テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,231
#ワンナイトラブ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
心がペちゃんこに潰れたあの夜
『俺ん家に、居れば?』
私の心を掬ってくれたのは、 意地悪な後輩くんだった。
たぶんあの時、 私の心は簡単に、 半分落っこちた。
◆
ストローはさっきからずるずると空気を吸い込んでいるのに、気にも留めずに1人でぼんやりとスマホを眺めた。
まだ時間に余裕があるから、私だけしか居ないミーティングルームにその間抜けな音は虚しく響く。
ただ、流れるように画面を指で操作して、ストローを深く指すと口の中に広がる甘さを堪能して、誰にも聞かせることの無いため息をひとつ、吐き出した。
…………伝えるだけ、伝えよう。
でも、伝えるならちゃんと準備をしなきゃ。
尚且つ常葉くんに気づかれないうちに。
急がないと、あんな勘が良い人だから簡単に気持ちを読み取るに違いないから。
……大丈夫、欲張らずに今の預金で賄える所を探せばいい。運良くもうすぐ週末だし、この平日探して土曜に下見して……
「なんだ、お前引越しすんの?」
「ひっ」と短く肩を震わせて振り向けば、ミーティングが始まる前にと呼び出していた先輩が居るのでほっと胸を撫で下ろす。
「引越しかぁ、穂波、今どの辺に住んでんの?」
直ぐにスマホはポケットの中へ仕舞ったというのに、先輩は面白おかしく食いついて逃そうとしなかった。
「個人情報です。今のは忘れてください。」
「大丈夫、俺口かたいから。本間とのことも言わないし」
「それとこれとは別です。スマホを覗き見する人の言葉は信用できません」
きっぱりと断言すると、その人は「あぁ悲しい」と、芝居がかった様に手を翻す。
「で、何か急用?」
しかし、途端に声色が変わるので、私も「はい」と姿勢を正した。
昨日、目が覚めて、再び眠りに落ちるまでに考えた。
常葉くんの事が好きだと自覚してしまったから、私がやることを簡単に頭の中で纏めたのだ。
陳腐な脳みそが導き出したのは、先程の引越しの件と……もうひとつ。
テーブルに置いていたファイルを取ると、大里さんに向かって差し出した。
「これは今朝私のデスクに置かれていた書類です。昨日、眞鍋さんにお願いしたレジュメです」
「この量を……は?今朝?」
「はい。昨日、私はボイスレコーダーと共にもうひとつ眞鍋さんにある物を渡しました」
「ある物?」と、大里さんの視線が書類から私へ注がれる。
「大里さんが取られたメモです」
それを告げると「へぇ、」と、彼の目元が満足気に細くなって、些細なシワが乗る。
時期課長だとか、キャリア組間違いなしだとか、衆目を浴びる営業の大里さんは、社内でも群を抜いて字が下手なのだ。しかもアナログ組なので書類はいつも手書き。
入社したての頃の私は、教育係を請け負ってくれた彼の暗号めいた文字に慣れるのに必死だった。
……だけど、眞鍋さんは、
一度、ぎゅっと自分の手に力を込めて、再度大里さんの顔を見上げた。
「……以前、眞鍋さんに大里さんの話をしたことがあります。その日から、きっと大里さんの事を調べたのでしょう。一日であの文字を解読するのは流石に難しいです」
「自分で言うのもなんだけど。そうだろうな」
苦笑いをしながら「すげぇな。ちゃんと纏めてある」と、大里さんは満足気に頷く。
「手直しもありますが、彼女でしたら私の補佐はもう必要ないかと思います」
「そうだな、穂波のお墨付きがあれば間違いないだろう」
「はい、ですので」
───そう、だから。
自分に言い聞かせるように、前を向く。
「本業もありますので、今日限りでこのチームからは抜けさせてもらいます。その事を、部長達に打診して下さい」
気持ちを隠したいから、
常葉くんとは、家以外で必要以上に顔を合わせないようにしなきゃ。
こんな自分本位で情けない理由を、後輩の眞鍋さんのせいにする私はずるい。だけど、形振り構っていられない。
「そうか、残念だ」
「そう言って頂いて、嬉しいです」
「では」と、頭を下げた瞬間「お疲れ様です」と、いくつかの声が部屋の中に響いた。