テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
プロローグ:嵐の前夜
潮の香りが港町の空気を満たし、夕暮れの空は薄紫から群青へと変わりつつあった。灯台の明かりが一定の間隔で回転し、海面に細い光の道を描く。遠くの水平線には、重たく沈んだ雲が、海と空の境界を飲み込むように迫っている。
石畳の路地を、小さな足音が駆け抜けた。
「カイ、早く!」
振り返った少女の頬に、潮風で乱れた銀色の髪が貼りつく。リシア――この町で唯一、カイが心を許せる友だった。
「そんなに急がなくても、まだ陽は落ちきってない」
カイは笑いながらも、彼女の背中を追いかける。港の一番高い場所、古い防波堤の上から見える夕日が、二人のお気に入りだった。
そこに着くと、海はすでに金色から赤に染まり始め、波の端が夕陽を反射して煌めいていた。しかし今日は――その美しさの奥に、不穏な影があった。沖合の黒雲がじわじわと広がり、低い雷鳴がかすかに響く。
「……嵐が来る」
リシアが小さく呟く。
港の方から、誰かが二人を呼ぶ声がした。見ると、灰色の外套をまとった背の高い男が、防波堤の下に立っていた。年齢はわからないが、その琥珀色の瞳は深く、二人を真っすぐ見据えている。
「君たち……名前を預け合ったことはあるか?」
突然の問いに、二人は顔を見合わせた。
「名前を……預ける?」
「そうだ」男は歩み寄り、ゆっくりと話し始める。
「この町には古くから伝わる儀式がある。“名前の契約”と呼ばれるものだ。大切な者と名前を交換すれば、たとえ離れ離れになっても、必ず再び会えると言われている」
カイは半信半疑だったが、リシアの瞳には決意の光が宿っていた。
「やろう、カイ。……だって、もし本当に明日……」
言葉の先を言わず、リシアは唇を噛んだ。沖の雲がさらに近づき、空気が重くなる。
男――エルデは、二人を港のはずれの古い小屋へ案内した。
小屋の中、窓から差し込む夕陽が、木の机の上に二つの小瓶を照らす。
「互いの名前を、この瓶に封じる。そして、相手の瓶を持ち続けろ。名前は魂の一部だ。お前たちが生きている限り、必ずまた巡り会う」
カイとリシアは向かい合い、それぞれの名前を囁き、瓶に封じ込めた。封印が終わった瞬間、カイは胸の奥がぽっかりと空くような感覚に襲われ、自分の名前が霞んでいくのを感じた。
だが、不思議なことに――リシアの名前だけは鮮明に刻まれていた。
遠くで雷鳴が轟き、港の鐘が鳴り響く。
「急げ、嵐が来る!」
エルデの声に押され、小屋を飛び出す二人。しかしその道中、激しい風が吹き荒れ、視界が白くかすむ。カイが必死にリシアの手を掴もうとした瞬間――。
次の瞬間、彼の手は空を切り、リシアの姿は霧の中に消えていた。