テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
やがてタクシーのテールランプが、夜の通りの向こうへ消えていく。
それを見届けてから、神崎は事務所へ戻ってきた。
「……あんなふうに言って、大丈夫でしょうか」
一花が榊を見る。
「逆に、奈緒が追い詰められて……あの人に何か話したりしたら」
「その逆」
榊は椅子を回し、パソコンへ向き直った。
「自分が信用されてないって、あれだけはっきり分からせた方が下手なことはしにくい」
「……そういうものですか?」
「こっちが何を警戒してるかも伝わったしな。これだけ釘刺しとけば、余計なこと考えないでしょ」
さらりと言って、榊はキーボードへ指を置く。
最初から、奈緒への言葉も牽制のひとつだったらしい。
「じゃあ、ここからが本題」
一花も画面へ視線を向けた。
「追跡は?」
「ああ。ちゃんと収穫はあった」
榊がいくつかの画面を切り替える。
「あの女の名前は、三枝志保。三十四歳」
表示されたのは、小さなPR会社のウェブサイトだった。
社員紹介のページには、昼間に会った女と同じ顔が載っている。
柔らかな笑みを浮かべた写真だけを見れば、カフェで奈緒を追い詰めていた人物と同一人物には思えなかった。
「企業広報やPR、危機対応のコンサルなんかを請け負ってる会社だ。三枝はそこでプロジェクトマネージャーをやってる」
「危機対応……」
神崎が低く繰り返した。
「表に出せない問題を処理する仕事とも、相性はよさそうだな」
「まあな。もちろん、表向きは真っ当な会社だけど」
「今日も、そこへ戻ったんですか?」
一花が尋ねる。
「最後はな。その前に何か所か寄ってる」
榊は別の画面を開いた。
「ただ、会社のサイトだけ見てても大したことは出てこない。取引先もほとんど公開してないし、実績も当たり障りのないものばっかり」
「じゃあ……」
733
きなこもち
183
#サレ妻
都築七美
1,141
「別のところで、一件だけ引っかかった」
榊が開いたのは、数年前に開催されたイベントについての記事だった。
画面をスクロールし、下部に並ぶ運営企業の一覧を指す。
「このイベント。運営協力に三枝の会社が入ってる」
一花は画面を覗き込んだ。
見覚えのない企業名がいくつも並んでいる。
「これが、何か……?」
「主催側を辿った」
榊が別のページを開く。
「……ここ」
一花は示された企業名へ目を落とした。
その下に、小さく記されているグループ名。
「……西園寺?」
一花が口にした途端、榊の指が止まった。
隣にいた神崎も、画面を見つめたままわずかに表情を硬くする。
「正確には、西園寺グループの関連会社」
答えた榊の声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「三枝の会社が、過去にここの仕事へ入ってる」
一花は榊と神崎を見比べた。
ほんの少し前までとは、二人の空気が明らかに違っている。
「……何かあるんですか?」
榊はすぐには答えなかった。
「今のところ、今回の件と西園寺が関係してる証拠はない」
そう前置きして、画面に視線を戻す。
「三枝の会社が、過去に西園寺側の仕事を請けていた。それ以上のことは、まだ何も分かってない」
「じゃあ、どうして……」
榊は短く息を吐いた。
「ただ……俺たちにとって、簡単には受け流せない名前でもある」
一花の胸に、新たな疑問が浮かぶ。
「それって、どういう――」
榊は答える代わりに、隣の神崎へちらりと視線を向けた。
神崎は一瞬だけ目を伏せる。
それから一花へ向き直り、静かに口を開いた。
「その話は、また今度にしましょう」
いつもと変わらない落ち着いた声だった。
けれど、その表情にはどこか硬いものが残っている。
「今は、この三枝志保を優先した方がいい」
「……分かりました」
一花はまだ気になりながらも、それ以上は聞かなかった。
榊も再びパソコンへ向き直る。
「今見つけられたのは、この一件だけだ。ただ、接点があると分かった以上、もう少し掘ってみる価値はある」
一花は頷きながら、もう一度画面へ目を戻した。
――西園寺。
その名前を見つめているうちに、記憶の底からひとりの女の姿が浮かび上がる。
母の葬儀の日。
焼香を終えたあと、一花へ静かに声をかけてきた、綺麗な女性。
『今はお辛いと思いますけれど……きっと、またそれぞれに幸せになれる日が来ますから』
柔らかな声。
整った顔に浮かんでいた、穏やかな微笑み。
そして、耳元で静かに揺れていた蝶のピアス。
「……西園寺、牡丹」
短い電子音のあと、玄関の扉が静かに開いた。
室内のやわらかな灯りを背に、女が姿を現す。
その女はいつもと変わらない笑みを浮かべ、俊介を迎え入れた。
「中に入って」
促されるまま、俊介は部屋へ足を踏み入れる。
背後で扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
「久しぶりね」
女は俊介の顔を見つめ、ゆっくりと首を傾げる。
「あなたがここに来るのは――あの日以来かしら」
俊介は答えなかった。
あの日。
家族が炎の中にいたとも知らず、自分がこの部屋で過ごしていた夜。
その記憶が、胸の奥を鈍く締めつける。
何も言わず俯く俊介へ、女が一歩近づいた。
やがて細い指先が、そっと彼の頬へ触れる。
「ずっと、会いたかったわ……俊介」
俊介の身体がわずかに強張る。
女はそんな彼の反応すら愛おしむように、目を細めた。
——西園寺牡丹。
艶やかな笑みが、ゆっくりとその美しい顔に咲く。
春子の葬儀で、一花を気遣うように微笑んでいた時と同じように。
コメント
1件
神崎と榊の、あの落ち着いたやりとりにほっとしたのも束の間…「西園寺」の名前が出た瞬間の空気の変わり方、ゾッとしました。榊が軽さを消して「俺たちにとって簡単には受け流せない名前」と言った重みが、すごく伝わってきて。葬儀の日の牡丹さんが、今ここで繋がってくる感じ、背筋が伸びる思いです…!