「…え?」
春と言えどまだ涼しい風が辺りを通り過ぎる。
「あの…好き、です。本当に!」
恥ずかしげに言う彼女はどこから見ても可愛らしい。しかし、そうじゃない。
「好きかどうかを疑ってる訳じゃねぇんだ。ただ、俺が言いたいのは…その恋情が純粋なものなのかってこと」
あぁ、もっと噛み砕いて説明した方がいいだろうか。なんて、普段なら思わない様なことばかりがどんどん頭を過っていく。いつもより頭と口が余分に、要らない程回っている様な気がする。
「お前のその好きって、情とか、恩とか、憧憬とか…そういうので出来てるんじゃないかって」
逸る俺に対して世界は変わらずゆっくりと進む。その時差にもどかしさが募る。
「それが悪いって言いたい訳じゃねぇ。でも、それでお前の人生を貰う事は…出来ないだろ」
フランチェスカの脳にやっとこさ俺の言葉が届いた様で、ぱちりと瞬きして唇を震わした。
「…あ」
言葉は出て来なかった。それでも、瞳を見れば何も問題はなかった。いつだってその瞳は何よりも雄弁に答えを語っていたから。
『わからない』
その答えだけで充分過ぎる程だった。
「…ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」
立ち上がって返事を聞く間もなく走り出した。一歩、二歩、三歩。踏み出す度にその足は速くなっていく。灯も持たず、周りも見ず、ただひたすらに足を動かす。後ろに聞こえていた足音もやがて聞こえなくなって、気が付けば俺は村に戻っていた。
村の人々は春の陽気と祭りの熱と、そして冠に映った愛に浮かれて楽しげに喚き合っている。ついさっきまで彼処に居た筈なのに、今の俺は酷く場違いで。そう考えた所で俺の中にある意地みたいな物が俺の身体を勝手に突き動かし、俺はその輪の中にふらふらと入り込んでいく。
皆俺には目もくれず相手と幸せそうに微笑み合う。当然だ。俺の認識阻害薬は凄いのだから。俺の事が分かる奴なんて居ない。…本当の俺を知ってる奴も、居ない。
どんっ。
人でごった返す広場で俺の肩と相手の肩がぶつかり、少しだけよろめいた。
「あ…すみません」
そう言って再び宛もなく歩き出す。
…筈だった。
「あの、腕、離してくれませんか」
ぶつかった拍子に俺の腕を布越しに力強く握り締める手。見てくれから察するに男。…今は殊更ナンパの気分じゃない。苛立ちながら振り返って男の顔を見た。見てしまった。
あぁ、祭りなんて来なきゃよかった。
「見つけた。僕の…オルタ」
そう言って口の端を歪める男は、あの時からちっとも姿が変わらない。
黒い森の魔術師、レオンス。
途端に全身を寒気が駆け巡り、息が浅くなる。
「あぁ、迎えに来るのが遅くてごめんね」
俺が師と仰いでいた時と、何も変わらない笑顔。でも、あぁそうか。ずっとその瞳は笑って等いなかったのか。
「オルタンシアを悲しませたくなかったんだ。もし、メルフィンの子孫に逢おうものなら…耐え難い事を二度も我慢できないでしょう?あぁ、オルタンシアとメルフィンについては知ってる?…その様子だと知ってるみたいだね。いつか話したんだっけ…まぁいっか、そんな事」
一方的な言葉に俺は動けない。怖い。気持ち悪い。体が動いてくれない。
「さぁ、帰ろう?オルタ…」
腕を振るってみても力が入らずびくともしない。怖い。そんな俺が情けない。
「お、俺…は……」
いつの間にか俺達の周りでは尋常でない様子を察した村人達が円を描く様に俺達を観察していた。でも、そんな事も俺の脳に残らずすり抜けていく。そこに確かに存在している筈の村人達のざわめきも、今の俺には拾えない。
しかし、決して大きくないその声だけは何故か鮮明に聞き取れた。
「アンブローズ…様?」
その声に俺も レオンスもぱっと視線を向ける。
其処には見間違える筈もなく、フランチェスカがいて…
「あいつに手を出すな!!」
俺が叫ぶのとフランチェスカの目の前に二つの鉄の塊が現れるのは同時だった。一つは美しくも悍ましい鉄の刃。もう一つは、その刃を受け止めた禄に形も定まっていない盾の様な物。
荒い呼吸を繰り返しながら、安堵の息を吐く。そこにはフランチェスカを護る事が出来たという安堵と、レオンスに対抗出来たという安堵が混じっている。
それは何よりの自信となって俺を突き動かしてくれる。
「…俺の家は、アメシスの森だ」
俺は、もう、大丈夫。
「俺はお前とは行かない。俺の居場所は、アンブローズの人生は…誰でもない俺自身が決める」
レオンスの真っ黒な瞳から目を逸らさずにそう言い切る。それと同時に腕を引くと、呆気なくレオンスの手は外れた。
当のレオンスはずっと浮かべていた笑みを消し、無表情でその場に立ち尽くしている。彼が真っ白な指を上げれば、その指先は力無くフランチェスカを指し示しす。
「その色、メルフィンのだろう…オルタ、そいつを庇うんだね」
「お前らの色恋沙汰に俺達を巻き込むな」
「どうしてそんな事を言うの?…あぁ、やっぱり、そいつのせいなんだね」
「フランチェスカは関係ない。これは紛れも無く俺の意思だ」
「君も、僕を選ばないのかい?」
「俺は誰の事も選んでなんざいない」
噛み合っている様でズレていく問答の中、レオンスはふらりとその姿勢を崩した。瞬き一つした後、その瞳は俺を見てはいなかった。
「…またお前が持って行くのか、メルフィン。オルタ、オルタ、僕のオルタンシア…」
その姿に足元から嫌な予感がずるずると這い上がってくる。そっとフランチェスカを背に隠す様に距離を取る。だが、それが不味かったのだろう。
再びその目の焦点が合ったかと思えば、いつも完璧で柔和な笑みを浮かべていた彼は初めて苦しそうに、本当の人間の様に笑った。
「君だけは、譲らない」
鮮血。続いて、重い音。
体の中心から広がる赤の中で地に伏す黒衣の男を見下ろしながら、俺は心臓が握り潰されるような感覚に襲われていた。
“ような”?いや、違う。この痛みは…
本当に、握り潰されてる。
「…っ、うぐ…」
膝を付いてその場蹲っても痛みは増すばかりで、額に汗が浮かんでいくことが分かる。真正面を霞む目で睨み付けると、その男は満足気な顔のまま虚ろな目でこちらを見つめていた。
そうか、これが、呪いの核。
気付いた所でもう遅い。遠ざかる意識を追い掛けても掴めない。
悔しい。悔しい悔しい悔しい!
あと少しだったのに…俺は……。
冷えていく体と壁を隔てた向こう側。フランチェスカの声が聞こえた気がした。
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