちゃと」
「……あなたなんかに好かれても気味が悪いだけだよ」
似たような目付きとなった2人の視線に晒されたイゾルダはヒールの爪先で地面を叩く。
「あら生意気。これは分からせてあげないと駄目かしら? それに観賞用でも同じ顔を2つはいらないわよねぇ……そっちの赤髪は見ているだけで暑苦しいことだし」
「ッ! 来る!」
叫ぶヒバナは地面から飛び出してきた氷山をステップを踏むことで避けていく。
それと同時に十数本の氷柱が彼女へと迫ってきていた。
「【ブレイズ・ランス】!」
咄嗟に数発の炎の槍を生み出し、氷柱を迎撃する。
「甘いのよねぇ……対策がないわけないじゃない。疲れるからあんまり使いたくはないけどね」
熱に弱い氷魔法を打ち消し、あわよくばそのままイゾルダを攻撃しようとしていたヒバナの目論見は崩れ去ることになる。
「溶けない!?」
熱で溶けるはずだった氷魔法が溶けずに形を保ったままヒバナの炎魔法と衝突、それを相殺する。
だが炎の槍では数が足りず、数本の氷柱が未だヒバナに向けて迫ってきていた。
「ひーちゃん!」
追加の魔法をヒバナが放つよりも先に、シズクが水魔法を放って迎撃しようとする。
――しかし、彼女の放った水魔法は全て凍らされ、制御を奪われた状態でヒバナへの攻撃に利用される。
最初の氷柱を迎撃したヒバナもさらに数が増えたそれらに対応しきることはできない。
あわや突き刺さるといった直前、シズクがヒバナの体に飛びつき、その勢いを利用して射線からヒバナと自分を脱出させる。
氷柱は何もない地面に突き刺さり、彼女たちはローブを土で汚しながらもなんとか脅威を回避した。
地面を転がっている間もヒバナは警戒して、杖をイゾルダに向け続けている。だがイゾルダが追撃を仕掛けてくる様子はない。
彼女は残念そうに肩を竦めると立ち上がる双子へと語り掛けた。
「あら、もう少しだったのに。……それで? いつまで馬鹿みたいに水魔法を使うつもり? あなたも氷魔法を使えばいいじゃない」
「……っ」
シズクが悔しそうに歯噛みする。
ヒバナを守るために咄嗟に使った水魔法が逆にヒバナを危険に晒してしまった。かといって今のシズクでは氷魔法の適性が低すぎる。
「ちょっと、あんまりシズを馬鹿にしないでくれる? そんなものを使わなくても、私たちはあんたなんかに負けたりしないわ」
「あら、ごめんなさいねぇ。でもアンタはまだしもそっちのは足手纏いにしかならないと思うけどぉ? 危うくアンタはその子のせいで死にかけたってこと、分かっているのかしら?」
その言葉にシズクは俯く。
彼女の反応にイゾルダは満足感を覚えながらも同時に別のことを考えていた。
(氷魔法を満足に使えない……ならアイツらの情報通り、まだまだ幼い精霊たちなのね。なのにここまで見ただけでも魔法は少なくとも中精霊以上……まだまだ余力を残してそうではあるし、早めに始末しないと後々厄介なことになりそうね)
面白くない、と顰め面を浮かべながら密かに決意を固めるイゾルダ。
それを傍目にヒバナは俯くシズクの肩を抱き寄せた。
「2人の力を合わせれば勝てない相手じゃないわ」
「でもこの状況じゃ、あたしはいないのと同じ。温度操作と攻撃魔法の併用なんてできないし、フィデルティアも使えない……眷属スキルもみんなが一斉に使うとまずいし……」
イゾルダとの戦いを有利に進める為の手段はいくつかあるが、そのどれもが技量やデメリットの観点から現状で使用するのは難しいと言わざるを得なかった。
水魔法しか使えない自分ではどうやっても役に立てないというシズクにヒバナは首を横に振る。
「魔法だけがあなたの力じゃないわ、シズ。あなたにはここがあるじゃない」
そう言ってヒバナが指したのはシズクの額だった。
「あなたにはこれまで蓄えた知識とよく回る頭があるわ。私にはないものなんだから、それを活かさない手はないでしょ?」
ハッと顔を上げたシズクはヒバナの横顔を見る。その目にはもう迷いはなかった。
「まずはあの溶けない氷のカラクリを教えて」
「うん。あれは魔力の層を維持して外部からの熱を遮断してる。だから普通に魔法を使うよりも消耗は激しくて、制御も難しいはず」
「だったら特性とか考えずに同等以上の魔法をぶつけてやればいいってことね」
氷魔法が熱に弱いという性質をカバーしているというのなら、後に残るのは純粋な魔法同士の火力勝負だ。
「……悔しいけど、あたしじゃ完璧に使えこなせない高度な技術だよ。あたしよりもあいつの方が制御が何倍も上手い」
「そうよ。アンタたちはイゾルダ様の足元にも及ばない木っ端精霊。身の程を弁えなさい」
イゾルダがやったものと同様に、水魔法においても氷魔法の影響を防ぐことは理論上可能ではあるのだが、それほど簡単なものではない。
長く生き、それだけの技術を身に着ける時間があった彼女だからこそ難なく使ってみせているだけだ。
そんな敵からの言葉を無視して、シズクはヒバナへと告げる。
「でもね、あるんだ。そんな技術を使わなくてもあたしが……あたしたちが2人であいつと戦う方法」
「シズ?」
「ひーちゃん、あたしを感じててね」
そう言ったシズクはヒバナと並び、杖をイゾルダへと向ける。
ヒバナも完全に納得したわけではなかったが、シズクが何を自分に求めているのかは理解したので迷わずに敵を見据えた。
「及ばないと理解したんじゃなかったのかしら?」
「……1人じゃないから」
「は?」
「1人じゃないから、あたしだってあなたと戦えるんだ。【レイジング・アビス】!」
魔導書を右手で開き、シズクは大きな水流を前方に撃ち出す。
「【レイジング・ブレイズ】!」
それに合わせるようにヒバナも激しく燃え上がる炎を迸らせる。それらは螺旋を描くように絡み合い、敵を目掛けて飛んでいく。
その光景にイゾルダは目を見開いた。
「この一瞬で波長を合わせたっていうの!? チィッ!」
イゾルダもまた巨大な氷の礫を作り出して対抗することを選んだ。
シズクの水魔法はヒバナの火魔法と反発を招くことがなかった。それどころか、むしろ積極的にそこから与えられる熱を受け入れている。
それは波長が極限まで近づいた魔法同士ではないと難しいことだというのに、その調整を一瞬で行ってみせた2人にイゾルダは驚愕したのだ。
「その氷魔法は溶かされないように熱を遮断しているだけ!」
「熱湯を瞬間的に凍らせる力はないってことよ! だったら!」
ヒバナの魔法により、温度が極限まで引き上げられたシズクの水魔法はもう凍らされることはない。2人分の魔法は明らかにイゾルダの礫を圧していた。
――そしてそれだけではない。
突如この戦場に歌が鳴り響いた時、ヒバナとシズクの魔法は苛烈さをさらに増したのだ。
「クッ、砕けなさい!」
咄嗟に礫を内部から破裂させたイゾルダがその場から離脱する。
その余波により立ち昇っていった煙がやがて完全に消え去った時、両陣営は激しい睨み合いを演じていた。
「何よ……歌? ここはコンサート会場ではなくってよ」
戦場を包む歌声に困惑しながらも忌々しそうにあたりを見渡すイゾルダとは対照的に、この歌の正体をヒバナとシズクは知っている。
「ノドカの歌……」
「これなら、もうあたしたちは絶対に負けない」
ノドカの眷属スキル《カンタービレ》により、今の彼女たちの魔法は明らかに平常時よりも強力になっていた。
ただでさえ2対1で優位に立っていたのに、そこへノドカの支援も加われば彼女たちがイゾルダに負けるはずもなかった。
「チッ、精霊ごときがあんまり調子に乗るんじゃないわよ! 【アブソリュート――」
表情を歪ませたイゾルダが両手を前に突き出した状態で大量の魔力を行使しようとする。
だがその時、彼女は自分の手が少しずつ透けていっていることを確認してしまった。
「時間切れ……!? それにアイツらも全滅ですって……無理矢理進化させたとはいえ、なんて使えないヤツらよ……!」
激しい戦いを繰り広げている騎士や冒険者のいる方向に視線を向けたイゾルダは自分が連れてきた邪族が既に全滅していることを確認し、表情を歪めていた。
そうして彼女は正面に向き直る。
「ここで仕留められなかったのは痛いけど……覚えたわよ、双子の精霊!」
そう言い残して、イゾルダの体はその場から完全に消えていった。
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