名探偵とは……。
推理ものの作品において、手に入れた情報や証拠を元に推理し、真実を導き出す存在。
……の筈だ。
「何なんだよこれ?」
見るからに探偵と分かる格好をした男が、驚いた顔で呟く。
目の前には、地面に座り込んだ見知らぬ少女……。
その奥には男が追っていた迷子犬が見える。それだけなら何もおかしな所はない。
男が驚きの表情を浮かべていた理由、それは彼がいた場所が原因だった。
レンガで舗装された見渡しのいい平坦な地面。よく見ると、それは不自然な形で途切れ、見るだけで呑み込まれそうな暗闇がその先に広がっていた。不自然な光景はそれだけではない。
虹色のグラデーションがかかった空。そこには首輪や、骨らしき巨大な物体がフワフワと浮かんでいる。
名探偵という言葉とは最も遠い――高熱が出た時に見る夢のような、そんなおかしな場所……。
だが、この場所こそが、やがて国すら謎解く最強の名探偵――その誕生の場所だった。
◇
そこから、時間は少し遡り……。
――ゴーン、ゴーン。
礼拝の開始を告げる鐘の音が、町に響き渡る。
ここは王都、ゾディアック。王族が治めるこの都市は、この国の中でも最も大きな町だった。
そんな町の一角、小綺麗な建物が並ぶその路地にそれがいた。
一心不乱に走る首輪を付けた犬――それとは犬の事ではない。その後ろ……。
紺色のスーツに、ブラウンのインバネスコートとディアストーカーハットという装い――誰がどう見ても探偵だと分かる格好をした背の高いその男が、探偵服とは不釣り合いな綺麗なフォームで犬を追いかけていた。
体格のいい男の足元は素早く動き、既にアニメのワンシーンのように残像で足が何本にも見えている。犬が一心不乱に逃げていたのは、そんな人間が怖かったのが理由の1つなのは間違いない。
前を走る犬が、速度を更に上げる。必死に逃げようとするのも納得の速度で、その男は犬との距離をぐんぐん縮めていく……。
一見して1人と1匹の距離はまだある。だが……。
――そう思った瞬間、男は犬を既に捕まえていた。あった筈の距離は即座に詰められ、男は犬の下へ一瞬で追い付く。それは彼が明らかに普通の人間ではない事を示していた。
「悪いな。直ぐに飼い主の元に……って、あ! 待て!」
先程出していたスピードが嘘のように、少し暴れられただけで男は犬を逃がしてしまう。
「あーーっ!!これで3回目! ……やっぱこれ調整しにくいな」
自らの手を見ながら、男が呟く。彼の体はうっすら青色の光に覆われていた。
「お前を捕まえないと今日は食事抜きになっちまう! 待ってくれ犬ころぉ!!」
彼はこの一週間、毎日パンの耳しか食べていなかった。そのパンの耳ですら、昨日最後の一切れがなくなったところだ。
「パンの中身を食べたい! いや、この際耳だけでもいいから俺に食べさせてくれぇ!」
切実な叫びが町に響く……。
しかし、犬からすればそんな話は知ったこっちゃない。
それから何度も犬は男に捕まったが、その度脱走を果たしていた。通りの角、橋の下、植木の上、場所はそれぞれ違ったが、犬はいずれも決まった方向へ向かう途中で毎回捕まっていた。
そして今度は水路の上で捕まり……。
「あっ!」
男の叫びと同時、彼の体を覆っていた青い光が消えた。水路を飛び越えようとした犬へあと一歩手が届かず、彼は水路に落ちる。
「俺の一張羅がぁぁぁ!!」
幸い水路は深くなく、コートがお尻ごと酷く濡れたぐらいで済んでいた。
「クソッ! また待つしかないか」
水路から上がり、男は遠くへ走っていく犬を追いかけていく。その速度は、先程までのスピードが嘘のように遥かに遅くなっていた。
「ずーっと逃げ回って、アイツは何がしたいんだ?」
犬に離されないように走りながら、彼は考える。
「そういや、あの犬ころを捕まえたのって……」
路地や通り、橋の下など、場所こそ全て違ったが、犬が向かおうとしていたのは皆同じ方向だった。
ただ逃げようとしていた訳じゃない――ここから導き出される結論は……。
「ハッ! そうか!あの犬もしかして……」
顎に手を当てていた男が、分かったと言わんばかりにポンと手を打つ。
「お腹が減ってるんだな!」
それはお前の話だろ!という結論に辿り着く男。彼には壊滅的に推理力がなかった……。
「……なら何か食べ物でも」
彼は犬を追い掛けながら、コートのポケットを探る。勿論そこには食べ物もお金もない。
「ひ、ひもじい……」
男が悲しげな呟きを漏らしたと同時。
「きゃあ……!」
「何だ?」
少女らしき悲鳴。
――それが聞こえた瞬間……。
今まで軽く犬を追い掛けていた男が速度を上げる。悲鳴は、遠くに見えていた犬が今入っていった橋の下から聞こえてきた。それに併せるように淡い光もそこから見えていた。
「さっきもここ通ったよな? ……あれ?」
先程よりも深い水路の上へ作られた橋の下、通り道と点検に用意されたその細い道に――それはあった。
男が怪訝な顔をしたのは、今しがた犬を捕まえた時にはそんな物がなかったからだ。橋の下にある道の真ん中、そこにピンク色のドアがポツンと立っていた。
「こんな物あったか? それに……」
逆側に回ってみるが、見る方向を変えても何処かに繋がっている事はなく、ただドアがそこにあるだけだ。
「ハッ! そうか、分かったぞ!」
再び何かを思い付いたようにポンと手を打つ男。
「これは未来から来た猫型ロ……」
何も分かっていなかった。
「……いやそんな事より。さっきの悲鳴」
声の主はそこには見当たらない。犬も見失ってしまった。間違いなく今日のご飯は空気になるだろう。しかし……。
「助けを求める人へ、手を差し伸べるのが……」
男は、その得体の知れない扉のノブに手を掛ける。彼には何か確証があった訳ではない。だが、何となくだが先程の悲鳴と、このドアが関係ないとは思えなかった。そして……。
まるでその行動が当たり前だと言うように、彼はその扉の中に迷わず入っていく。
橋の下に突然現れた不思議なドア。
一目見て、何処にも繋がっていないのが分かるそのドア。
それを通ったはずの男の姿は見当たらない。扉の逆側にも、勿論周りにも……。
ただそこには――1つの扉が立っているだけだった。
◇
「何なんだよこれ?」
扉の先に広がっていたのは不思議な空間だった。足元は男が今まで立っていた整備された路地の地面と変わらない。だが、空には……。
「骨に首輪? なんだってこんなもんが」
虹色にグラデーションのかかった空に色々な巨大な物体が浮いている。男が手を伸ばしてみると、それらは手をすり抜けていった。まるで……。
「映像?」
「ワンッ!」
「え?」
そこにいたのは、男が見失ったと思っていた迷子犬だった。そしてその犬の前にいたのは……。
「大丈夫か!」
地面に座り込んだ少女がいた。
「さっきの悲鳴はお前か? 怪我はな…………」
……いか?と聞こうとした所で、男は言葉を詰まらせた。その理由は目の前にいる少女が不思議な雰囲気を持っていたからだ。
彼の目から見て、少女の見た目は10代前半に見えるが、彼女からは何故かその見た目より遥かに幼い雰囲気と、それとは真逆のもっと大人びた雰囲気、両方が感じ取れた。
男は頭を振って、その不思議な感覚を頭から追い出し、少女に近付きながら続ける。
「怪我はないか?」
白のワンピースに、背中まで伸びた綺麗なストレートのオレンジ色の髪を持つ可愛らしい顔の女の子。
何故か裸足のその少女は、ビー玉のような綺麗なその瞳で犬を見ながら可愛らしい顔を驚いた表情へ変えていた。
その顔には先程のような不思議な雰囲気はなく、見た目相応の少女らしい表情そのものだった。見たところ彼女の体には傷らしき物もない。
「あなた……は……?」
「俺の名前は、め……コホン! 平真だ!」
「へいま……?」
「あぁ。お前、名前は?」
「私は……」
少女の目線が平真のズボンへ移る。つい先程水路に落ち、尻まで濡れた彼のズボン……。
「漏らした……?」
「漏らしてねえよ! これは水だっ!!」
「……」
「ほ、本当だから! だからその目やめろ」
そのつぶらな瞳を疑うような目に変える少女に、平真はズボンを隠しながら話を続けていく。
「それより、名前は?」
「私の名前は……」
少女は目を閉じて考える。暫くして、ゆっくりと目を開いた彼女の表情は、不安そうな顔へと変わっていた。
「分からない……」
「分からない? それってどう……」
「ワンッ!」
「は?」
迷子犬が自らを無視して喋り続ける2人へ、自分の存在を示すように大きく吠えた瞬間……。
――水面から飛び出すように、地面から人ではない化物がいきなり現れた。
「こんな町の中心で魔物!?」
「……」
王都であるゾディアック、この都市はぐるりと分厚い城壁に囲まれ、各所に国家魔道士も配置されている。そんな堅牢な守りを突破して町に入ってこれる魔物など、平真は今まで出会った事がなかった。それに……。
「こんな奴ら見た事が」
突然現れた5匹の魔物……。町の近くに出る魔物とは何度か対峙した事がある彼にとって、目の前に突如として現れたその魔物達は、初めて見る姿をしていた。
犬のような見た目だが、その手足に付いた鋭い爪まで魔物の体は白く染まっている。何より不気味なのは、黒く発光した幾つもの文字や幾何学模様がその体に浮かんでいる事だった。
「ワンッ!」
「きゃっ……!」
迷子犬が再び吠えたと同時、少女に向かって魔物が一斉に襲い掛かる。その鋭利な爪が少女の肌を切り裂く……。
――事はなかった。
魔物が動くのと、平真が飛び出したのは全く同じタイミング。
迷いなく少女を左脇に抱え、襲い掛かって来た1匹目を右足で真上に蹴り上げる。左右から遅れて飛び掛かる2匹目、3匹目は後ろに二度飛んで避けた。蹴られた1匹目も体勢を立て直し、合流した3匹は平真達と距離をとる。
「ありがとう……」
少女は、平真が見知らぬ自分を迷わず助けた事に驚きながらお礼を伝える。
「当たり前の事をしただけだ」
それに笑顔で返す男。
「えーっと、とりあえず少女」
「何……?」
「捕まっとけ、走るぞ」
「分かった……」
平真は少女を抱えたまま踵を返して走り出す。向かう先は……。
「逃げたもん勝ちなんだよ!」
平真が入ってきた扉。幸い距離はそれ程離れていない。迷子犬を追い掛けていた時と比べると彼の速度は落ちていたが、それでも迷いなく扉に向かうその背中に魔物は追い付けなかった。
「……パンの耳は惜しいが」
「耳……?」
平真はドアノブを握ったまま後ろを振り返り、迷子犬を確認する。不思議な事に現れた魔物達は犬を襲う気配はない。それ所か、5匹の内の2匹はまるで迷子犬を守るように左右に鎮座していた。
「もしかしてこれって、あの子が……?」
抱えられたまま少女が呟く。
「何? ……まぁ、今はそれはいい!とりあえずどうするかは逃げ出した後に……」
――ガチャ。
「……」
――ガチャ、ガチャ。
「開かねぇぇぇぇ!!」
彼は負けた……。
平真がどれだけ力を入れてもドアはびくともしない。訳の分からない空間に、見たことのない魔物達、そして鳴り響く平真の空腹を知らせるお腹の音。
もうどうしようもない状況に、平真は空いた腹を括った。
「時間までもうちょいか……」
平真が呟いたのと同時、彼等に追い付いた3匹の魔物達が次々に飛び掛かってくる。1匹目は前方から、左右にいる2匹がタイミングを計っているのが彼の目に映る。
「それなら!」
脇に抱えていた少女をお姫様抱っこに変更し、飛び掛かる1匹目の腹の下をスライディングしながら避ける。予期せぬ動きだったのか2匹目、3匹目の反応は遅れ、平真達にその爪は届かない。彼が移動したのは、5匹と迷子犬、全てが見渡せる位置。
「……それで、名前が分からないってどういう事だ?」
「どんなに思い出そうとしても、何も思い出せないの……」
「思い出せない? いつからなら記憶があるんだ?」
「大きな鐘の音で起きて、気付いたら橋の下で……」
「大きな鐘の音? この町で鐘の音っていったら大教会の……ってことは」
それは、平真が迷子犬を追い掛けていた時にも鳴っていた。
町の大教会で毎週一度開かれる礼拝。その開始と終了に二度鳴らされる鐘だった。
「いや、それついさっきじゃねーか」
「私どうしたら……?」
「まぁとりあえず、その話はここを解決したら幾らでも聴いてやる」
「ほんと……?」
お姫様抱っこをされながら、不安そうな瞳で彼を見つめる少女。そんな彼女に平真は笑顔で返す。
「あぁ、何たって俺は」
「……?」
「探偵だからな!」
「探偵……?」
「おっ、丁度良い!」
平真の体が一瞬うっすらと光る。少女を地面に優しく下ろし、彼は肩を回しながら近くにいた3匹の前に歩いていく。
「こいつら相手なら速だな」
先程と違い無防備に近寄ってくる平真。それを見て一瞬躊躇する魔物達だったが、結局飛び掛かる事を直ぐ様選択した。
「一点集中限界突破(ワンポイントオーバードライブ)」
彼の体が光で徐々に覆われていく。その平真に向けて3方向からの魔物の鋭い爪が襲い掛かる。
「速!」
――ガギン!
鋭い音が、辺り一面に響く。
その音は平真の体が切り裂かれた音ではない。魔物同士の爪と爪がぶつかり合った音。驚いた表情の魔物達が顔を見合わせる。それもその筈、そこにいた平真が一瞬にして魔物の前から姿を消したからだ。
混乱した様子の魔物達――その内の1匹が突然地面を転がった。
残った2匹が更に驚いた表情を浮かべたその横を、何かが高速で通り過ぎる。
それが先程まで自分達から逃げていた男だと気付いた時には、魔物達の体は既に地面に転がっていた。
「これぐらいの強さなら、この状態でも倒せるな」
地面から平真を見上げる3匹を見ながら彼が呟く。平真の体は青色の光に覆われていた。
「行くぞ」
起き上がろうとした1匹を右足で真上に蹴り上げる。先程より威力は落ちていたが、空中に浮いた魔物の体に、高速で動く平真の蹴りや拳が幾度もぶつかる。
「まずは1匹!」
空中に飛び上がった平真の振り下ろされた踵が、魔物の体を地面に叩き付けた。
「どうやら何とかなりそ……」
――うだな。と言葉が続く事はなかった。
それは、平真の踵落としを食らった魔物の体が、煙のように姿を消した瞬間に訪れた……。
「は?」
◆
「今日からお前はうちの子だ!」
ぶっきらぼうそうな男が、ゆっくりと頭を撫でてくる。その表情は何故か悲しそうだった……。
「あいつの分まで……」
◆
「今の、何……?」
少女と平真が驚いた表情を浮かべる。
唐突に現れた不思議な空間……。
そして、そこで見た2人の記憶にない不可解な映像……。
迷子犬を探すという簡単な依頼が姿を変え、平真と少女に襲い掛かる。
真実に繋がる扉は――今この時、開かれた。
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